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クラン・コラ Cran Coille:ケルト・北欧音楽の森 Issue No.317
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Editor : hatao
April 2021
ケルトの笛屋さん発行
oldfield 初CD が出来るまで:field 洲崎一彦
今回はちょっと宣伝みたいになってしまいますがご容赦ください。4月1日、プレスされてダンボール箱何箱かに詰められたoldfieldの初めてのCDが届きました!
oldfieldというのは、私スザキとフィドラーの功刀丈弘が年月だけは無駄に永くやってるアイリッシュユニットです。始まりはいつだったか、何を持って始まりとするのかは私達の記憶も曖昧でなかなか特定しにくいものがあるのですが、まあだいたい1990年ごろではないかというところで今は落ち着いています。
つまり、永さだけはざっと30年の歴史があるというわけですが、しかし、活動の中身と言えばスカスカで、まあ、存在はしていたけど何もやってないわなあというような感じのユニットです。
1990年と言えば、fieldがアイリッシュパブになる10年前ということになりま
す。すでにfieldはcoffee/gallery fieldとして現在の場所でいわゆる喫茶店を営業していました。そこに、京都市芸大音楽科の学生さんが出入りし始めてその中に功刀くんが居たのでした。私達は時折音楽の話題で盛り上がりました。というのは彼は音大生には珍しくロック好き少年だったのです。
当時のfieldでは、アコースティック音楽のライブをやり始めていたこともあり、功刀くんとその仲間に現代音楽風のライブをしてもらったり、パーティーでの演奏をしてもらったりしている中で、私がその時細々とやっていたロックバンドに彼を誘ったのでした。その時代はまだバイオリン音を電気で増幅するのにすごく苦労した思い出がありますが、その後、そのバンドはライブを1回もせずに消滅しました。結果的に残されたのが私と功刀くんという形になり、彼がヨーロッパの民族音楽にも興味を持っていることが判りました。その頃の私も、リスナーとしてはロックから遠ざかっていて、ハンガリーのムジカシュというバンドのレコードにはまっている時だったので、これを一緒に演奏してみないか?と彼に持ちかけました。今思えば、これが始まりですね。これが無ければアイルランド音楽に出会うこともなかったし、fieldがアイリッシュパブになる未来も無かったでしょう。
女性ボーカルを探して、功刀くんの仲間だったコントラバスくんも誘ったりして、ムジカシュのまねごとをやってみたり、トラッド色豊かなロックだったマイクオールドフィールドのチューブラーベルズをやってみようとか、いろいろと手を出してはfieldのパーティで演奏したりと、そんな事をしている内にまたメンバーが1人抜け2人抜け功刀くんと2人になってしまいました。その時に、何か新しいネタを探して来ようということになりました。その頃はネットもYouTubeも普及していない時代なので、探すと言っても、まあCDショップを巡って物色していくぐらいしか出来ることはありません。
が、その頃は、いわゆる、ワールドミュージックが流行っていた時で、いろいろな日本のレコード会社が世界の音楽を紹介するというようなシリーズを出していたのです。なので、輸入盤に頼らずとも、そういうシリーズが収まっている棚を丹念に見てゆけば、帯には日本語でだいたいの解説が書いてあったので何となく見当は付いたのです。
CDショップによっては、レコード会社のシリーズ毎にまとめるのではなく、例えば、「アフリカ」とか、「ヨーロッパ」とか、「アジア」とかの地域別で棚を設けている所もあり、私達が狙うのはもっぱら「東ヨーロッパ」と「西ヨーロッパ」の棚でした。そこで、それぞれが、大いなる勘を働かせて持ち寄ったCD。この時、功刀くんが持ってきたのが、ケヴィンバークの「アップクローズ」、私が持っていったのがドロレスケーン&ジョンフォークナー「さらばアイルランド」というCD。つまり、偶然にも私達は「西ヨーロッパ」の棚からアイルランド音楽をひっぱり出して来たのでした。
