アイルランド音楽のダンス曲は芸術たりえるか?:hatao

ライター:hatao

アイルランド音楽好きなみなさんは、アイルランド音楽のダンス曲を聴いて感動した体験をお持ちでしょうか。きっと、そのような体験をした方も多いかと思います。そのとき、どのような理由で感動をしたのでしょうか?

私には、そのような経験があります。例えば“Music at the Matt Molloys”(1993)の“A Set of Single Jigs Learned from Kevins Father – John’s Grandfather”というトラックでフィドルが奏でるシングル・ジグを聴いた時に、とても美しくて優しい旋律とフィドルが重なった柔らかなサウンドに涙したことがあるし、ティン・ホイッスル奏者Cormac Breatnachの“Music For Whistle And Guitar”の “Through The Fields – The Man Of The House – The Shores Of Lough Reagh”というリールのセットを聴くと、演奏が訴えかけてくるドラマチックな感情や美しい景色を感じて心が揺さぶられます。

たくさんのダンス曲がある中で、とても悲しそうに聞こえるメロディもあれば、まったく何も感じないメロディもあります。しかしここではメロディそのものではなく演奏について話をしています。ダンス音楽には歌詞がありませんし、「白鳥の湖」のような標題音楽とは異なりタイトルは楽曲と全く関係がありませんが、リズムの素晴らしさや曲の良さを超えてその曲を通して演奏者の伝えたい情感を感じられたときに、私はそれを素晴らしい演奏だと感じることがあります。

このようにダンス音楽に何かの感情を感じる鑑賞のしかたは、果たして伝統的なのでしょうか。

ダンス曲はクラシック音楽のように何かを表現する芸術たりえるのでしょうか。

私は、ダンス音楽は本来ダンサーにリズムを提供するためのものなのだから、音楽そのものに込められた感情や景色は無いと考えています。特に作曲者がはっきりとしているクラシック音楽とは異なり、多くが作曲者不明であるアイルランド音楽には、特定の人物の作曲の意図があるとは考えにくいです。

クラシック音楽にも民俗舞踊をモチーフにしたものや、民俗的なリズムが昇華された音楽があります。バッハのガボットGavotteやジーグGigueのような、より舞曲と音楽が結びついたバロック作品から近代のショパンのマズルカMazurkaまで、観賞用のクラシック音楽であっても舞曲は大きな存在感を持っています。そして時代が下るほど、ただの舞曲の伴奏音楽であることを超えて、作曲家の表現したい意図が音楽に込められるようになりました。

一方で音楽として独立して演奏や鑑賞されるようになったアイルランド音楽ですが、現在も依然として「踊れる演奏であること」が良い演奏の第一条件となります。つまり常に一定のビートとスウィングが存在することが絶対的な条件であり、アゴーギク AgogikやデュナーミクDynamik を使用することは、過剰な演出であり、伝統的ではないと見なされ批判にさらされます。

アイルランド音楽のダンス曲で芸術artという場合、例えばNa Píobairí Uilleann(イリアン・パイプス協会)が出している“イリアン・パイプスの芸術The Art of Uilleann Piping”というビデオがありますが、それは伝統的な演奏スタイル、装飾音や変奏といった技術的な洗練を指すように思います。

それでは、私が先ほどのトラックに感じた感情や景色は、私の一方的な思い込みだったのでしょうか? 私はそうだとは思いません。一部の演奏者は、確かに伝統音楽を素材に「何かを表現しよう」と試みています。

例えば20世紀初頭のフィドル奏者であるMichael Colemanの演奏は言うまでもなく素晴らしいものです。この音楽で踊れたらとても気持ちが良いでしょう。しかし演奏の心地よさや技術的な完成以上のものを私は感じることができません。一方でTommy PottsやMartin Hayesのフィドル演奏はダンス曲の演奏であっても陰影と音色の多彩さ、ニュアンスに富んでおり、個性的で聴き手の音楽的な欲求を満足させるものです。フルート演奏に関して言えば、Conal O’GradaやHarry Bradleyの演奏は機関車のような縦方向のビートがあって思わず体を動かしたくなりますが、一方でMatt Molloyの演奏には横方向の大きなフレーズの中に押し引きがあり、美しさを感じます。

演奏に音楽的な表現力がある方がより優れていると言いたいのではありません。ダンス音楽はダンス音楽でしかないので、踊れる音楽であればそれはすなわち良い音楽なのです。これらの違いは演奏スタイルの違いであり、演奏者が「ダンス音楽であること以上に」何を求めているのか、という違いです。

私はカナダのフルート奏者のChris Normanのレッスンを受けた時に、伝統的なダンス曲を素材として、フレージング、アルペジオとスケール、和音の進行といった旋律に備わった特徴を活かすためのアイデアを受け取りました。こういったアプローチはとても古楽的で学術的だと感じますが、現代のアイルランド音楽もそのルーツは19世紀以前の音楽であり古楽と共通する部分はあるので、このような考え方は理にかなっています。実際に、彼のレッスンを受けて私はそれぞれの曲の持つ性質をより深く理解できるようになり、演奏が変わりました。

ここまで読んだ読者は、私が言いたいことはメロディに対してどんなコードやリズムを当てるかとか、楽器の組み合わせを変化させるといった編曲法arrangementによって音楽を演出して聴き手に何かを感じさせるという表面的な話をしているのではないことをお分かりでしょう。私が問いたいのは、たとえソロ演奏であっても聴き手を十分に満足させる演奏が可能かどうかということなのです。

私はアイルランド音楽を教える教師として、生徒には「メロディがどう演奏して欲しいのか」を考えるように伝えています。フレーズの方向性、和音進行、リズムのアクセントとなる音を分析することで、そのメロディがどのように「演奏してほしい」と言っているのかを感じることができれば、その曲をより深く理解した演奏をすることができるでしょう。それは一定のビートがあるダンス曲の演奏であっても、強弱表現やスウィング感の変化となって演奏に生きていきます。その反対に「リールとはこのように演奏するものだ」という先入観を持って演奏すれば、たとえ1000曲のリールを演奏することができても、どの曲も聴き手に機械的な同じ印象を与えるでしょう。

私が考えて欲しいのは、アイルランドのダンス音楽演奏により何かを表現することは伝統的なのか否か、アイルランドの名人演奏家は何かを表現しようとしているのか、ということです。私はダンス音楽をダンス音楽以上のものにすることは可能であるし、現代の一つのスタイルだと考えています。また、私はそのような演奏に触れた時に満足するし、自分もそのような演奏者でありたいと望んでいます。

最後に、みなさんがこれまで感動した演奏と、感動をした理由をシェアしてください。

また楽器を演奏する人はこのようなことを考えて音楽を演奏しているのかについてもご意見をいただければ嬉しいです。

関連記事

「アイルランド音楽のダンス曲は芸術たりえるか?」についての補足:hatao