ライター:field 洲崎一彦
さて、前回のhatao氏の文章に触発されたところがあって、ちょっと一言書いてみようと思いました。実はちょうど私も少し似たことを考えていたと言いましょうか、ちょうど音楽とは別の分野でこの芸術ということを考えていたのでした。それはアニメです。
少し前に話題になった宮崎駿の新作「君たちはどう生きるか」を観ました。宮崎アニメの新作ということで期待を膨らませて観に行ったのですが、はっきり言ってよく分からなかった。ストーリーは追えるのですがこれまでの宮崎アニメのように芯になるものが見えない。いろいろな意味ありげなシーンが連続するわりには、いわゆる伏線回収が徹底されずに終わってしまう。
それで、いつもはあまりしないのですが、YouTubeで解説動画を漁って見てしまいました。アニメ解説と言えば大御所岡田斗司夫氏ですね。自称サイコパスの氏の解説はいつも深くて斬新だった。
が、さすがの岡田斗司夫氏も「君たちはどう生きるか」に対してはいささか切れ味が悪い感じがしたのです。作者の宮崎駿自身が「この作品は自分でも訳が分からないところがある」と言ってるのだから、分かるような作り方になってないのだ、などと言わはる。。。解説になってないやん!と。
が、岡田氏がこの解説動画の中で以下のようなことを口走ったのです。
「勉強して面白がるのもアートだし、直感的に面白がるのもアートだ」
これです。
hatao氏の投げかけは、ここの2つの立場を行ったり来たりしているように感じたわけです。hatao氏は、これのどっちがアートなんだ?と言ってるように思えたのです。
アイルランド音楽にしても、確かにクラシック音楽のような教養として構築された世界が希薄な民族音楽ですが、それであっても、この曲は誰々が誰々に習って誰々がいつごろ広めた曲であって、どこの誰々が得意とした曲だった等など、それなりの背景を知っているか知らないかでは少なからず味わいが違って来ますよね。
そこで、ときおり話題に出すのですが、もう10何年前の話。シアトルのアイリッシュ・フィドラー、デイル・ラス氏が当店でライブを行った時の話です。本来はギターのジェイ・グレッグ氏とデュオで演奏する予定だったのですが、ジェイ氏が大幅に遅刻したことで、デイル氏はまったくソロでライブを始めたのでした。
それで、数曲演奏が過ぎた頃に、ジェイ氏が息せき切って到着した。で、すぐにステージに上がってもらおうと促したところ、いや、デイルは今とても素晴らしい演奏をしているから、今は私が入らない方がいいと言って、彼は後ろの方で半分身を隠してひたすらデイル氏の演奏を聴いているというようなことがありました。
そして、当店はライブ時にも一般のお客様が普通におられるわけで、ライブチャージを取らずに気に入った方だけ投げ銭をしてくださいというシステムなのですが、あまり音楽が目当てではないお客様は、ライブが始まると帰って行かれる方もちらほら居るわけです。この時もそういうお客様、ちょっとご年配のご夫婦だったのですがお帰りになるのに玄関口まで来た時に、奥様の方が正面で演奏しているデイル氏に釘付けになって動かなくなってしまった。ご主人は玄関の扉の前でしばらく待っておられたのですが、その内に奥様が、ちょっと聴いて行きたい、とおっしゃってまた元に席に戻られる、とう光景が私の目の前で繰り広げられたのです。
おそらく、この奥様はアイリッシュ音楽を耳にするのは初めてで、これからそのライブが始まると知って退席されようとしたのでしょう。が、実際のデイル氏の演奏が奥様の足を止めその耳を釘付けにした!
そうです。この奥様にとっては、それがアイルランド音楽かどうかとか、ダンスの為の音楽かどうかとか、全く関係なく直感でそれを捉えてしまったのでしょう。確かに、こういう事があるのです。もっと言えば、この奥様にとってこれが芸術鑑賞の姿勢であるかどうかすらまったくどうでもいいのです。ただ、気になる!もっと聴きたい!
まさに、直感で面白がる姿勢そのものなのですね。
そして、その時のデイル氏にしても、目の前の玄関口のところにあらわれたご年配の女性に対して、よし、あの人の足を止めてやろう!というような意図を込めて演奏をしたということも無いはずです。この時、相棒のジェイ氏が来ない中でソロフィドルのライブを始めて、よし何かこういうことを表現してやろうなどと特別な意図など持っていたようにも思えません。せいぜい、今から自分ひとりで最高の演奏をしようくらいの事は思ったかもしれませんが。
つまり、演奏者が意図するしないに関わらず、受け取り手の理解と解釈によってそれは芸術になってしまうのではないでしょうか。だから、例えば、ダンスの為の音楽だから、難しい音楽的なことはあまり考えてないよん、、、と思いながら演奏された音楽であっても、聴き手の方で何かを感じてしまうことだってあるワケです。
hatao氏は「ダンス曲はクラシック音楽のように何かを表現する芸術たりえるのでしょうか」と疑問を投げておられますが、それは、すべて聴き手の感性次第なのだと思います。
前回の私の原稿の内容を少しかすめる話になって来ましたが、音楽の受け取り方は個人個人によって千差万別であって、このように鑑賞しなければならないという正解があるものではありません。
が、上記、デイル氏のライブ会場では、まったく知り合いでも何でもないジェイ氏と、この奥様が実は似た感覚をデイル氏のフィドルによって刺激されていた可能性があるわけです。
これが、音楽の力だし、芸術の力ではないだろうかと思うのです。
私?私は、演奏し始めてみないとうまく行ってるか(私自身が気持ちいいか)うまく行ってないか分からないので意図もくそもない。やり始めるまではいつも怖いです。あ、こりゃダメだと思う時はとにかくすぐにでも途中でやめて帰ってしまいたい。。けど、実際は我慢してなんとか最後まで演奏しますけど笑。