歌の小径の散策・その11 Spanish Lady:おおしまゆたか

ライター:大島 豊

昨年聴いた録音の中で最も感銘を受けた1枚にキャシー・ジョーダンの The Crankie Island Song Project がある。アイルランド全島32州を各々を象徴する歌で言祝ごうという企画で、選曲、アレンジ、演奏の質の高さはもちろん、そもそもこういう企画を思いついて実行してしまうのは、おそらく今キャシー姉さんを除いては不可能ではないかとすら思う。

キャシー姉さんにしても易々とできたわけではない。製作のプロセスはわからないが、まず32曲を選んだとして、それを録音するだけでも並大抵のことではない。しかもパンデミックとその余波の中での話だ。苦労に苦労を重ねたことは容易に推測できる。

タイトルの crankie は説明の要があるだろう。これは一口に言えば、アイルランド版の紙芝居だ。と言っても紙芝居を知っている人は少ないか。もっとも検索してみれば、画像も動画もいくらでも出てくる。新たな形でやっている人もいるようだ。幼ない頃、幼稚園、保育園などで体験した人も少なくないかもしれない。

あたしが小学生の頃はまだ紙芝居のおじさんが残っていた。つまり商売でこれをやっている人たちである。子どもが集まる場所、たとえば児童公園など決まった場所に週に2、3回自転車でまわってくる。荷台に紙芝居の装置と、子どもたちに売る駄菓子や飲物を積んでいる。紙芝居を見たがるのは、せいぜいが小学校中学年かそれ以下だったろう。子どもたちも何曜日の何時頃、どこに紙芝居屋が来るとわかっていて、待ちかまえている。紙芝居屋は常におじさんで、おばさんはいなかった。少なくともあたしは見たことも聞いたこともない。たまにお兄さんもいたようだが、たいていはおじさんだった。

おじさんはやってきてもすぐに紙芝居を始めるわけではない。まずお菓子や飲物を売る。これが商売だ。その頃の子どもたちのこづかい銭は今とは違って微々たるものである。単価100円はおろか、50円のものもほとんど無かったと記憶する。たいていは10円とか20円とか、あるいはそれ以下だ。当然、大したものではないが、子どもの方でもお菓子が目当ではない。ひとしきり売り買いがあり、買ったお菓子がほぼ食べ終えられた頃、といっても長い時間でないのももちろんだ。おじさんが紙芝居の箱の蓋をおもむろに開ける。いよいよ本番だ。

ここで肝心なのは、紙芝居を見ることができるのはおじさんから何か買った子どもだけだということである。とはいっても、柵で囲うわけでもないし、屋外でのことだし、紙芝居の前に集まった子どもの塊の一番後ろについている分には文句は言われない。ただし、あんまり何度も「タダ見」をしていると、追いはらわれることもあったようではある。

こういう紙芝居で語られていたのはエンタテインメントである。教育的なものでも、芸術的なものでもない。教訓話もほとんど無かったと思う。演目は少し前のものが多かった覚えがある。つまり、子ども心にも古いと感じられたのだ。それでも子どもたちが集まったのは、おそらくライヴ、生のパフォーマンスだったからだろう。

ともあれ、わが国の紙芝居は絵が1枚ずつ切りはなされていて、語りとともに外されていく。1枚外されると次の絵があるわけだ。アイルランドの紙芝居では絵が巻物のようにつながっている。箱の両側に軸があり、これにハンドルがついていて、片方からほぐれ、片方に巻きとられる。画面は左から右へ流れる。

キャシーは歌をアレンジして録音するだけでなく、各々の歌のために新たな紙芝居をアイルランドの若いアーティストたちに発注した。そして歌とともに紙芝居の動画を作った。すなわち32本の短篇映画と歌からなる作品がThe Crankie Island Song Project だ。ビデオと録音は Bandcamp にある。

