【メルマガ:クラン・コラ】Issue No.235

アイリッシュ・ミュージック、ケルティック・ミュージックを中心としたヨーロッパのルーツ音楽についての情報、記事、読物、レビューをお届けする月2回発行のメールマガジン「クラン・コラ」。

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クラン・コラ Cran Coille:アイルランド音楽の森 Issue No.235

アイリッシュ・ミュージック・メールマガジン 読み物編
Editor : 竹澤友理
November 2016

こんにちは!
早いもので、2016年も年の瀬が近づいてまいりました…!
皆様はどのような一年をお過ごしでしたか?
来たる師走に向けて、一日ずつ大切にしてゆきたいですね。

さて、毎月下旬に発刊する「読み物編」では、北欧ケルト音楽に携わるさまざまな方に寄稿していただいた文章をご紹介しております。
今月は復刊前のクラン・コラで記事を執筆されていた石井さんが、新たに文章を寄せてくださいました!
どうぞごゆっくりお楽しみください。(竹)

5年間で変わったこと:field 洲崎一彦

今回は、クランコラが休刊していた5年と言う期間について考えます。
私個人的にも国内のアイリッシュシーンにもいろいろな変化があったと思います。

まずは、私事で恐縮ですが、私自身が変わりました。何が変わったかというと楽器が変わりました。私は1999年にアイリッシュブズーキを始めてからずっとアイリッシュ音楽の活動はブズーキ1本で通してきたのですが、2014年春からフィドルでセッションに参加するようになりました。

ずっと店には、誰でも使える置きフィドルが1本あったので時には触って遊んでいたのですが、はっきり言ってフィドルはまったくの初心者です。それが、この時に、よしフィドルをやろう!と思い立ったのでした。きっかけは何だったのか。

以前のクランコラ誌上でもしつこく書いていたのですが、どうも自分のアイリッシュ音楽の楽しみ方が周りの人達と少し違っていることに気がついて、いやいや、他にもボクと同じような事考えている人いるでしょ?という悲痛な呼びかけをクランコラ誌上にも投稿し、fieldアイ研では練習会を立ち上げたりして色々とあがきもがいていたのですが、結局、「お友達」は現れず、敗北感をつのらせたままクランコラは休刊したのでした。

すぐに、5〜6年続いたアイ研の練習会も幕を閉じ私の心の内のもやもやは出口を失ってしまいました。セッションではしばしば私のブズーキは、やかましい、とか、邪魔になる、とかの苦情をもらい、そのモチベーション自体が低下していた頃の2012年に、アイリッシュ音楽にブズーキを導入した張本人と言われている憧れのアンディ・アーバイン氏が当店の25周年パーティに来店されて、彼の代表曲であるブラックスミスを彼がマンドーラ、私がブズーキで共演させてもらうという大感激の体験がありました。

ここで、ああ、ブズーキでこれ以上の体験はもう今後は無いだろうという感慨に陥り、アンディ氏が去った後のfieldセッションにはまったく何の興味も失ってしまって、気がつくと私自身がセッションに参加しないという日々が始まったのでした。ゆうに2年ぐらいの間私はfieldセッションには参加しませんでした。

が、伴奏楽器では表現できないものがメロディ楽器なら表現できるかもしれない!とひらめく日がやってきたのです。それは、まったくアイリッシュ音楽を知らない元ロックギタリストの若者がアイリッシュのギターが弾きたいと相談しにやってきたのが始まりでした。私が考えるアイリッシュ音楽の楽しみの中で比較的ロックギタリストが入りやすいであろう題材としてマーティンヘイズ&デニスカヒルを彼に紹介した時でした。デニスのギターがマーティンの身体の揺れに同調していく様、これはロックギタリストとしては理解しやすい雰囲気だと考えました。が、これがなかなか伝わらない。それで業を煮やした私はちょっと待っとけ!とフィドルを持ってきてマーティンのフレーズの1音だけをヒュン!とそのニュアンスだけでも出そうと無理やり弾いたのです。その時に、このロックギタリスト君は一瞬で私の言わんとしている事を理解してくれた。これが、ああ。メロディ楽器なら伝わるんや。。。。ということをひらめいた瞬間でした。

