ブズーキの話からしばし脱線(昔話):field 洲崎一彦


出典 Irish PUB field

ライター:field 洲崎一彦

前回からの続きです。1998年の後半に、私は初めてブズーキという楽器を手にしました、という所で前回は終わっていましたね。実は、これですんなり、めでたしめでたしとは行かないのです。ここからまた色々と始まるのですね。このブズーキという得体の知れない楽器とともに私のアイルランド音楽人生がぬるぬると始動するのでした。

この1998年という年は、いろいろ決定的なことが起こりました。少しブズーキの話から外れますが、この時代を語るのに避けては通れないエピソードが多いので、しばし、お付き合いください。

ますは、この年の秋頃から功刀くんが沖縄からの遠隔操作で、京都でアイルランド音楽を演奏しそうなメンバーをものすごい勢いで探し始めます。彼が何を思ってこの時こんなにやる気を爆発させたのか、後にもあらためて聞いたことがないので、今度いっぺんゆっくりたずねてみたいものです。しかし、これが全ての始まりだった。

今のようにメールやSNSがまだ一般的ではなかったことを思うと、この時の彼のエネルギーはすごいものがありました。そして、間もなく、フィドル功刀、ギター&ブズーキ私、以下、フルート、ボーカル、アコーディオン、バウロンというメンバーがかき集められました。

私にも、誰か心当たりのある人がいれば声をかけてくれと矢のような指令が沖縄から飛んで来ます。そして、私がゲットしたのが、元ロックドラマーで関西ジャズ界にも乗り出してアフターファイブミュージシャンをしていたドラマー君に通販で一番安価に入手できるバウロンを支給してバウロン奏者に仕立てる。元ロックキーボーディストでロックやポップスのバンドでマルチに活動していたキーボーディストさんはすでに鍵盤アコーディオンを持っていたので、そのまま勧誘、というような案配。

功刀君の方は、日本民謡の歌手をまず口説き落とし、邦楽の篠笛奏者がアイリッシュフルートと同じD管にあたる篠笛を持っているというだけでこれを説得(当時、本物のアイリッシュフルートも入手しにくいものでした)、という、相当強引な勧誘活動でもって、6人編成のバンドがでっち上げられたのでした。そして、またたく間にアルタンやダービッシュのCDから課題曲を集めたテープが全員に行き渡るのです。

功刀君はこの年の年末に京都に帰省するわけで、沖縄に戻るぎりぎりの正月5日にどっかでライブできる場所はないか?と。私は大学軽音時代の後輩が経営するライブハウスに無理を言って(本当はここは正月6日からの営業だった)ブッキングを決めてしまいます。これで、メンバーのお尻に火が付く。功刀君が京都に帰省した年末押し詰まった2日間に招集がかかり、練習また練習!年が明けたらすぐにライブ本番ということになります。

そうです。このライブです。これがその後の全てを変えたと言っても過言ではありません。この時のバンド名が、まあ適当につけたわけですが、「fieldアイルランド音楽研究会」。

私も学生時代から細々とロックバンド人生を歩んできましたからライブハウスで演奏するという機会は何度かありました。しかし、まあアマチュアのバンド活動ですから、ライブハウスで演奏すると言ってもまわりの知り合いに必死に声をかけてなんとかかんとかお客さんを集めるのですが、そうそう集まるものではありません。毎回、本番の日は客席の様子とライブハウスのオヤジの顔色を見ながらヒヤヒヤする。それが、私にとってはライブハウス活動というものでした。

しかし、この時は違った。リハを終えて控え室に居る時から何か様子が違う。表がわいわいがやがやと騒がしいわけです。回りの店で何かイベントでもやってるのか?と思いきや……。なんと! ライブハウスの客席が埋まってる。立っている人もいる。それが、ほとんど知らない人ばかり!

