歌の小径の散策・その18 She moves through the fair 再び:おおしまゆたか

ライター:大島 豊

ストリーミングで聴くことができるこの曲の録音を全部聴いてやろうという目論みは、もろくも潰えた。前回ことわったように、この曲には She moves と現在形のもの、She moved と過去形のもの、女性視点から歌う He moves、moved、そして Our wedding day と少なくとも5種類のタイトルがある。そのうち She moves の現在形のものだけで、Tidal で検索すると300トラック出てくる。むろん同じ録音の重複はあるが、それでも半分にはならない。200トラックは超える。moved と過去形で検索するとやはり300トラック。どうやら1つのタイトルについて300トラックというのが表示限界らしい。He moved が52トラック、moves は3トラック。Our wedding day が96トラック。ざっと延べ750トラック。重複や同名異曲を差し引いても、600は優に超えるだろう。あたしがこれまでに聴くことができたのは、100トラックに少し届かない数である。

それにしてもこの曲の聴き比べは面白い。これまで聴いてきた歌も面白かったのだが、この曲はどうも性格がユニークなようだ。あたしも当初、つまり先月、この曲を聴きだした時には他の定番曲と同じようにみていたのだが、その認識が甘すぎたとわかったのが先月の段階だった。まず手始めに聴いてみただけで、これが他とは違うと思い知らされた。

よく見てみれば、ヘンな歌詞である。視点は男性である。婚約者のことを歌っている。しかしその婚約者の女性は結婚までもうすぐね、と言いながら、後ずさりし、市、つまり定期的に立つマーケットの中をあちらこちら歩きまわる。男はそれを見ている。ただ見ているので、一緒に歩こうとはしない。婚約者のふるまいとしては、いささか腑に落ちない。両親は当初この結婚には気がすすまなかったのが、とにかく認めた。と言っているのは婚約者の娘。となると、本当に認めているのか、あやしくなくもない。そして最後にいきなり幽霊となって男を訪ねてくる。ここで dead lover と dead が入るヴァージョンと入らないヴァージョンがあるが、内容的には娘が幽霊であることははっきりしている。どうも話の筋が通らない。

加えて move という動詞。こういう時、普通は walk around とか、ramble とか、あるいは go down とか、つまりもう少し具体的な動作を現わす言葉が使われるものではないか。状況からはそういう具体的な動作が連想されるのに、move を使うのはやはり腑に落ちない。

と考えると、娘は最後に幽霊となって出てくるのではなく、この時点、歌が始まった時点ですでに幽霊になっているのではないか、とも思えてくる。幽霊となって娘は何度も男のもとにやって来るのだ。その度に言うことは同じ。もうすぐ結婚式ね。となると、これは立派なホラーである。

この歌詞とそして先月述べたように一度聴けば忘れられないようなメロディからだろうか、この歌の性格の特異なことは、まずいわゆる土産物のための録音がごく少ないことに現れている。というより、そういうオムニバスに収録されている例はたくさんあるのだが、それらも含めて、この歌の録音は簡単に聴きながせるとは思えないものばかりなのだ。上記のような有名曲、定番曲では、そういう通俗的録音では、アレンジも演奏もあまりに雑で、箸にも棒にもかからないものも少なくない。それに対して She moves through the fair では、単なる「お仕事」として形だけ演るということがどうもできないようなのである。これを演ろうとすると、知らず知らず、真剣に曲に向きあってしまう、向きあわされてしまう、といおうか。

B級の演奏は多い。いや、ほとんどはB級である。それなりに歌はうまく、ケルト系の歌が好きで、定番曲を並べたアルバムを出している人はごまんといる。もっとも本当にこういう曲が好きなのか、あるいはこういう曲を並べれば聴いてもらえるだろう、引いては売れるだろうと思っているのか、の区別はつかない。解釈やアレンジ、演奏は、内から湧いてくるオリジナルなものというよりは、影響の大きなアーティスト、たとえばサンディ・デニーの歌唱をエミュレートし、手持ちの楽器や周囲のミュージシャンたちにできる範囲で、やはり売れそうなものを模倣する、という形がいくつも出てくる。