そして、いやもうその1音が弾ければええんや!と気づいた私は、フィドルという、つまりバイオリンという、楽器として非常に敷居の高い存在で(つまり最初は誰かにちゃんと習う期間とかが必要なんやろうなあという漠然とした想定)、なおかつ触って遊んでいたけどドレミも知らないというコンプレックス。などの、それまでフィドルに抱いていたイメージを打ち壊すことに成功しました。確かにギコギコフィドルはまわりに騒音被害をもたらすだろうし、これでセッションに入ったら他のミュージシャンにも迷惑だろう。が、自分としてはうまくメロディの全体が弾けなくてもこの1音、あの1音が出せるだけで今までは想像もしなかった快感が得られる。ある意味、自分の店でのセッションだから出来た暴挙かもしれません。現にウチのスタッフからは、あれはちょっとやめた方がいいと思います、と何度も言われたものです。

というわけで、今も私はフィドルでセッションに参加しています。2年経ったんやから少しはまともに弾けるようになったのか?と聞かれることがあります。しかし、自慢じゃ無いですが、未だに全ての音符を弾くことの出来るチューンは1曲もありません。たぶん、それは、セッションに出る以外にことさら練習をしていないからだと思います。でも、練習しない事にも自分なりに理由があります。それはまた、この誌上でおいおいお話していきたいと思います。

そして、もうひとつの収穫もありました。自分としてはフィドルという不便な楽器を触ることで「気持ちいいところ」のエッセンスが凝縮されたのか、ブズーキではあそこまで極端に弾かなくても、こことここにポイントを絞ればよかったんや、ということに気がついて来たことです。つまり、ブズーキとも次第に素直に接することが出来る心情に戻ってきつつあるのです。

いやあ。ロックギタリストのコバヤシ君には心から感謝している次第です。でも彼はその後、またロックの世界に戻ってしまったのですが。

また、以前と同じような、こんな調子になってしまいましたね。どうかお目こぼしの上、今後ともよろしくお願いします。(す)

Celtic Colours 2016 ジョンジョンフェスティバルその2:おおしまゆたか

つい先日リリースされたジョンジョンフェスティバルの新作《Forget me not》を聴いてその出来の良さに驚嘆すると同時に、なるほどと腑に落ちた。この新作はジョンジョンフェスティバルとしても一段レベルを上がった作品になっているが、それだけでなく、現在のわが国のケルト系音楽の録音としても、一頭地を抜きんでてもいる。ということは、現在地球上でリリースされているケルト系音楽の録音としてもトップ・クラスのものになる。ケルト系に限っても今年リリースされたすべての録音を聞くことなど到底不可能だが、耳にしたものから判断するかぎりでも、ベスト10に優に入る。むしろぼくとしてはベスト3に入れたいくらいだ。

当然カナダに行く前に録音はすべて終っていたわけで、腑に落ちたというのはここである。これだけのレベルにまで達していたからこそ、あれだけの熱狂的な反応を引き出せたのだ。ジョンジョンフェスティバルのライヴそのものに接するのも本当に久しぶりだったから、ライヴの質について客観的な判断などできなかったのが正直なところで、地元の聴衆の反応をみて、ああ、やっぱりこれはいいんだな、とぼく自身確認させてもらったくらいだった。

新作を聴くと、カナダで感じたことが凝縮されて明確に提示されている。ここ数年、国内のケルト系ミュージシャンたちのライヴや録音を身を入れて聴いてきて、その水準の高さは世界のどこに出してもひけをとらないことは確信するようになっていた。ケープ・ブレトンの人たちの反応の熱さには、その確信を期待以上に裏付けられた。その一方で、いったいジョンジョンフェスティバルの何がそんなに凄いのだろう、と不思議の念が湧いていたのもたしかだ。伝統のまったく無いところで演っている人間がこれだけウケるには、伝統の中やそこにつながるところで育ち、音楽を身につけてきた人間とは異なる何かがなくてはならない。それは何か。