こうやって、私達は細々とそれらのCDから曲を選んでそのまねごとをし始めます。そうしている内に功刀くんは沖縄芸術学院のバイオリン講師として沖縄に赴任することになり京都を離れてしまいます。が、沖縄での彼はアイルランド音楽好きの米兵達と知り合って一緒に演奏活動をしたり、早々にインターネットにはまり、いろいろなアイルランド音楽の情報を仕入れては私に送ってくれるようになります。そして年末年始に彼が京都に帰省する際にfieldのパーティで演奏するというペースが続いた後、彼は沖縄から遠隔操作で京阪神でメンバーを募りその人達が次々にfieldにやって来ることになります。そして、功刀くんが帰省中の年始ギリギリのスケジュールで、ここに集まった6人編成でライブハウスでのライブに踏み切ることになります。
このライブでは、驚くべきことが起こります。私は確かにロックバンドばかりやって来ましたから、ライブハウスという所にはそこそこご縁があるのですが、まあ普通に無名なアマチュアがライブハウスに出ても、お客さんは知り合いとその友人あたりの広がりで精一杯です。が、この時のライブは違いました。小さなライブハウスではありましたが、開演前からもう満員御礼の状態でなおかつ、知らない人ばかり。。。ワシらこんな所で演奏するのか??と足ががくがくしたものでした。
私達は、アイルランド音楽をやっていると言ってもほぼ横のつながりが皆無だったために、アイルランド音楽に興味がある人達がこんなに存在すること自体が信じられない気分でした。今思うと、この頃は映画「タイタニック」でアイルランドのダンスと音楽が注目されたり、リバーダンスの公演が日本に上陸した直後だったのでした。そして、ここに、立命館大学の出前ちんどんを創設した連中や、ダンスをやっている人達や、金子鉄心さんなどもおられたわけです。
これをきっかけに、一気に横のつながりが出来て、セッションといものの存在を知り、アイリッシュパブというものの存在を知り、この年の5月にはfieldで初めてのセッションを行い、翌年の1月にはfieldはとうとうアイリッシュパブになってしまうという事態に発展するのでした。
このライブをした時に、便宜上このグループを「アイルランド音楽研究会」と名付けたのですが、功刀くんが沖縄に帰ってしまうとバンドとしての活動は次の年末まではお預けになります。それもあって、5月の初セッションはこのグループの残党と金子鉄心さんの協力によって実現するのですが、バンドとしては次第にばらばらになって行き、翌年のアイリッシュパブ後にはこの名称をサークルの名称としてスライドさせ、サークル「アイルランド音楽研究会」が発足します。
fieldがパブになった翌年には功刀くんが沖縄から居を移して本格的に京都に帰ってきたことで、私達はまたデュオに戻ってアイルランド音楽の演奏を再開することになります。これで自由に動くことができるということになったものの、私は出来たばかりのパブという仕事がありますし、週末の夜などは身体が自由になりません。つまり、ライブ活動などがばんばん自由に出来る状況ではありませんでした。なので、どうしても、自分の店でのライブやパーティでの演奏が主になるのですね。
やる気まんまんで帰って来た功刀くんにしてみれば、そういうモタモタしたペースでは飽き足らず、彼は彼でフィドラーとしての活動を広げて行くことになります。そして、彼は、ちょうどアイルランド音楽に興味を持ち始めた葉加瀬太郎氏にアイリッシュフィドルを指南するという大役をゲットしてしまったのです。ここから先の功刀くんの活躍は皆さんもご存じの通り目を見張るものがありましたね。
ここから、功刀くんのメジャーデビュー&プロとしての活動が始まり、東京、京都の往復生活が始まります。この間は、さすがに私達の演奏機会はまったく途絶えてしまうのですが、数年後に彼が京都に居を落ち着けて活動すると決めた後から、じょじょにまた一緒に演奏する機会が出て来るようになりました。活動は相変わらずfieldでのライブやパーティが中心で、秋口には大学の学園祭などにも行きましたが、月イチでfieldでのoldfieldセッションライブと称したゆるい演奏機会を定期的に持ち始め、それが、このコロナ前まで続きました。
そんな中、2014年ごろに、CDを作ろうという話が持ち上がり、field上階のfield studioにてレコーディングを始めることになります。ここは、いわゆる、ぶっちゃけて私にとっては使用料のかからないスタジオなわけです。言わば自宅でやっているに等しい。私達の時間さえあればいつでも何度でも録音が出来ます。ある意味、こんな環境で録音物を作るとその要求に際限が無くなって行くのですね。何度録り直しても満足行くものが録れないというドロ沼に陥って行くことになって行きます。
このレコーディングは翌年いっぱい1年以上続けて、結局は、その結果に満足できずに途中で放り出してしまうことになりました。