インターネットが普及した当初、ネット上によいお手本がいくらでもあって模倣することができるから、誰でも一定の水準のきれいなコードが書けるようになった、しかし、その先に進んで、頭一つでも抜けたコードを書けるようになるのは難しい、という話を聞いたことがある。音楽も同じで、今やお手本はいくらでもあり、習う環境も整っている。時間さえかけて練習すれば、一定の水準まではいける。

これが悪いというわけでもないだろう。誰でもそこそこの水準でこういう曲を演奏し、録音し、リリースすることがとにもかくにも可能になった。かつてのように、実力だけでなく、運にも恵まれなければ、世に出すことすらできない状況に比べれば、遙かに良い。それにそういう演奏でも、誰かの心の琴線に響かないとも限らない。蓼食う虫も好き好きというが、こればかりはお釈迦さまにもわからないのだ。B級ばかりだと不満を漏らすのは、あたしのように、とにかく聴けるものは全部聴いてやろうという物好きだけだ。そしてそうやって聴いていくと、稀ではあるが、飛びぬけた歌唱、演奏に出会うことがある。必ずあるのだ。それがあるからやめられない。そうしてそうした稀な歌唱、演奏も、現在の状況があるからこそ出てこれたのだ。

とにかく次から次へと聴いていくと、B級の演奏がいくつも続く。中にはまったく同じ録音を、名前を変え、アルバムの形、つまり選曲と曲順なども変えて、出している例もある。それも複数ある。ミュージシャン名が同じで、演奏時間がほぼ同じなら、収録アルバムが違っても、これは同じ録音と飛ばすことになるが、名前が違うので聴いていると、あれえ、こりゃ、さっき聴いたぞ、ということが何度も重なる、というわけだ。ストリーミングで再生回数を稼ごうという策であろうが、こうなると、その演奏がどんなに良くても、シラけるし、評価も落ちる。

しかし、詐欺にひっかかったような気分でへこんだ次のトラックが、初耳のミュージシャンのすばらしい演唱で、天にも昇る気分になったりもする。実際、シングルで、この曲だけの録音をリリースして、それが見事な解釈、演奏であることもまた複数ある。そういうことを誘うものも、この曲にはあるらしい。

あるいは、ジャズやハード・ロックやエレクトロニカなど、縁遠いと思われるジャンルやスタイルのミュージシャンが、他は各々、いかにもという曲が並んでいる中で、ぽつんとこの曲をやっていて、それがまた実にいい、というケースもある。

そう、この歌は、実力のあるミュージシャンにやってみたいと思わせる何かをもっているらしい。その意味ではスタンダードの一種になっているとも言える。一方で、アイルランドの伝統歌としての性格が弱まることもない。歌詞もメロディも同じであることは、驚くばかりだ。この点が、この歌が他の定番曲と最も大きく異なるところだ。テンポまで同じである。とりわけ今世紀に入ってからの演奏は、誰も彼も、とにかくぎりぎりまで遅くしている。ここまで遅くし、歌詞をあちこち思いきり延ばさないと、歌えないものなのだ、とすら思えてくる。

インストルメンタルとしての演奏もたくさんある。ギター、それもアコースティック・ギターが圧倒的だが、ハープ、アコーディオン、イレン・パイプ、ハイランド・パイプ、ホィッスル、フルートなどもある。これまた出来は様々だが、ギターは概ね水準が高い。これまた、実力のあるギタリストにとって、やってみる誘惑にかられるようにも見える。

あるミュージシャンについてまとまったイメージをつかもうとすれば、少なくともアルバム1枚聴く、あるいは YouTube に上がっている動画を全部視聴することになる。ところが面白いことに、この曲で聴き比べをしていると、その1曲を聴いただけで、ミュージシャンの力がどれくらいのものか、見当がつくようになってきた。一流か二流か、また三流か、評価しようとしなくても、わかってしまう。さらには、そのミュージシャン、またはミュージシャンたちが、どういうつもりでこれを演っているかまで感じとれる。感じとれる気がする。

こうなってくると、一応、Tidal にある録音が600あるとして、あと500ヴァージョン。2,000時間以上かかるだろうが、聴いてみたいという気持ちがだんだん大きくなっている。同じ曲の聴き比べが面白いことは、アナログ時代からわかってはいたし、実践もしていた。LPからカセットにダビングして集めたものだ。しかし、ストリーミングの時代になってここまで面白くなっているとは、想像を超えていた。(ゆ)