ジョンジョンフェスティバルは「ケルティック・カラーズ」で4回演奏した。公式のコンサートが2本に、フェスティヴァル・クラブで2回だ。長くて30分強、短かい時は20分ほど。これはジョンジョンフェスティバルが「みそっかす」だったわけではなく、「ケルティック・カラーズ」ではどんな大物でも1回はこのくらいの時間でコンサートが構成されている。どのコンサートも4〜5組のミュージシャンが約30分刻みでステージに立つ。各々のコンサート自体がミニ・フェスティヴァルに仕立てられている。聴衆は一度に様々なミュージシャンを体験できる。フェスティヴァル・クラブも同じだ。むしろ大物の方が短かかったりする。われわれが帰国の旅に出発する晩、ダギー・マクリーンが出たが、うたったのはたったの2曲だった。

この4回のすべてで、ジョンジョンフェスティバルの演奏に対して聴衆は大喝采を送った。コンサートは椅子席だが、2本とも会場全体がスタンディング・オーヴェイションを送った。1本めの公式コンサートでは、会場のサウンド・チェックで最後に1曲通しで演奏すると、その場にいたスタッフ全員から拍手が湧いた。

フェスティヴァルの運営にあたるスタッフはフルタイムのプロは少なく、フェスティヴァルの時だけボランティアとして参加している人たちがほとんどだ。当然音楽が好きでもあり、自分も演奏する人も少なくない。永年「ケルティック・カラーズ」に携わっている人も多く、見ているライヴの数も半端ではない。それも伝統音楽のライヴが多いはずである。そういう人たちに拍手をさせるものをジョンジョンフェスティバルは備えていたことになる。それは何か。

むろん、それは、これです、などとあっさり出してみせられるような、単純明快なものであるはずがない。いろいろなものが融合していて、状況に応じて現れ方も様々に変化する。その現れ方をいくつか提示することはできるだろう。

ぼくにとっての最初の徴候は着いた晩のフェスティヴァル・クラブの楽屋に現れた。トシバゥロンがマン島で友人となったフィドラーのトム・コリスターである。トムは Mec Lir というバンドのメンバーでもあり、今回の「ケルティック・カラーズ」では全期間を通して、連日出演が組まれていた。まだ20代前半だが外見は30以下には見えない熊のような男だ。そのフィドルは外見には似つかない、柔かく精妙なもので、アイルランドやスコットランドも含めて、この世代ではちょっとこれだけのフィドラーは今いないんじゃないか。

そのトムがじょんのフィドルに目を留めて、借りて弾きだした。アニーがギターで付き合う。ほんの2メドレーほどだったが、二人が演奏している間、周囲はまったく消えていた。弾きおわったトムは、感に堪えないという面持ちで楽器を見やり、「いい音だ」とつぶやいた。

じょんの楽器は中学生の頃から使い続けているものだそうで、胴の裏には一面、鰐皮でも貼ってあるように鱗状のものが浮いている。特に何かをしたわけではなく、自然に出てきたものという。楽器は使うことで成長すると聞く。じょんの楽器はクラシックやアイリッシュをはじめ、多種多様な音楽をとことん弾きこまれたおかげで、特異な個性を備えるにいたったらしい。

次はアニーのギターだった。こちらを気に入ったのは他ならぬトニー・マクマナスだ。当然ながら、ケルティック・カラーズの常連である。後でフェスティヴァル・クラブに出た時には、最前列で見させてもらったが、これまた躍動感に溢れ、なおかつ繊細そのものの演奏は、やはり今ちょっと並ぶ人はいないだろう。そのトニーが楽屋でアニーのギターを弾きまくっていた。30分ほどだろうか。あるいはもっと長かったかもしれない。なにしろ、時間の感覚が狂うところなのだ、フェスティヴァルというところは。今は何時か、どうでもよくなる。トニーも弾き終えて、やはり感に堪えぬように「いい音だ」とつぶやいた。

アニーはどこでも弾いている。ちょっと時間が空くとギターを弾いている。会場に出発する前、迎えの車を待つ間。サウンド・チェックと出番の間。同世代の人間ならスマホの画面に見入っているように、かれはギターを弾く。うたを口ずさむときもある。爪弾くというと断片的な印象だが、もう少ししっかりと曲を弾いている。あまり大きな音ではないが、近くで耳をすますにはちょうどよい。