しかし、この5〜6年前の大量の録音データが去年2020年の飲食店休業要請期間にふとした事で見つかったのです。どうせ、時間はあるということで、ひとつひとつ試聴して行き、これは、ミックスで整えれば何とかなるのではないかと思われる録音を9曲拾い出しました。
ただ、それぞれが、録音した日にちもマイクの数やその位置、フィドルとブズーキを一緒に録ったもの、別々に録ったものなど入り乱れているものだったので、ミックス作業で各曲がある程度一定の聞こえ方をするように調整するのにちょっと手間取ってしまいました。それがようやくまとまったのが今年2021年の1月でした。
もしかしたら、もうCDは時代遅れなのかもしれません。しかし、そもそもはCDを作ろうという事で7年前にレコーディングを始めたのですから、ここは、やはり、CDにプレスしてケリをつけようと考えて、今回、CDを作るに至ったわけです。結成30年後の初CDです。
多くの人にはどうでもいいようなお話しを書き連ねてしまいました。ただ、自分の中には何かわき上がるこういう感慨があって、もはやアイリッシュパブとは言えないような実体になってしまったfieldに毎日身を置いている中で、なんとなく、自分とアイルランド音楽のご縁をたどって行ってしまうような、そんな象徴的と言うか記念物というか、製品になったCDを手に取った時にどっとあふれる何か。これを吐き出したかったのかもしれません。
このCDが陽の目を見るにあたって、素敵なライナーノートを書いてくださった、おおしまゆたか氏、hatao氏に心から感謝します(す)
oldfieldのCD”Dark Island”はこちらから通販で購入できます。
本体価格2,000円(税込)+送料で2,200円です。
oldfield評:hatao
oldfieldはパブfieldで開催されるパーティの定番の演目で、20年以上の歴史を持つfield名物おやじ達のコンビである。店外での活動はほぼしていないので、この音源を聴くまではただの大人の遊びだと甘く見ていた。それがとんだ見当違いだった。二人は真剣なのだ。
たとえばダンス曲を聴いてほしい。フィドルは恐ろしいまでのコントロールを効かせて高速で駆け抜ける。ブズーキはある時は煽りまくり、ある時は多弁にフィドルに仕掛ける。ブズーキはメロディに優しく寄り添う楽器だと思っていたが、こんなに攻めることができるのか。
二人の音楽は、メロディ奏者と伴奏者が互いを求めて出会ったのではなく、悪友たちがたまたま持った楽器がフィドルとブズーキだったと言わんばかり。そこにはパブ・セッションの緩みなどなく、油断するとこちらが殺られそうな抜き身の音のやりとりが繰り広げられる。これがoldfieldだ。スリルと興奮の30分で運ばれた先には、予想外の曲が用意されている。真剣に遊ぶ大人は、かっこいい。
ケルトの笛 hatao
Colleen Raney アメリカで伝統をうたう試み・その33:大島 豊
アメリカのケルト系シンガー、コリーン・レイニィの録音を聴くシリーズ。
5枚め最新作《Standing In Doorways》の第9回。Track #7: Fine Horseman。
7. Fine Horseman {Lal Waterson} 5:25
イングランド北部出身の音楽一家ウォータースンズのメンバー、ラルの作品で、〈The Scarecrow〉とならぶ代表作。
ウォータースンズはノーマ、マイク、ラル(エレーヌ)の兄妹に、かれらのいとこ John Harrison が加わった四声のア・カペラ・コーラス・グループとして1960年代半ばにデビューする。レパートリィはかれらの出身であるヨークシャーの伝統歌で、コッパー・ファミリーに代表されるイングランドのハーモニー・コーラスの伝統を若者世代として体現していた。イングランドではかれらのフォロワー・コーラス・グループが多数現れる。当時はフォークとロックの垣根が低く、近くでギグを終えたザ・フーがかれらのライヴを見にきた、という話も伝えられている。スティーヴィー・ウィンウッドがトラフィック《John Barleycorn Must Die》でとりあげた〈John Barleycorn〉も、ウォータースンズのヴァージョンが原曲と言われる。
一時、公の活動を停止するが、1970年代後半、ノーマと結婚したマーティン・カーシィを加えて再出発。さらに各々のソロ活動も始め、ノーマとマーティンの娘イライザの活躍によって、一族はイングリッシュ・フォーク界の無冠の王族にも比される。
