ライター:大島 豊
ドロレス・ケーン&ジョン・フォークナーの《Broken Hearted I’ll Wander》、メアリ・ブラックのソロ・ファースト、マレード・ニ・ウィニー&フランキィ・ケネディの《Ceol Aduaidh》の三連発によって音楽が生まれる土地と風光としてのアイルランドがぼくの前に浮上してきたわけですが、ではその後順調にアイルランドの伝統音楽にのめりこんでいったかというと、そういうわけではありませんでした。アイルランドからのレコードが続かなかったからです。
1980年代前半、アイルランドは不況のどん底でした。1960年代末からの外資導入による経済成長に、1973年に現在のEUの母体であるEECにUKと同時に加盟したことが相乗効果を生み、1970年代のアイルランドは好景気でした。その反動が1980年代前半に来ます。それによって再び国外への移民が増えます。後にアルタンのメンバーとして来日するダヒー・スプロールや、ボシィ・バンドの中核ミホール・オ・ドーナル、トゥリーナ・ニ・ゴゥナル、ケヴィン・バークなどがアメリカに移住するのもこの時期です。
スプロールはフィドルのリズ・キャロル、アコーディオンの Billy McComiskey と Trian というトリオを組みますし、ミホールとトゥリーナはやはりアメリカに拠点を移したスコットランドのフィルとジョンのカニンガム兄弟と Relativity を組み、さらにナイトノイズとして活動して、後には遊佐未森と共演することになります。バークはアメリカに腰を据え、ソロや Celtic Fiddle Festival などで着実な成果を重ねてゆきます。そうしてみれば、この不況も音楽にとって必ずしも悪いことばかりではありませんが、それはやはり副産物です。1970年代初頭に始まったプランクシティ、ボシィ・バンド、デ・ダナン以来の伝統音楽の現代化は1980年前後に収束します。端的に言えば、アイルランドからはレコードが出てこなくなったのです。
一方で1980年代前半はいわゆるワールド・ミュージックが台頭し、盛り上がった時期でもありました。ブラック・アフリカや東南アジアの伝統音楽をベースとしたポップスやそのロック的再解釈がポピュラー・ミュージックの市場を席捲します。この動きはヒット・チャートを中心とした市場音楽だけでなく、世界各地の伝統音楽への注目度を高める作用を生みました。フィールド録音や、ローカルな地方だけで流通していたレコードが、一部の輸入盤店、つまり国内盤として出ているものだけでなく、海外から直接輸入したレコードを中心に売る店に入るようになりました。
ぼくはヒット・チャートを追いかけることは習性としてありませんでしたが、ワールド・ミュージック現象に付随して現れた様々な伝統音楽には耳を奪われました。とりわけ北アフリカから中東、中央アジアにかけての音楽です。これには友人たちが始めた季刊誌の『包』からの刺激もありました。「パオ」と読む誌名のこの雑誌は、メジャーな音楽メディアがとりあげない世界各地の伝統音楽を積極的にカヴァーしていました。アイルランド、ブリテンなどの北西ヨーロッパやスカンディナヴィア、ハンガリーなどの東欧も含まれ、そちらには執筆陣の一人として参加もしましたが、それ以外の、それまではまったく未知だった地域の音楽に耳を開かれたのです。
その時までぼくが聴く音楽の範囲はブリテン、アイルランド、フランスの一部、ハンガリー、そして北米やオーストラリアの一部に限られていました。北米やオーストラリアも、ブリテン、アイルランドからの移民が持ちこんだ伝統音楽の流れです。そこへ、それ以外の地域にも面白い音楽はたくさんあると思い知らされたのです。わかってみればごくあたりまえのことではありますが、その時にはまさに世界がひっくり返るほどの驚きでした。文字通り、井の中の蛙が大海にほおり出されたのですから、肝をつぶすと同時に、これに夢中になるのもまた無理はありません。
新たな世界が開けると、しばらくはその世界をあちこち探索するだけで日が暮れてしまいます。アイルランドもスコットランドもイングランドもけし飛んで、モロッコからアルジェリア、チュニジア、パレスティナ、イスラエル、シリア、トルコ、イラク、イラン、アゼルバイジャン、アルメニア、タジキスタン、トゥルクメニスタンといった地域、さらにはインド圏、そして沖縄、奄美の音楽を聴きあさることになります。むろん、体系的な研究、探求などではなく、手当り次第、手に入るレコードを聴いてゆくわけです。こうしたレコードには学術的な調査・研究の成果発表の意味合いもあり、たいていは詳細なライナー・ノートが付いています。それまで読んでいたヨーロッパの伝統音楽のレコードのジャケットにあったものに比べて、遙かに量も多く、突込んだ内容のテキストです。それによって新たな知識を得ると、さらなる興味をかきたてられて、より深みにはまっていきました。
アルタンは《Ceol Aduaidh》から4年後にバンドの名前を掲げたアルバムを出し、メアリ・ブラックも1985年にセカンド《Without The Fanfare》を出します。ドロレス・ケーンとジョン・フォークナーは1980年に《Farewell To Eirinn》、1983年に《Sail Og Rua》を出します。このうち、後々にまで尾を引く影響を受けたのは《Farewell To Eirinn》でした。同じ年にアンディ・アーヴァインが出したソロのファースト《Rainy Sundays…Windy Dreams》冒頭のメドレーとともに、アイルランドの人びとにとって移民という現象の持つ大きさを初めて垣間見せてくれたからです。
一方、アルタンの《Altan》もメアリ・ブラックの《Without The Fanfare》も、各々の前作に比べるとずいぶんと印象の薄いものでした。出来が悪いとか、質が落ちるというのではないのですが、吸引力が弱い。演っている方も、どこか入れ込み方が浅い感じを受けます。各々の前作が、各々の目指したところを突きぬけて、思いがけないものができてしまった風情でもあります。ましてや、上記のような、新たな刺激に舞いあがっていたぼくには、さらに一段色褪せて聞えたこともありましょう。
ぼくなりのワールド・ミュージック熱がいくぶん醒めてきて、アイルランドにあらためて耳が引っぱられ、今度は本当に全身全霊が引きこまれるのは、1990年代が明けようとする頃になってのことでした。以下次号。(ゆ)