アニーの楽器も特別なものではない。トニーと、その傍でトニーの演奏を聴いていたスチュアート・キャメロンの二人が、このギターは何年の製造かとしきりに訊ねるが、いやいや最近のものです、そんなビンテージものではないとアニーは答えた。この楽器も四六時中弾かれることでよい楽器に成長していたのだ。

そういうことが起きている間にジョンジョンフェスティバルが急遽フェスティヴァル・クラブに出ることが決まっていた。楽器だけはあるが、ステージ衣裳は無いし、メイクをしている隙もない。じょんはライヴのときはいつも引っつめている髪を垂らしたままだ。

ステージ・マネージャーの簡単な紹介があって3人が出る。1曲終ったところで大きな拍手が湧きおこった。それを見てぼくはほっとした。というのが本音だ。そうだ、やはりこれは良いものなのだ。これならいけそうだ。そして、それが起きたのである。

ぼくは2曲めという記憶なのだが、トシさんによれば3曲めだったという。バンドがワルツを始めた。ワン・コーラス演って2周め、ステージ前に立っていた人びとの中から一組のカップルがすいと踊りだした。ふたりとも40前後だろうか。男性が達者にリードする形で、優雅ななかにも野性味があり、滑らかにすべる。バンドの演奏も二人の踊りに合わせるようにワルツのノリがわずかに強まったと聞えた。

リールやポルカの調子のよい踊りではない。踊る方が踊る気満々で乗ってくるものではない。踊り手が音楽に乗せられなければ、音楽に踊り手を乗せる力がなければ、こういうことにはならない。ジョンジョンフェスティバルのワルツは本物なのだ。くるりくるりとすべる二人の姿がぼやけた。涙が出ていたのだ。喉元に昇ってくる塊がある。これは何だ。なんで、おれは泣いているのだ。

その後はもう乱痴気騒ぎだった。ジョンジョンフェスティバルの繰り出すダンス・チューンにそこらじゅうが踊りくるっている。長い髪を振り乱すじょんはまるでフィドルの魔女だ。ステージが終りと宣言されると、アンコールを求める手拍子が起きた。フェスティヴァル・クラブではアンコールは無いというのは皆わかっているはずなのに。

この初日のフェスティヴァル・クラブに出たことは、いろいろな意味で大成功だった。これで気持ちがすっかりおちつき、後はまったくいつもと同じ、平静な気分でライヴに臨めたとトシさんもいう。やはり最初はどこか興奮していたのだそうだ。それはそうだろう。自信があるとかそういうこととは別のことではある。また、この演奏のことは口コミで広まったらしい。そのおかげというわけではないだろうが、公式のライヴは2本とも完全ソルド・アウト。ニューファンドランドからやって来たトシさんの友人たちも、前売券を持っていないというので、初めは入場を断わられたほどだった。

基本的な技量の水準の高さ、楽器の響きの良さだけでは、しかし、遠くからわざわざやって来てご苦労さん、ですんでしまう。ケルティック・カラーズの聴衆の反応はそんなおためごかしのものではなかった。

外交辞令でもない。心の底から、ジョンジョンフェスティバルの音楽は凄いと楽しんでいた。やはりもう一つ、別の何かがあるはずだ。たぶんこれではないかと気がついたのは、公式ライヴの2本め、フルックがトリをとったものだった。会場はボランティア消防署併設のホール。楽屋は隣の車庫で、消防車やボランティアの消防士たちの装備が並ぶスペースである。フルックのセーラは消防車のミラーでメイクをしていた。以下次号。(ゆ)

映画に学ぶ音楽と文化:上岡淳平

「ブルックリン」という、1950年代にアイルランドからNYのブルックリンに移住した少女の悲喜こもごもを描いた映画があるんですが、ぼくはこれがとても好きなんです。

もとより、ぼくはアイルランドやケルト文化を描いた映画に、びっくりするぐらい食いつきます。

というのも、ケルトの曲を演奏する時や聴く時に、色々な想像をしてケルト音楽に接するのが大好きなんです。

まず、目を閉じて、自分が立っている場所をアイルランド風に置き換えていきます。

たとえば、フローリングじゃなくて、もっとボコボコした土っぽい感じの床だったり、隙間風が入ってくる壁。家のすぐ横には牛か馬の小屋があって、その匂いを防ぐものなんて何もない感じ。

