ライター:hatao
アイルランド音楽は実に特殊だ。
無伴奏でも成立すること、メロディ楽器奏者は全員でユニゾンをすること、曲の音域は2オクターブ以内で調性は多くが♯2つまでの限定された音しか使わないこと、そして何より、メロディ奏者が「グルーヴ」を自ら作り演奏することである。特にこの「メロディ奏者ひとりでもダンスの伴奏ができる」というのが、この音楽の最大の特徴にして、最も難しいことでもある。私は長年この音楽に取り組んでいても、グルーブについては学び終わることがないと感じている。
私は数年前からアイルランド音楽の無伴奏デュオ演奏に取り組んできた。伴奏があればメロディ奏者が自らグルーブを作らなくてもなんとなくまとまるし、タイミングも「ざっくり」で済まされる。だから伴奏をつけないことで自らを追い込み、お互いの音をはっきりと聴くことでシンクロしやすくなると考えているからだ。
シンクロ現象はアイルランド音楽の真髄だと考えている。私のアイルランド音楽の原体験はボシーバンドやルナサのアルバムだったのだが、彼らと並び称される大御所のチーフタンズは個々が絡み合うポリフォニックなオーケストレーションを得意としていたのに対して、彼らはユニゾンをお題目としている。疾走するフィドル、フルート、パイプスが完全なるユニゾンを奏でるとき、それらは溶けあって一つの楽器、ひとつの生き物の声のように聞こえるのだ。なんと気持ちがよいのだろう!
音楽は進化発展し続けるものだが、最近Bandcampで発表される若手アイルランド音楽家のアルバムには、案外無伴奏のものが多い。伴奏があったとしてもそれは控えめでメロディ奏者は完全にシンクロして演奏している。アイルランド音楽のメロディは固定化されたものではなく奏者ごとに異なるのが常なので、セッションで合わせてもメロディが完全に揃うことはない。きっと、録音前にお互いのヴァージョンを統一しているのだろう。つまり、完全ユニゾンを意図して録音しているのだ。シンクロは、アイルランド音楽の基本の「き」であり、究極の姿でもあるのだ。
私の無伴奏シリーズはフィドルの小松さん、パイプスの内野さんに続き、第三弾はフィドルの「さいとうともこ」さんとのデュオだ。今回はともこさんが6年前に発表したアルバム「Re:Start」を全曲演奏するというコンセプトにした。それは、忙しいお互いにとって最もリハーサルの負担が少なく、自然でもあると思ったからだ。ともこさんとは20年来の仲間なので、お互いの覚えたての曲を持ち寄ったり誰かのCDの真似をするよりも、共通のレパートリーをやるのが、限られた準備時間で一番クオリティの高い演奏ができると考えた。
さて、今回は実験的に手法を考えてみた。CDの演奏を全曲楽譜に落とし、リハーサルでは、6年間でともこさんの弾き方が多少変わったところを確認して何度も手直し、完璧な譜面を作って演奏した。理想を言えばこれを覚えて望むのが良いのだが、今回はその時間はなかったので、例外的に私だけ譜面を見ながらの演奏となった。もちろん全曲を暗譜しているが、細かいところまで1音たりともはずしたくないからだ。
アイルランド音楽の合奏には2つのアプローチがある。お互いの音楽をぶつけあい、即興で刺激を与えながら予定調和ではないその場限りの演奏を繰り広げること。もう一つは、すべてを決めて完全に合わせることである。それらは互いに正反対のアプローチだが、どちらもアイルランド音楽の真実に迫ることができる。今回は後者に重点を置いたのである。
ライブは非常に緊張感のあるものになった。緊張感と集中力を保ちながら、音程、アーティキュレーション、タイミング、アクセント、グルーヴ、ダイナミクス、装飾音…これらを完全に合わせ切ったとき、彼我の境界は消えてフロー状態が現れる。ただし、少しでも外してしまうと、この魔法は解ける。フィドルの弓を凝視しながら、耳の解像度を最高まで上げて合わせた。この実験は非常に満足のいくものだった。
つきつめるのであれば、フィドルのボウイング・スラーをすべてフルートに移し替え、装飾音も合わせ切ってみたい。そうして「完全に」フィドルの音と重なった時、私はどう感じるのだろうか。
音楽の常識では「二人が全く同じことをするのなら、一人いれば十分じゃないか」となるだろう。余った方はハモるか伴奏に回ってくれよ、と。しかしアイルランド音楽は違う。「完全に」合わせ切ったとき、1+1は3以上のものになる。これは、相手の楽器に対する興味と理解、音を聴く耳とそれを実現する楽器の操作が備わっていないとできない、非常に高度な楽しみなのである。この無伴奏シリーズは、今後も続けていきたい。
先日のライブの模様は配信のアーカイブでご覧になれます。
なかなかここまで合わせ切るアイルランド音楽コンサートはないと思うので、ぜひどうぞ。