この連載でこのアルバムの32曲をひとつずつ取り上げようかと思ったこともあるが、それはかえって興を削ぐというものだろうと思ってやめた。とはいえ、何もしないのもまたどうだろうか。そこで今回はここから1曲選んでみる。選んだのは Spanish Lady である。この歌はダブリンにあてられている。

歌詞にいきなりダブリンが出てくるように、この歌がアイルランド産であることはまちがいない。アイルランドでこれを録音したシンガーの1人 Dominic Behan はこの歌につけたライナーノートで、これはアルスターの Joseph Campbell の作だ、とスコットランドの Hamish Henderson から教えられたと書いている。英語の伝統歌に包括的につけられている Roud のインデックスではこの歌は542番になる。ということは、まず伝統歌であることは動かないだろう。それにこの歌にはいくつものヴァージョンがある。主なものだけでもメロディが2種類、歌詞が3種類はある。

歌詞の内容として共通するのは「スペインの婦人」の様々な姿をダブリンで見た、というもので、「スペインの婦人」はいわゆる「夜の女」に属するようではある。もっとも夜毎客をとる商売よりは、1人または少数の男に囲われる形のようでもある。プルーストに出てくるオデットのような存在だろうか。この場合、見たというのは、衆目の面前でというわけではなく、むしろ人目を忍んで足を洗ったり、髪を櫛けずったりしている姿を、何かの拍子にたまたま目にしたということだろう。

しかしあたしにはそれ以上に魅力的なのが、このキャシー・ジョーダン版のコーラスだ。20から始めて、偶数、奇数を降りてゆく。ここが「ワックワホリディ」になっているヴァージョンもあり、上記ビーハンや、やはりアイルランドの Al O’Donnell などはそちらだ。

また、コーラスが “Madam I’m a darling” から始まる形のヴァージョンはジョン・ドイルが歌っている。が、ここはやはりしっかり数を数えてほしいのである。

キャシー姉さんによれば、これはヒロインたる女性が「奇数も複数も両方とも」つまり、すべてを握っていることを示すという。そう言われればなるほどと一応納得はするが、それを言うのにわざわざ数を数えてみせるのは不思議だ。ほとんど神秘的ですらある。謎かけでもされているようだ。しかも偶数、奇数に分け、降りてゆく。数を数えるとき、何の制限もなければ人は増やしていくものだ。なぜ20からなのか。なぜ偶数と奇数に分けるのか。そう訊いて、答えとしてまた同じリフレインを聴かされると、まるで呪文をかけられたように、どこか体の奥の方がよじられる。その快感を求めて、もう一度、はじめから聴いてしまう。この曲の crankie は歌の内容をほぼそのまま絵にしている。ただし、コーラスのところは、毎回様々なスタイルの数字をならべる。やはり数字が「肝」なのだ。

伝統歌であるからして、スコットランドでもイングランドでもこの歌は歌われている。スコットランドの Mick West の版のように、都市をダブリンから他に移したものもある。ウェスト版はなかなかの快作で、ピアノやサックスも加わり、斬新なアレンジで愉しい。コーダに向かって、ソロも回して、完全にジャズになる。

イングランドの Pete Coe はしっかり数を数えていて、下記のフォーク・クラブでのライヴ動画では聴衆も声を合わせる。この人も1970年代から歌っている大ベテランで、さすがの歌唱。

いろいろ視聴してみた中で、The Crankie Island Song Project のヴァージョンを別として、感じ入ったのは Frank Harte の版である。レコードもあるが、1996-01-28放送のテレビ番組 Lifeline でのスタジオ・ライヴを薦める。相棒はドーナル・ラニィのブズーキとコーラス。しっかり数を数えているし、アレンジは歌が主体で、ブズーキはそれに合わせる形。ハートは稀代の歌のコレクターとしての側面が強調されるが、うたい手としても類稀な人だったことがよくわかる。

なお、Spanish Lady というポルカもある。また、Spanish Ladies と複数形のタイトルの歌もあるが、こちらはシーシャンティ。念のため。(ゆ)