庭じゃなく、大きな石だらけで耕しにくい畑があって、そしたらきっと日中はその畑を根性で耕して、でもポテイトー(本場の発音)のほか根菜ぐらいしか採れなくて、食への期待値が低いテンション。

洗濯物を干しても、しょっちゅう雨が降るから乾かないし、風に飛ばされて泥だらけの道に落ちてしまう、それをガサツな郵便局員さんが自転車で踏んじゃって、もうへきえき、みたいな感じ。

自分はそういう時代の中で、こんな感じの心境のひとりの人間なんだと思いながら、何か一曲吹いてみると、普段と違う感覚が味わえる(気がする)んです。

最近はちょっと気になったことや、見てみたい風景なんかは、ちゃちゃっとググれば瞬時に解決する世の中なわけで、だからこそこういった原始的な想像力の使い方をする機会が減ってしまっているような気がします。

ご存知のようにケルト音楽は伝統音楽です。

長い長い年月の中、色々な時代の人たちが、もう受け継ぐのやめちゃわね?とならなかった音楽なんです。なのでできれば、そういった人たちの視点から見たケルト音楽の姿を直に感じてみたいと、つい思ってしまうんです。

自由気ままなアタマの中の想像は、歴史を知ることで、さらに具体的に設定できるようになっていきます。とはいえ、色々な文献を読むのはいささか面倒なので、ぼくはその情報を映画に頼っているわけです。

映画のいいところは、歴史がわからなくてもメインのストーリーがあるので初見でも十分楽しめることと、そのストーリーがすっごく面白ければ、背景を知りたくなるので、結果的に歴史を学ぼうという気になるということです。

また、文面だけでは掴みづらいビジュアル的な再現や、そういう環境に生きた人たちの空気感なんかも、画面から読み取れるので、想像力の強化には事欠きません。

いうまでもなく音楽は文化です。

文化は人によって作られ、そして人は環境、特にそこで収穫できる食べ物や、その地で出来得る仕事によって作られ、その環境は土地が作るものです。ワインを楽しむ時に、その畑のジュラ紀の頃の土の状態を知りたくなるように、ぼくはきっと人一倍、音楽の育まれた環境に思いを馳せるのが大好きなタチなんです。(一人っ子だからでしょうか)

だからこそ、アイルランドの雰囲気を知れる貴重なツールとしての映画に、やたらと食いついてしまうんだと思います。

ようやく、最初の話題に戻ってこれましたが、「ブルックリン」は、現在アメリカに3600万人ぐらいいると言われるアイルランド系アメリカ人みんなの物語です。そして、この映画の中で描かれる、アメリカで必死に働いている中で、ふと故郷のアイルランドを思い出し、胸がしめつけられるシーンには、必ず音楽があります。これほど多くの音楽が物語に深く関わっている映画は、久しぶりです。

映画の詳しい情報や、劇中曲リスト、音源や楽譜なんかをまとめて紹介したページも作って公開しているので、よければご覧ください。

https://celtnofue.com/column/culture/movies/movies_detail—id-783.html

もしも時間がある人は、音楽と文化、歴史を学べる小粋な映画を見て、ついでに気が向いたら、妄想奏法にもチャレンジしてほしいと、ひそかに願っています。

Whiskey In The Jarを現代に響かせたシン・リジィ:石井達也

先日、ニール・ヤングが主催するチャリティ・イベント『Bridge School Benefit』で、メタリカが「Whiskey In The Jar」をアコースティック・スタイルで演奏しているのを見た。もともと彼らはこの曲を1972年にカヴァーしているが、アコースティック・スタイルで演奏するのはとても珍しい(もちろん『Bridge School Benefit』がアコースティック・セットで演奏するのが基本のイベントであったためだが)。その演奏は、トラッドファンに広く親しまれている明るく軽快なノリのそれではなく、彼らが本来カヴァーのもとにしているシン・リジィのエレクトリック・ヴァージョンをなぞったものだった。そもそもトラッドが守備範囲にないメタリカにとって、「Whiskey In The Jar」はあくまでロック・クラシックのひとつでしかないのかもしれず、そのアレンジをアコースティックにそのままあてはめていたのも当然といえば当然である。シン・リジィのエレクトリック・ヴァージョンをもとに、もともとがアコースティック・スタイルのトラッドを演奏するというのは本末転倒なようにも思えるが、ただ個人的には大いに興味をそそられた。

