いくらザンゲしてもザンゲし過ぎることはない:field 洲崎一彦

ライター:field 洲崎一彦

前回は、不本意ながら再びリズムの話をしますということで、いろいろと書いたのですが、やはりというか、そっちから来たかというか。意外な方向から反撃が来てうろたえているところです。

以前、私は方々で音楽に関して実にややこしい話を書き散らし、わめき散らしてきたというのは前回も吐露したとおりです。つまり、その頃に私の周りにいた人達は一番その風当たりを受けてきたということになります。そして、それでも、今もまだ私の近くに居てくれる人達は、それでも去っていかなかった奇特な人たちであるわけです。どれほど感謝しても感謝しきれません。

それほど私にとって有難い限り人のひとりが、前回のクランコラを読んでだまされたような気分になりました、と言って来たのです。今さら、何がお友達が作りたい、ですか!そんなこと言わないでください!と。

う。。。

彼は学生時代にウチに出入りするようになってアイリッシュはもとより他ジャンルまで視野を広げて音楽活動をしようとしていた夢多き若者でした。その彼に、
「キミはライブをやりたいやりたいというが、その理由はなんや?」
「・・・・音楽をしていたら自然に人に聴いてもらいたくなるでしょう?」
「なんで人に聴いてもらいたいのや?」
「いや、、、頑張って練習したし、、、誰か聴いてくれないかなあ、、と」
「キミな」「キミの音楽はそんなにいいのか?」
「いや、自信はありませんけど。。」
「自信ないもん人に聴かせてどないすんねん?」
「でも、みんな音楽やってる人はライブしてるじゃないですか?」
「あれがやりたいのか?」
「ライブってかっこいいしモテるかもしれないじゃないですか」
「あれがかっこええのか?」「あんなんはほとんど暴力みたいなもんや」
「暴力?」
「音楽なんて一歩間違うたら暴力や」「それが証拠にピアノの音がうるさいと言って殺人事件さえ起こるんや」
「美しいピアノ曲をやかましいと言って殴り込む方が暴力でしょう?」
「あほか。どんなに美しい曲でも興味無い人がやかましいと感じたらそれは騒音やろ」「それが隣の家でがんがんやられたら逃げ場も無いねんから暴力やろ」
「・・・・・」
「潜在的に音楽は暴力的なんや」「それを判って人に聴かせるなら、それ相応の覚悟がなかったらあかん」
「覚悟?」「そんな大げさなものなんですか?」「ライブやって知らない人とも知り合って友達作るとか、うまくしたらモテるとかじゃだめなんですか?」
「あかん」「音楽はSNSやない」
「でも、みんなそういう風に楽しんでるじゃないですか」
「音楽をそんなもんのツールにしたら、音楽は暴力になるんや」
「え?・・・わかりません」
「わからんのなら、家に帰って考えてこい!」

彼の記憶ではこのような会話をしたらしいのです。言われた方はよく覚えているものですね(汗)。

まあ、私も、あの頃は確かにこういう考え方をしていたなあと覚えてはいます。が、夢多き若者にいくらなんでもこれは可愛そうやろう(無責任)。。。いや、ほんま。

いや、こういう考え方は今でも私の奥底には確実に存在しているものですし、彼に、すまん昔は間違ってた、と心からは言いづらいものもあります。でもしかし、あの頃の夢多き若者だった彼にこんな言い方でこんな言葉をぶつけたとしたら、それは、その乱暴さに対しては心から詫びたい気持ちでいっぱいになります。

さらにその上、彼にしてみれば、前回お話ししたリズムの話などもガンガンあびせかけられるわけです。こちらの方は私もよく覚えてる。キミらのリズムの考え方は完全に間違ってる!などと言い切っていた。いやあ、若者の夢多き世界を粉砕してしまってますよね。

ジッサイ、粉砕されてしまった人達もいたかもしれない、いや、いたでしょう。当時、私の暴言にさらされて音楽を止めてしまった人。どうしよう。本当にそんな人もいたかもしれない。。。。

音楽はちょっと間違うと暴力になる。これは今でも思っています。しかし、あらゆる表現は奥底に毒を秘めているから人を惹きつけるのではないかとも思います。毒は薄めて薄め切るとバラの香りがするものです。実際、バニラの香料の濃縮液は排泄物の香りがします。ここに、表現の妙があるのだと思っています。だから、表現そのものにルールは無い。例えば、一定のジャンルに関しての約束事などや、楽器の技術を修得するには何らかのルールがあるかもしれませんが、それを使って表現することには何のルールもないと思います。だから、先鋭的な過激な表現はややもすると暴力と見分けが付かないという事態は往々にして考えられると思うのです。

かつての私は、音楽は人の奥底に潜む毒に自ら抗するために、やむにやまれず湧き上がる表現の表出であると考えていました。そして、今もそれはそうだと思っています。が、それだけではないことも薄々判ってきたというわけです(遅い!)

そうです。音楽には表現という要素意外にも実にいろいろな要素があったのです。教会での賛美歌やお寺の声明、あるいは、緩和医療などに応用される音楽療法なども表現というには少し遠い感じがします。そしてまた、古くは、戦場で兵を指揮する合図や鼓舞する目的で軍楽が行われたり、集団の結束を固める為の国家や社歌や校歌なども一概に表現とは言いにくいでしょう。

つまり、前述の彼の記憶の中の私はそれを否定していましたが、音楽にSNSの効用があっても何ら不思議ではないでしょうし、音楽が人間関係円滑のツールになってはいけないということはありません。

だから、彼には、まだ言うか?と呆れられるかもしれませんが、若者達よ、どんどん音楽をやって、がんがんライブもやって、今なら動画をネットにあげまくって、交友を広げ、モテモテマンになろうではありませんか!

そうやっていって、いつかふと、やむにやまれぬ自らの表現欲に気づいたならば、その時は覚悟を持って表現に邁進してください。

しかし、かつて私がまき散らした、また別種の毒に対しては、いくらザンゲしてもザンゲし過ぎるものではないという思いに押しつぶされそうになっています。。。。はい。皆さんごめんなさい。

と、いうことで、私はなおも頑張ってお友達作りに励もうと心に決めるのです笑。(す)