「アイルランド音楽のダンス曲は芸術たりえるか?」についての補足:hatao

ライター:hatao

昨日の記事で洲崎さんが僕の記事に乗っていただき、嬉しく思います。

同じ文章をFacebookにも載せたのですが、あまり反応はありませんでした。

ただ、thesessionという英語のBBSでは大いに盛り上がりました。

芸術の話をするには、まず芸術をどう定義するかを話さないといけません。

そこについてあまり深く書いていなかったので補足しますと、受け取り手に何らかの感情を想起させるとき、それは芸術だと考えています。例えば「郷愁」や「孤独」や「情熱」etc…

もちろん子供が一生懸命に歌う姿や、下手なりに熱のこもった中学生の吹奏楽に感動することは普通に起こりえるでしょうから、何だって芸術だと言う解釈もできるのですが、技術的に巧みであることと、伝える側の意図が受け取り手に正しく伝わっていることが、平凡な芸術と崇高な芸術を分けていると私は考えています。

クラシック音楽は色々な技法を使って作曲者の「意図」を表現するわけですが、アイリッシュのダンス曲は、いかにも淡々として何かを表現しているようには感じません。ただメロディとリズムが続いているだけのように見えます。

なのに、その演奏に何らかのイメージを受け取ったのだとしたら、それは何か? ということを問いました。そして、そのイメージを演奏者が意識しながら演奏するのは伝統音楽のあり方としては邪道なのか。それが僕の疑問です。

デイルさんの演奏は人が足を止めるに値する素晴らしいものであることに疑いの余地はありませんが、その時、デイルさんは何を感じて演奏しており、足を止めたご婦人は何を感じていたのでしょうか。それは知りようもないのですが、もしそこに何かしらのイメージを共有できていたのであればおそらく、僕の言う「芸術」がそこに立ち現れていたのだと思います。