歌の小径の散策・その21 An Chead Ghluin Eile:おおしまゆたか

ライター:大島 豊

アイルランド伝統音楽の歌に親しむのに王道などはむろん無い。一方で自分の例をふり返っても、出逢いというのは偶然の産物でしかない。とすれば、出逢いのチャンスを広げるべく、できるだけ多種多様な実例を挙げてみるしかないだろう。そのどれかが誰かにとってアイルランドの歌へ入るきっかけになることを祈って。

そうすると、個々の歌の多様な形を探索していたこれまでの方式もそれほど無意味でもなさそうだ。とはいえ、それでしばらくやってきたので、ここでやり方を変えてみるのもたぶん無駄ではないはずだ。何よりあたしはその方が面白い。というわけでこれからしばらく、歌そのものではなく、うたい手に焦点を当ててみる。

まずは前回紹介した Rosie Stewart。

この動画は TG4 の生涯業績賞を受賞した際の記念の歌唱だ。そういう晴れの舞台だからか、ドレスを着て化粧もしているが、唄っているうたと歌唱スタイルとはまるで似合わない。動画ではあるけれども、派手な動作をするわけでもなく、ことさらに美人というわけでもなく、見ていて面白いものでもない。むしろ、絵には目をつむって、音だけを味わった方が幸せになれそうだ。

この人はノーザン・アイルランドのファーマナ出身。あたしが知ったのは《Adieu To Lovely Garrison》1998 だった。この他に録音があるのかは実は知らない。しかし、この1枚だけで充分でもある。全篇、スチュワートの無伴奏歌唱。なのだが、妙に親しみやすく、ついつい聴きほれてしまう。

https://yosoys.livedoor.blog/archives/51552872.html

アルバム自体はストリーミングには無いようだが、個々の曲は YouTube などに挙がっている。上記の動画で唄っている〈Do me justice〉も収録されている。

歌はまずある感情を伝えようとするものだ。うたわれている感情は言葉にはしにくい。できたとしても、ひどく回りくどく、迂遠な形にならざるをえない。言葉を読みおわる、聞きおわる頃には肝心の感情そのものはどこかに消えてしまっていたりする。歌としてうたう他に、伝えることが不可能とはいっていい。そういう感情である。だからこそ、まったく理解できない言葉でうたわれていても、人は聴いて感動できる。感動というのは、表現されている感情を受けとめて共感ないし共鳴ないし共振することだ。

伝統歌の歌い方は、あたしらが聴いてきたポピュラーの歌い方とは異なる。クラシックでもない。人によっては無味乾燥に聞えるかもしれない。一番大きな違いは歌が伝えようとしている感情の表現方法だ。ポップス、ロック、クラシック、ジャズなどの商業音楽にあっては、歌の感情はまずうたい手が表現する。いわゆる「感情をこめる」歌い方である。うたい手は歌われている感情を身にまとう。聴き手はうたい手が装う感情のすがたかたちや大きさを聴いて、場合によっては目にも見て、感情を受取る。この場合、感情は聴き手にとって外からやって来る。

伝統歌の場合にはうたい手が歌の感情を表現しない。歌の感情の起伏に合わせて音量を加減したり、また身振りを加えたりすることはない。表面的には坦々とうたう。いわばうたい手は歌の憑代ではなく、歌を声に換える変換器になる。歌が備える感情は聴き手の中に入り、聴き手の中で形をとる。というより聴き手は入ってきた歌からそこに籠められた感情を再構成する。自分の中にある材料を使って組立てる。すなわち感情は聴き手の内部に生まれる。これが可能になるのは、聴き手はうたい手と伝統を共にしているからだ。歌のいわれ、背景、詞の内容を共有している。

ダンス・チューンに比べて伝統歌へのアクセスの敷居が高いのはここのところではある。使われている言葉以上に、歌をめぐるコンテクスト、文化的文脈を共有することがクリティカルになる。ダンス・チューンでも曲の由来や誰からあるいはどこで習ったかは重要だが、歌はより切実に必要となってくる。

一方で、あたしが〈John Barleycorn〉を初めて聴いたとき、そういう情報、歌詞の内容や、それが意味するところ、背景の文化についての知識などは皆無だった。感情をこめない歌い方とメロディの不思議さに、いったいこれは何だ、と驚き、その正体を知りたいという欲求が生まれた。表面ではただひたすら坦々と唄っているのに、その声はひたひたと迫ってくる。どんなにパワフルな、表情豊かな歌唱よりも、ひたひたと迫ってくる。これにまた驚いた。

ロージー・スチュアートはその辺にいるおばちゃん、今ではおばあさんの方が近いだろうが、そういう存在だ。あんな着飾って歌う姿が場違いな人なのだ。とはいえ、その姿は見ないようにして耳をすませば、否応なく耳が惹きつけられて最後まで聴いてしまう。ひと言の歌詞もわからずとも聴いてしまう。聴かされてしまう。少なくともあたしは聴かされてしまう。そして歌が終ると、なんとなくすがすがしくなっている。何かひどく豊かな体験をくぐりぬけてきたような気がしている。あたしはこのおばちゃんの歌を聴くとそういう気分になる。落ちこんでいる時は励ましてくれるし、嬉しいことがあった時に聴くと共に喜んでくれている感覚がある。まあ、ひとなつこいのだ。

では、今度はほとんどその対極、といっても姿形のことだが、そういう人、いや2人を聴いてみていただきたい。

この他にも YouTube にはたくさん動画が挙がっている。

録音で聴きたい方にはアルバムも出ている。
https://acge.bandcamp.com/album/c-il-an-bheirt
An Chéad Ghlúin Eile = Étáin & Máire Ní Churraoin: Cá’il An Bheirt?

以下次号。(ゆ)