【最新号:クラン・コラ】Issue No.346

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クラン・コラ Cran Coille:ケルト・北欧音楽の森

Editor : hatao
August 2023 Issue No.346
ケルトの笛屋さん発行

イーリアンパイプスからフィドルを学ぶ:松井ゆみ子

イーリアンパイプスからフィドルを学ぶ:松井ゆみ子

わが音楽遍歴、または余はいかにして心配するのをやめてアイリッシュ・ミュージックを聴くようになったか・その19:大島豊

あらためてふり返ってみると、ぼくがアイルランドを音楽を生む土地として認識するようになる後押しをしてくれたのは、3枚のレコードです。ドロレス・ケーン&ジョン・フォークナーの《Broken Hearted I’ll Wander》、メアリ・ブラックのファースト、そしてマレード・ニ・ウィニー&フランキィ・ケネディの《Ceol Aduaidh(北の音楽)》です。

どうしてレコードにこだわるのか、と疑問に思われるかもしれません。これもまた今では事情がまったく違ってしまったことの一つです。

1995年はわれわれの社会がアナログ・ベースからデジタル・ベースに移行した節目の年とぼくは見ています。この年 Windows 95 がリリースされ、続いてインターネットが爆発します。Windows 95 を登載したPCが大ヒット商品となりました。この時買われたPCは数年と経たないうちに、部屋の片隅に埃をかぶったまま鎮座して、わが国では誰もが i-mode でインターネットにつながっていきました。

アナログ・ベースからデジタル・ベースへの移行とは端的に言えば情報伝達の手段がアナログからデジタルに移ったことです。テキスト、写真、音声は紙やディスクに印刷・収納されたものから、ネット上に表示されるものになりました。動画が少し遅れるのは、動画の情報量を遅延なく伝達できるほどネットの情報網が太くなるまで、またそれを遅滞なく再生できる能力を端末が持つまで待つ必要があったからです。この移行はわれわれ人間の暮しの様相を根底から変えてしまい、その変化は今も続いています。

最も変わったのは情報の伝わるスピードです。アナログ時代には情報は最速でもテレビ・ラジオなどの放送、電波によるものでした。何かが起きたとき、事件だけではなく、コンサートなどのイベントも含めて、その情報が生まれた時から、一般に受取ることができるようになるまでには時間がかかりました。また情報伝達経路の容量、すなわち一度に伝えることのできる情報の量はきわめて限られたものでもありました。当然、伝わる情報は全体のごく一部になります。言いかえると、アナログ時代には海外からやってくる情報の量と質を、受けとる側でコントロールすることはできませんでした。望む情報を得るためには、できるかぎりの手段でかき集めなければなりませんでした。

デジタル時代には情報はほぼリアルタイムで、しかも世界中に伝わります。リアルタイムであることは、そこに情報が編集される余裕が無いということでもあります。生の情報が生のまま起きると同時に世界中に伝わる。しかも伝達経路の容量は次元を異にするほど増えています。厖大な量の情報がリアルタイムで常に流れているわけです。受けとる側でコントロールしなければ、そこから自分にとって何らかの価値のある情報を見出すことは不可能です。

ここから派生することはわれわれの暮し、活動の全般にわたる変化ですが、ここで問題にしたいのは海外に対する意識の変化です。アナログ時代にはこの列島に生れ育った人間にとって海外は遙か遠いところでした。

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。

とうたったのは二〇世紀はじめの萩原朔太郎ですが、「背広」を「Tシャツとジーンズ」に置きかえれば、そのまま同じ世紀の末の我々の感覚でもありました。海の向こうは別の惑星に等しく、海を渡ってそこへ行くのはたいへんなことであり、ぼくら庶民にとっては一生に一度あるかないか、の一大事業でした。少なくともそう感じられていました。海外へ渡ることには、自ら望んで渡ることには、厚く高い壁があったのです。海外への出張、赴任などを別とすれば、新婚旅行が生涯最初で最後の海外行という人が多かったのです。ぼくが大学にいる頃に、卒業旅行で海外に行くことが、一部の学生たちの間で流行りはじめていました。