ここであらためて思うのは、ダブリナーズやアイリッシュ・ローヴァーズなど、近代のトラッド・バンドが録音してきた軽快なフォークソングとしての「Whiskey In The Jar」が、ハード・ロック・バンドであるシン・リジィによっていまやゆったりしたテンポのバラッド曲として世界に認知されているという事実だ。どんなトラッド曲にしても伝承音楽というカテゴリーに納まっているだけでは世界的に認知されることはなかなか難しいが、この曲はロックの世界に取り上げられたことで一気に認知度をあげ、ポピュラーなものとなった。シン・リジィのリメイクが革新的だったのは、エリック・ベルの印象的なギター・フレーズの挿入と、フィル・ライノットのむせぶようなヴォーカルであり、そしてそれらを際立たせる緩いテンポである。それまでは酔っ払いの戯言のように軽快に流れていた歌詞も、生々しい実話のように語られるライノットの憂いのあるヴォーカルによって一変。曲の印象を覆す大胆な改変は、結果的に強大なインパクトを残すこととなった。新ヴァージョン発表当時、アイルランド中のトラッドファンはこれをどのように受け止めていたのだろうか。

おもしろいことに、この曲の発表後、シン・リジィはトラッドの要素をそれまで以上に積極的に取り入れ、アイルランドの英雄としてその地位を確立し、「Whiskey In The Jar」もさきのメタリカをはじめ、世界中に多くのカヴァーを生むロック・クラシックとなった。このトラッドとハード・ロックの邂逅は、双方の地位を飛躍的に向上させ、いまでいうミクスチャーの見事な成果となったのだ。シン・リジィの功績はあまりに大きい。

さて、ここで冒頭のメタリカに戻るが、彼らによる「Whiskey In The Jar」エレクトリック・ヴァージョンのアコースティック演奏は実に興味深いものではあったものの、実際にはどうにも物足りないものであった。個人的にメタリカは大好きなバンドであるし、彼らのエレクトリック・スタイルの「Whiskey In The Jar」にも好感をもっていたのだが、ここでの演奏は焦点がまったく絞れておらず、あまりにぶっきらぼうだ。これは彼らにトラッドの素地がないためなのだろうが、このどうにも味気ない演奏を耳にすると、トラッドにも素養があったシン・リジィの功績があらためて浮き彫りになってくる。さらにそれと同時に一朝一夕にはとらえられないトラッドの奥深さも。トラッドを新たに仕立てるのにどれだけのものが必要であるのか。さまざまな要素のさじ加減がいかに難しいものであるか。あやふやなメタリカの演奏を聴いていると、シン・リジィ、とりわけフィル・ライノットの慧眼をただただ想うばかりである。

場数を踏むこと:竹澤友理

つい先日、名古屋の円遁寺クラフトマルシェというイベントにバンドで演奏させていただく機会があった。円遁寺商店街という、よく整備された屋根付きの賑わい所で行われるパリ祭という音楽と食のイベントがあり、クラフトマルシェはそのイベントに併設して行われていた。そこでミニライブとストリートをやらせていただいたのだった。天気が少し心配だったのだが、秋になりたての空という感じで、透き通った風が吹き抜けていく心地のいい午後の日となった。