今と違ってネットでの宣伝手段などまだありません。簡単なビラを作って数店の知ってるお店に置いてもらったぐらいのことしか宣伝などしていなかったのに。この時代とタイミング。これほどまでにアイルランド音楽を渇望している人達がいたということなのです。まったく予想もしていなかったので本当にびっくりした!と共にびびった!

あとで、判るのですが、その後、fieldがアイリッシュパブになった後に知り合うアイルランド音楽を愛好するいろいろな人達のほとんどが、ここに居合わせていた。この時に初めて交流し知り合った人達の中で、特に金子鉄心さん、立命大民族音楽サークルの若者たちとの出会いは、特に私のその後の人生を決定づけることになるのです。

さて、これが1999年の年明けです。このライブが終わると親分の功刀君は翌日にもう沖縄に帰ってしまいます。が、残った私たちメンバーはなんとなくこのライブの興奮を引きずっています。全員、アイルランド音楽にはまりかけている状態です。そんな時、ボーカルのお姉さんが大阪のレストランでの演奏の話を持ってくるのです。

親分がいないのに何も演奏できないよ。いや、この曲ならできるか?とか、寄り集まってうんうん考えて、この曲は出来る、これは難しいと言ってる間に何曲かまとまってくる。よし!やろうやないか!と、功刀親分抜きで「アイルランド音楽研究会」は活動継続となりました。が、その後が続きません。と、いうのは、私以外はそれぞれ、メインとなる別の音楽活動がありますから、だんだんと雰囲気はバラけて行くことになります。これが、1月だったか2月だったか。

その後、

そんな時に、お正月のライブで知り合った金子鉄心さんが、その時はまだカフェだった当店においでになった。えんえんとアイルランド音楽の話に花が咲く。と言っても私が一方的に教えてもらっているような状態です。ここで、初めて、京阪神にけっこうこの音楽を演っている人たちが居るという事実を知るのです。

そうなんです。私たちはこんな音楽に興味のあある人なんてめったに居ないと思い込んでいた。だからこそ、ライブの時に知らない人ばかりで客席が埋まっている光景に度肝を抜いた。前年の大ヒットした映画タイタニックでアイルランドのダンス音楽が注目されたことも知らなかった。ゲーム音楽にアイルランド音楽が使われていたことも知らなかった。あくまで、自分達の密かな趣味だと思っていたわけです。

ここで、金子鉄心さんが、お店をやらているのだから、セッションをされたらどうですか? ……ん?セッションって何ですか?んーと、セッションというのはですね。んーと…………。今度、私、大阪のとあるお店のセッションに行くのですが、ご一緒しませんか?と、誘っていただいた。まあ、話すより見るのが早いということなのですね。はい。そこで、私は金子鉄心さんに教えてもらったその大阪のお店に、指定された時間に恐る恐る行ってみるのでした。

そこは、いわゆるパブではなく、確か、インド料理屋さんのようなお店だったと記憶しています。一角の大きめのテーブルに楽器を持った人々が座っていて、すでに演奏が始まっていました。どなたがおいでになっていたのか、今となっては金子鉄心さん以外の方々を覚えてはいないのですが、私は見学のつもりだったので楽器は持っていかなかった。何故、楽器を持って来ないんですか?と突っ込まれたような記憶があります。セッション? はっきり言って、見ても何をやってるのかぜんぜん判らなかった。

それから、後日また、金子鉄心さんとお話しをしていて、とりあえず、ここでいっぺんセッションをやってみましょうよと。ここというのはカフェfieldのことです。はあ。では、どうしたらいいのでしょうか?