ラルとマイクは各々に、また共作で優れて独創的な歌を作っている。これを集め、当時のイングランドのトップ・ミュージシャンを集めて作られた不朽の傑作が、下記 b。ここに収められた2人の歌は、どこにも類例の無い特異なキャラクターを備える。一方で、イングランドの伝統とは無縁に響きながら、イングランド以外からは生まれえない。どれも一聴忘れがたく、同時に捉えがたく、そして、この歌のように、謎に満ちる。生半可な解釈ははねつけられるので、これについて例外として歌詞を載せる。きれいなスズメ、きれいな騎士とは何か、それぞれに想像をめぐらされたし。
Sleeping in my bed,
Strange thoughts are running through my head.
And I dreamed you were
Playing with my hair.
Fine fine sparrow, fine fine horseman.
Rain falls and the wind roars,
All the folks were indoors.
As we came through a ford
Riding over the moors.
Like some fine flying sparrow and a fine fine horseman.
Your dreams among my dreams
Are blue seas among sunbeams;
Shades of yellow, shades of green
These are your dreams among my dreams
Fine flying sparrow, fine fine horseman.
Good morning likewise maiden and man,
My family’s dead, my heart is in the ground.
I have no land:
This is no time for a farming man
Nor a fine flying sparrow or fine fine horseman.
a. Anne Briggs, The Time Has Come, 1971
この歌を一躍世に知らしめたのは、アン・ブリッグスのこのセカンドだった。歌そのものの力は否めないものの、彼女がここでとりあげなければ、ここまで広まったかどうか。同時にこのトラックはこのアルバムの象徴的な位置にもある。
ほとんど限界まで遅く落としたテンポはむしろこの歌の無気味さを表に出す。
b. Lal & Mike Waterson, Bright Phoebus, 1972
このアルバムはフェアポート・コンヴェンション人脈とスティーライ・スパン人脈が一堂に会している。このトラックはマーティン・カーシィとリチャード・トンプソンがアコースティック・ギター、Clare Deniz のチェロ、SueKirkpatrick がオーボエ。ラルのリード・ヴォーカル。プロデュースは BillLeader。エンジニアは Nick Kinsey というのも豪華。
c. Silly Sisters, No More To The Dance, 1988
スティーライ・スパンのリード・シンガー、マディ・プライアとイングランドのディーヴァ、ジューン・テイバーによるデュオのセカンド。全盛期の六本木WAVE で2,000枚売れたという伝説のアルバム。数字自体は眉唾としても、火のないところに煙は立つまい。
プライアは上記 Bright Phoebus にも4曲参加している。
なお、左の低い方がテイバー、右の高い方がプライア。
d. Barbara Dickson, Dark End Of The Street, 1995
ポップスやミュージカル分野で、スコットランドではトップ・スターだが、アーチー・フィッシャーとの共作で伝統歌を唄ってデビューしている。共作2枚めの《Fate O’ Charlie》1970 はボニー・プリンス・チャーリーを押し立てたジャコバイト反乱にまつわる歌を集め、メルクマールとなった。フォーク畑のレパートリィに集中したアルバムを何枚か出しており、これもその一つ。ポップスの王道で歌いながら、伝統歌の薫りを保ち、スコットランドの気品にも満ちる、なかなかに得難い存在。メアリ・ブラックがアイルランドの伝統歌においてやったことを、スコットランドで実現していた。ビートルズやディランのすぐれたカヴァー集もある。