ミニライブは名古屋のアイリッシュパブshamrockさんの出店の前で行われるようになっていた。30分1ステージで、こんなセットリストを準備して臨んだ。

通常チューニングのフィドルでリールセットを2曲、半音上げチューニングの2本目のフィドルで、今回のギターの相方の好きなバンドの曲を2曲、サークルの大先輩から頂いたF管のローホイッスル(いまや中々すぐには手に入らないゴールディという作り手のもので一生ものと思って大切にしている)(実は半分はオーバートンなのだが)(おそらく笛をされる方はわかる)でリールセットをゆったり聞かせるテンポで1曲、よく売られているフィドグのD管ティンホイッスルでエアーを1曲。

隣の路地で行われているパリ祭に比べれば雰囲気や人通りは落ち着いていたが、マイクチェックで十八番のリールセットを弾いたときから本当に多くの方に足を止めていただけて、それだけで嬉しかった。

私はとある大学の多国籍音楽サークル「出前ちんどん」の現役部員で、四条烏丸のアイリッシュパブフィールドのセッションによく出入りしている。もともとこの演奏依頼は、そこでご一緒した方が私の先輩に軽く相談を持ち掛けた結果、先輩がその場で私に話を振ってくれたことに始まる。学生ということもあり、交通費などはなかったが、こんな機会はまたとないだろうと思い受けさせていただくことにしたのだった。しかしこの日の演奏に至るまでに様々な紆余曲折があった。

いっしょに出ることになった同じサークルのギターの人と、曲を決めたところまではよかった。

ただその後私のモチベーションがおそろしく不安定になってしまい、バンド錬のはずが私の個人錬に相方の人が付き合う、みたいな形が何週間も続いた。私もひどく焦ってはいたのだが、一人の練習のときは指が普通に動くのに、なぜバンド錬になるとこんなにもノロノロともたつくのか全く分からない。その原因を特定しようとして、自分が取り組んできた音楽について、いままでのこと、今のこと、これからのことを掘り下げていく過程をたどった。

誰でも最初はそうだと思うが、何かを始める動機なんて些細なものだ。

「かっこいいから」「好きだから」で始めたこと。でもそれをたった2,3年続けるのさえ難しかった。続けることと始めることは、実はほとんど関連していないのだった。始めたからと言ってこれからも続いていくか、そうでないかは本人次第。続けてきたことというのは、当たり前のことだけれどどこかで始まっているはずだ。でも、二つのあいだにはたったそれだけの関連しかなくて、何をもって始めたことを続けさせるのかは、私たち自身が決めなくてはならない。

ギターの相方の人に名古屋の話を持ち掛けたとき、「本気でやるならええよ」と言われたのを何度も思い出していた。私は「もちろんです」みたいに即答したのだが、じゃあお互いにとっての「本気」って何だったのだろうと考えた。

私にとっての本気は、なりふり構わずそれをとにかく第一優先することではなかった。それに取り組むときに全集中力を注ぎ込むことだった。でもきっと、ひとに寄りけりなんだと結論がついた。

バンドは、特にデュオが一番難しく、やりがいがあり、楽しいと個人的には思っている。なぜなら自分のやりたいことだけでなく、この相手と何をしたいかを考えなければ、そもそも音楽自体が立ち行かないからだ。私が名古屋に向けてのバンド錬で経験したように。

演奏の日の朝、早朝に一度会わせる予定ができなくなり、一人で下宿の部屋で一通り弾いてから家を出た。

果たして私たちのこれまでの逡巡に意味があったのか、とかそんなことを鬱々と頭の中にぶら下げながら在来線でひたすら呆としていた。先にも書いたが交通費の半分くらいを投げ銭で埋められればラッキーだと思っていたが、結果人生で初めての投げ銭は行きの在来線が3回乗れるくらいに集まっていた。数字はときに正直すぎて残酷だが、こういう場合は強力な味方だ。

いままでもパブのオープンマイクやパーティに出させていただいたりはしてきた。場数を踏むごとに自信がなくなる部分が目立っていた。今回は得られたものが違った。ここにたどり着くまでの2,3年を振り返ると少し感慨深いような気がする。

きっとこの一通りの逡巡を何度も繰り返して、音楽家をしている方たちの今があるんだろうなと想像した。私にとって11月はそんな一カ月だった。(竹)

クラン・コラ:アイルランド音楽の森(月2回刊)

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発行元:ケルトの笛屋さん
Editor : 竹澤友理

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