リアルタイムでいわば味噌もクソも一緒になった厖大な情報に常時触れていると、海外との間の距離はほとんど消滅します。そこはいつでもすぐ行ける、また帰ってこれるところになります。実際、航空機は地球上の大部分を24時間以内で結んでいます。その気になりさえすれば、海外に行くことは、隣町に行くのとそう変わりないことになりました。

アイリッシュ・ミュージックのような、特殊といっていい分野の情報も、ネット上には今やあふれかえっています。ネットにつなぐという意識すらなく、画面の上に、テキストでも音声でも静止画でも動画でも、いくらでも見る、体験することができます。

1995年以前には、アイリッシュ・ミュージックの情報はレコードと雑誌と書籍の形でしか受けとることができませんでした。ミュージシャンの来日もほんの一握りでしかありませんでしたし、こちらからでかけることは上記の事情で、まず思いつかなかったのです。アイリッシュ・ミュージックを体験するためにアイルランドに渡ったという人間もまず皆無でした(茂木健がドロレス・ケーンに会いに行ったのがたぶん唯一の例外)。ぼくが知らないだけだった可能性はむろんありますが、もしいたとすれば、どうにかして伝わってきていたでしょう。アイリッシュ・ミュージックを愛好する人間は国内ではほんとうに限られていたので、細くはあっても、アナログ的に皆つながっていたのです。

アイリッシュ・ミュージックに関する活字による情報も、当時は極端に限られていました。アイリッシュ・ミュージックの専門誌はありませんでしたし、書籍は年に数点も出れば多いほうでした。アカデミックな研究はまだ海外の素人の手に入るものではありませんでした。となれば、われわれにとって最も入手しやすく、また直接的な素材はレコードに限られることになります。そこに収められた音と、ジャケットなどに印刷された断片的な情報です。あとは想像力というよりも妄想力というべきイマジネーションを働かせるしかありません。かくて、今回の冒頭にあげた3枚のレコードにぼくのアイリッシュ・ミュージック本体の体験の出発が集約されました。ドロレス・ケーン&ジョン・フォークナーのアルバムについては既に書きました。メアリ・ブラックのファーストについては次回。(ゆ)

「好き」の光景:field 洲崎一彦

さて、前回は、field pub23周年パーティー前夜の予告編のようになりましたが、本編はどうだったのかをまずご報告しなければいけませんね。23年前に当店を訪れてくれたアルタンの人々の映像をモニターに映しながらぶちょー氏と対談しましたよ、はい。

映像を観ながら初めはドライに構えていたぶちょー氏もだんだん熱くなっていったのですが、店内には当時を共に体験した人間は誰もおらず、その後の時代のアイ研の残党であるサイトウトモコ女史他数名に無理やりステージに上がってもらって、アイ研黎明期のセッションサウンドの再現とばかり、ぶちょー氏の轟音ギターと私の爆音ブズーキで伴奏をする上にメロディーを弾いてもらったのでした。

これは当時スピード競争と言われていたアイ研セッションの遊びで、どんどんテンポが速くなって行って耐えられなくなった者が順次脱落して行くという無知なるが故の乱暴なセッションであったのですが、これを再現したわけです。

サイトウトモコ女史も、まあ話には聞いていてけれど実際にやるとこんな感じなのですかとハアハア満面の笑顔。ともあれ23年の歳月は残酷きわまりなく、私はピックを持つ右指が痙攣してしまって親指が内側に入ったまま戻りません。余裕かましてたのはぶちょー氏ぐらいなものでさすがに彼は京都マラソンに出走するだけのことはあります。鍛えてはります。

ああ。私たちはこんなことをして遊んでたんや。。。。まるでスポーツやん!。。。

これを一丸となって夜な夜な繰り広げていたのですね。そして、こんな連中のところにアルタンの皆さんがやって来たのですね。。。今思うと冷や汗もんです。

アイルランド民族音楽の何たるか!なんて発想はどこにもありません。セッションという形だけボンヤリと知って適当に楽器を持って勝手にその時に楽しいと思う遊びを繰り出して遊んでいたのですよ。まったく。「好き」しか無かったということですね。いや、これを果たしてアイルランド音楽が「好き」、と言えるのでしょうか。

