思考停止:field 洲崎一彦


出典 Irish PUB field

ライター:field 洲崎一彦

さて、この2ヶ月ほど、ちょっといろいろありまして、私は頭が停止していました。まあこれは、最近、自分の頭が動き出した感覚があったので、あ、止まってたんや、と自覚したということなのです。これを、あえて、こういう所に書くのは、この2ヶ月の間に私が動いたこと、しゃべったことには責任持てません、と世間に言い訳をしているというセコいニュアンスもなきにしもあらずなのですが、この、頭が止まるというのと音楽の感じ方、好きや嫌いやという感覚にちょっと面白い発見があったので、誤解を招くような微妙なお話しになるかもしれませんが、触れて見ようかなと思った次第。

思考停止している最中も、確かにほんのり自覚はありました。なんか知らんが、いろいろな情報に接するのがイヤ!そっちを見るのを止めてしまうという感じ。とにかく、今日、明日とたんたんと過ぎてくれればいいという感じ。今日とにかく雨が降らなければいい、というような。

そして、その次の段階というのがありまして、今度は何でもかんでも無節操に頭に入ってくる。私はわりと家では何見るでもなくTVをつけっぱなしにしている習慣があるのですが、そこで放送されていることがあり得ないぐらい頭に入ってくるのですね(ちゃんと見ていないのに)。なんと、私はこれまで一度も利用したことがないTVショッピングの商品を2つも買ってしまった笑。

また、私は普段からネット記事をよくささっと流し読みするのですが、これまた、もりもりっと頭に入ってきてしまう。ほう、これはこういうことになっているのか、あれはこういうことになっているのか、と知らぬ間にものすごく影響されてしまっているのですね。ある時期、毎日顔を合わせるfield店長S氏は、毎日毎日、日本の少子化問題について私からネット受け売りの講釈を聞かされ続けていました笑。

そして、音楽ですね。これね。一時は自分が非常に心の広い寛大な人間になったのだと、内心自分は人間的に成長しつつあるのだと思っておりました。が、これはたぶん錯覚でした。ひとことで言うと、こだわりが消え失せる。。。人がいいと言うと、ほういいねえ、となる。あれもいい、これもいい、となる。一見すごく寛大。懐深い。優しいヒト!

が、気が付くと、どうでもええやん、という方向になってくる。別にどうでもええやん、、、キミがそれ好きならそれでええんちゃう?みたいな。僕は別に特別好きな音楽とかないし、、、みたいな。

そんな中でも、fieldの日常は過ぎて行くのです。この2ヶ月の間、定期セッションもあるしライブもある。何度もあった。が、今となってはどれもはっきり思い出せない。いつもは、このクランコラの記事は、こういう、fieldの日常の音楽シーンで、どうやったか?何を思ったか?みたいな所が基本になるのですが、今回、そんなエピソードをなにひとつ思い出せない。ひえー!皆さんごめんなさい!

それが、なぜ、最近、何があって、私の頭が動き出したことが判ったのか、これですね。

ある人としゃべってた時のことです、うにうにうにっと何の気無しにしゃべってると、あれ?この前はそんな事言ってませんでしたよね?と突っ込まれた。え?そう?前はなんて言ってた?と聞き返す。そこで返ってきた答えが、とても自分の口から発せられたとは信じられない台詞!そんなこと言うてたっけ?と誤魔化すわけですが。いやあそうでしょうね、この前は、ついにスザキさんも世間に迎合し始めたのかと思っていました、やて。ちゃうねん、ちゃうねん、それは迎合ではなくてワシの頭が動いてなかっただけやねん。と、まあこんな感じ。こんなやりとりが別の人とも最近あったり。

しかしねえ。この微妙体験も裏を返すと、またこれ意味深な分析も出て来るわけですね。

頭が動くと主張が出て来る、主張が出て来るとこだわりが出て来る、こだわりが出て来るとまわりとの引っかかりが出て来る、引っかかりが出て来ると摩擦が起きる、摩擦が起きると面倒くさいことになる、面倒くさい事になると逃げたくなる、逃げたくなると安全地帯を確保したくなる、安全地帯を確保したくなると守りの姿勢になる、守りの姿勢が高じると外には攻撃体勢を取ってしまう、攻撃体勢をとってしまうとさらに摩擦が起きる、そうすると、どんどん安全地帯はおびやかされる、するとさらに守りたくなる、さらに攻撃姿勢になる、さらに摩擦が起きる、、、このスパイラルを思い描くとですね。

少々、問題発言になるかもしれませんが、今私のまわりに居るいろいろ四苦八苦している人々、特に若者たち、皆さんいっぺん頭を止めたら楽になるよ!って言いたくもなりませんか。

また、さらに角度を変えると、主張やこだわりがあって好きな事柄って、本当にそれ好きなのか?という疑問。こだわりなどあるからそれに執着することになるので、これを好きと思いこんでしまうのではないか?

最近の風潮では、自分の好きなことをやりなさい!という感じがあるみたいですが、そんなに人間皆好きなことなんてあるのか?好きなことが無かったらダメみたいな変な強拍概念ないか?だから、ちょっと執着したらそれが好き!ということにしてしまうということはないのか?

確かに楽しいというひとときはあります。でも、それが明日も楽しいか?それが明日も、明後日も楽しいから、好きということにするのか?別にそれ、今楽しいだけでええんちゃうのか?

こうやって考えると、好き、なんてあまり大事なことではないですよね。

つまり、頭を止めたら、みんな寛大になって摩擦もなくなって、今楽しいことに集中できて、ものすごくよい世間になるのではありませんか?いやはや、頭が動き出すと、つい、こういう屁理屈遊びをしてしまうわけなので、やっぱり、止まってる方が幸せやったかも。。。。

ややこしいおっさんのまま若者たちに遊んでもらえる老人になるにはどうしたらええんでしょ?笑。(す)