私は私の知り合いを呼びますから、スザキさんはまずはお正月のライブの時のメンバーに声をかけてください。と、まあ、こういう具合に話が進んで、当店でアイリッシュセッションを行うことになります。

そして、確か、もう、5月ごろだったか、第1回fieldセッションの当日です。金子鉄心さんは、アイルランド音楽の先生に声をかけておきましたから後でお見えになりますとのこと。セッションのやり方はこの方に教わればいいと。

その先生が登場されるまでの間は、私が声をかけた「fieldアイルランド音楽研究会」のボーカルと笛とアコーディオンの4人で、とりあえず、ライブの時のレパートリーをぽろぽろと演奏するのですが、金子鉄心さんはこの演奏には入って来ません。ん?こんな、バンドのええかげんな練習みたいなのでええのんか?これで、セッションやってることになんるのんか?と、だんだん心細くなってくる。

そんな時に、先生が登場するのでした。そして、この方こそが、イーリアンパイプを携えて登場した原口トヨアキさんだったのです。じゃーん!

イーリアンパイプ!私は生で見たのはその時が初めてです。というか、その存在自体も知っていたかどうか今となっては怪しい。しかし、その独特の音色と演奏操作されているお姿は、いかにも、アイルランドの民族音楽という感じに満ちあふれていて完全に圧倒されたのを覚えています。

原口さんが登場されるまでは不安に包まれていたセッションでしたが、原口さんが登場するやいなや、そのイーリアンパイプと金子鉄心さんのホイッスルが次々にダンス曲を繰り出して止まらない!そう、その時は本当に止まらない!と感じたものでした。

は、は、原口先生!こ、こ、これがセッションと言うモノなのですか!?

はい。短いダンス曲を3回以上繰り返してメドレーのように次の曲に移るのです。それを決める中心になる人がいて、他の人はその人の出す曲に従います。つまり、一定数の曲をあらかじめ覚えておかなければならないのです。

がーん!そんなことしてるなんてまったく知らなかった。ダービッシュなどのCDに入ってる曲はそういう風につなげてあったものか!私はたちは、それを1曲だと思っていたものですから。びっくりですね。途方に暮れた顔をしていたのでしょう。原口先生には、こういうCDを聴いて曲を覚えたらいいですよ、と、ボシーバンドを教えていただいたのを今でもはっきり覚えています。

こうして、記念すべきfield第1回セッションが終了したのでありました。

このセッションは、だいたい月1回のペースでおこなわれることになります。「fieldアイルランド音楽研究会」メンバーも、ボシーバンドのCDなどから曲を覚えたり、のろのろペースですが、それなりに頑張ります。が、ここに、1人また1人と徐々に新しい参加者たちも増えて来るのですね。その中心になるのが、立命大民族音楽サークルの若者達でした。彼らの中には、実際にアイルランドに渡航して本場のパブでセッションを体験して来た猛者などもいて、セッションが雪崩を打ったように、原口さんが語られていたセッションというものに近づいていくかの様相でした。そんな中で、もはや秋になっていましたが、セッションを月2回に増やした頃に、立命大サークルの若者とバンドを組んでいた、後に「アイ研ぶちょー」となるIさんが登場することになります。

1999年お正月の「fieldアイルランド音楽研究会」ライブで始まったこのムーブメントは、その親分の功刀君が沖縄に帰っている間に、あれよあれよと、こんな展開になって行き、ここfieldにアイリッシュセッションが成立しようとしていたのです。

ここからは、過去にも色んなところに何度も書いたエピソードになるのですが、セッションに集まる人々の中から、瓶や缶ではない生のギネスビールが飲みたいという声が大きくなります。その頃はまだ今ほどポピュラーでないギネスビールの、日本代理店だったサッポロビール社と交渉を重ねることになります。当時のギネス社の販売基準というのが非常に厳しいもので、当店の売ってくれ申し出は初めはあっさり却下されてしまうのですが、半ば、売り言葉に買い言葉で、それなら、当店をアイリッシュパブにリニューアルします!と、口走ってしまった。これをきっかけに、fieldは、2000年1月に、京都初のアイリッシュパブとして(結果的にそうなっただけ)、未知の世界に足を踏み入れることになるのでした。メデタシ、メデタシ汗。

そうなんです。「Irish PUB field」 の前にバンド「fieldアイルランド音楽研究会」=「アイ研」があったという事実。たぶん今では誰もが忘れてしまっている事実です笑。(す)