こんな連中ですよ。元々アイ研は。そりゃあ外に出ていけば白い目で見られますな。。。笑

それから少し年月が経つと、実際にアイルランドに武者修行に出かける奴らも現れる。来日したアイルランド人演奏者に直接習う人も出て来る。云々で。アイルランドで実際に行われているセッションはこうだ!という正統派の人々が現れ始めるわけですね。

そういうセッションを横目に見ては、私やぶちょー氏は、なんか雰囲気が固くて眠たいなあ。。。みたいな愚痴を言い合うのです笑。

時折、私たちのセッションにひょこっとやってくるアイルランドから来たお客様などが、ここのセッションはダブリンでおこなわれているどのセッションよりもすごい!なんて言ってくれるのを真に受けて。よし!これでええんや!などと自らを鼓舞してはいましたが、今から思うとそれはセッションサウンドの事でも何でもなくて、ただ、私たちが大はしゃぎで楽しそうに遊びに興じていた、その雰囲気を一緒に楽しんでくれていたという事なのでしょう。

そして、よくおしゃべりもしていました。セッション中は半分ぐらいおしゃべりしてました。そう、もどうでもいいくだらない話を。当時、箕面市から来ていたHさんが(箕面から京都は1時間半くらいかかります)、ぶちょー氏に向かって、私はこんな猥談を聴きにわざわざ箕面から来ているんじゃないですよ!とキレた、今や伝説となっている逸話もさもありなん。彼女は東京から転居してきた人で楽器も上手くて曲もたくさん知っている人だった。きっと、とっても腹が立ったのに違いありません。

私自身はその後年になって、たまたまセッションに来てくれたアイルランドのフィドラーのP氏とセッションを共にしたことがきっかけで、大きなショックを受けることになります。

これまで自分達のやってきた音楽はアイルランド音楽とはほど遠い、、、と。そうですね。私はその音楽そのものにここで初めて目を奪われることになるのです。そして反動というのは怖いもので。fieldのセッションサウンドに大きな疑問を感じて行くことになり、初期クランコラなどにもそれに対する疑問や愚痴をぶちまけるような投稿をしまくることになるのです。

それが、後のアイ研練習会につながり、とにかくfieldのスザキはわけのわからない難しい事を言うとるぞ、というような雰囲気で見られ始めるのですね。しかし、それがまた自分の首を絞める方向に行ってしまうというのは、今振り返って気が付くことなのですが。。。

そういう風に、アイルランド音楽と私というテーマが頭の中で1周も2周もグルグルまわってコロナに突入し、2年以上のブランクの後に昨年の10月からレギュラーセッションを再開しました。

しかし、この2年半の間には、例えば代々fieldセッションの常連の一角を成していた立命大の民族音楽サークルが消滅したり。京阪神でうごめいていたアイリッシュミュージシャン達の相関図が微妙に変化していたり。コロナ前のセッション常連の人々がそのまま戻って来るという景色は、案外復活しませんでした。

面白いなあと思うのは、このコロナ下ではやはり家にこもっていた人が多かったというのがあるのでしょうね。YouTubeなどのネットでホイッスルなどのレッスン動画をみつけて粛々と練習していたという人々。彼らはだいたいにして、アイルランド音楽に興味はあったが回りにはそういう環境がなくて手を出しそびれていたけれど、引きこもっているうちにネットでそういうレッスン動画を見つけて、ネット通販で試しにホイッスルを入手してぼちぼち練習してみたという方々。

そうです!ネット通販でホイッスルを入手するって!それはもう、ケルトの笛屋さんの出番ではないですか!