このアルバムはダニィ・トンプソンのベースにデイヴ・マタックスのドラムスという英国最高のリズム・セクションに、ハモンド・オルガンはリンディスファーンのジョン・ラビット・バンドリック、リード楽器がピート・ゾーン、イリン・パイプにトロイ・ドノクリィ、フィドルはトム・マッコンヴィルで、ハーモニー・コーラスにロバート・ワイアットという、豪華というか異色というか、他ではちょっと見られない組合せ。メジャーとアンダーグラウンドを区別なく採用するあたり、この人の立ち位置が現れている。
e. Dick Gaughan, Redwood Cathedral, 1998
スコットランド・フォーク・シーンのゴドファーザー。類稀な声を自在に駆使する歌と、同じく並ぶ者のいない技とアイデアのギターで、峻厳で美しい音楽を生み出す。かれとしては珍しくいつくしみを込めた抒情の極みと言える演唱。この歌のひとつの極限ではある。
f. June Tabor, Always, 1998
こちらは鬼気迫るテイバーのソロ。Huw Warren のミニマルなピアノはジャズの土台を敷き、徐々に加わる管楽器群、ヴァイオリンもミニマルなジャズまたは現代音楽の趣。そこにあってテイバーもまた手中の珠を磨くようにうたう。この歌はこういう歌唱を引きだす。
1998-10-04、ロンドン, the Purcell Room でのライヴ。回顧ボックス《Always》2005 に初収録。録音者が Paul Sparrow という名であるのは偶然だろうが、どこか無気味でもある。
ボックス付録のブックレットのインタヴューでテイバーはこの歌について、ベルイマンや日本の映画のイメージが見えるという。日本の映画が何を指すのかは判然としないが、つまりは彼女にとって非日常的ということだろう。
with Creative Jazz Orchestra
Huw Warren: piano
Mark Emerson: viola
Oren Marshall: tuba
Richard Iles: trumpet
Iain Dixon: clarinet
Alan Tokeley: French horn
g. Lucky Bags, Delight In Disorder, 1998
イングランドの女性カルテット。ウォータースンズの精神をイングランドのフォーク・ミュージックとして正統的に受け継ぐとこうなるだろう。ソロで歌いだし、徐々にシンガーが増える。奔放に自由に奏でるフィドルがまさに雀のように、またフェアリーのように舞い踊る。
メンバーは
Judy Dinning
Liz Law
Julie-Ann Kay
Zena Tubmen
の4人。3人がリード・ヴォーカルをとり、合計11種類の楽器を操る。このアルバムでは Stewart Hardy、Simon Haworth、Jez Lowe、Paul Martin が楽器でサポートする。
この歌でのリードは Judy Dinning (1953-2013)。
h. Dayteller, Shining Bright, 2002
ラルとマイクの曲を様々なミュージシャンがカヴァーしたオムニバス収録の1曲。ウードとアラブ打楽器をフィーチュアし、アラブ風の演奏と展開をバックに男性シンガーが朗々と歌う。離れ業を見事に決めている。こういうことも可能なのだ、この歌は。
i. Colleen Raney
コリーンの声とスタイルはこういう歌が最も合うのではないかと思わせる。彼女の録音ではまるで別次元の、最も冒険、実験的なバックも世界を広げる。ハンツはここでは尺八を吹いて、気温と湿度を下げている。
名曲は名演を引き出すものだが、これほど質の高い演奏ばかりが並ぶのは、まず例があるまい。どれをとってもそれぞれのシンガーの歌唱としても1、2を争う名演名唱ばかりだ。アメリカ人でこの歌をとりあげるのは珍しいが、コリーンの歌唱はブリテンの名シンガーたちのそれとならべても互角の出来。おそらく彼女としても会心の1曲ではないか。以下、来月。(ゆ)
木製アイリッシュ・フルートの手入れ:村上亮子翻訳
編集後記
原稿が不足しがちな本誌に、寄稿してやっても良いぞという愛読者の方はぜひご連絡ください。
ケルト音楽に関係する話題、例えばライブ&CDレビュー、日本人演奏家の紹介、音楽家や職人へのインタビュー、音楽旅行記などで、1000文字程度までで一本記事をお書きください。
頻度については、一度にまとめてお送りくださっても構いませんし、毎月の連載形式でも結構です。
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