そうなのです。その実店舗が京都にあると知ってちょっとコロナが緩んだあたりから、彼らはケルトの笛屋さんにまるでアニメの聖地めぐりのように巡礼にやって来るというストーリーが出現します。

例えば土曜日であれば、笛屋さんが18時に閉店する同じ時間からすぐ下の階のfieldでレギュラーセッションが始まるわけで、元気のある人々はセッションに流れてきてくれるのです。比較的に初心者の方が大部分ですが、自分なりに練習していたり、自分なりにネットの情報を集めていたりで1人ひとり全然雰囲気が違う。そのひとりひとり違うというのが非常に新鮮なのです。

fieldセッションはレッスンの場でも発表会でもありません。fieldセッションの黎明期を思い出すにつれ、あれは皆が楽しかったから成立できたことが判ります。時折古い同好の方々から、fieldセッションの歴史と伝統が日本のアイリッシュミュージックのステイタスだなどと持ち上げられることもありますが。それはそれでいささか重いものがあったなあと今なら思います。

なので、、、先日のとあるセッションで参加人数が少なくて、よりによって私とぶちょー氏、それに遠方から笛屋さんにやってきた若い女性の方というメンバーでのセッションになりました。いかんせん。私とぶちょー氏の2人では(まあ一応両人ともにフィドルを弾くのですが)次から次へとチューンを繰り出すことなんてとても出来ない技です笑。

そこでですね。やはり楽しくしなければならない!と意気込んでしまった私たちはおしゃべりに興じてしまって勢い余って、果敢にひとりで参加してくれた初対面の女性の前でさんざんエッチな話で盛り上がってしまいました。とほほ。

。。。あれに懲りずに、また来て下さいね〜!
みたいな。。。。

つまるところ今月の結論は、セッションは遊び場である。これです(居直
り)。す

90年代、アイルランド音楽のビッグバン:hatao

今月のクランコラは偶然にも2000年前後がテーマになっているので、私も懐かしくなってひと昔の話を思い出してみます。

私が大学に入学したのは1997年、今から26年も前なんですね。インスト音楽が好きだった私はその春、同じ学部で出会った民族音楽好きな友人同士で民族音楽バンド(のちの民族音楽サークル「出前ちんどん」)を結成しました。まともに弾ける楽器もなかった当時の私は、管弦打楽器と、興味の向くままになんでも手を出していました。幸いにも京都にはコイズミ民族楽器店があり、たくさんの民族楽器を見ることができました。秋になるとアイリッシュの笛に興味を持って、コイズミ楽器でホイッスルを手に入れてBothy BandやCapercaillie、Carlos NunezのCDを耳コピーして楽しむようになりました。

その年の冬に映画タイタニックが空前の大ヒット。エンヤの人気も絶大でした。また、90年代はアイルランド音楽のバンドブームでした。97年はLunasaが結成した年でもあり、意外にもFlookはその2年前の1995年にすでに結成しています。他にもSolasやDervishなど現在に続く多くの役者が出揃った時代でした。アイルランド音楽の音楽性において、四半世紀後の今まで古びることのない普遍的な価値が確立された時代だとも言えるでしょう。

大島さんが書かれているように、インターネットが実用的になったのもこの時代ですし、fieldをはじめとするパブが各地で営業開始し、アイルランド音楽セッションが各地で始まったのもこの時代。アイルランド音楽史としては、国内外問わず重要な転換点、大げさにいえばアイルランド音楽が商業的に成功して、世界中でリスナーを獲得し演奏者が増えるという「ビッグバン」が起きたのではないかと思います。

Lunasaのファーストアルバムに音楽に衝撃を受け、私はフルート奏者を志すようになりました。当時ケーナを習っていた岸本タロー先生からアイリッシュでも使えるD管の横笛を借りて練習を開始。その後98年に吉田文夫さんからEamonn Cotter製作のキーレスフルートを購入しました。私が初めてアイルランドに行ったのは大学二年生の冬、99年2月でした。その時代、音楽之友社から守安功さんのアイルランド音楽関連書籍が立て続けに出版されていました。当時流行していた商業主義音楽へのアンチテーゼとして、初めてローカルな伝統音楽が国内に紹介された画期的な本でした。私も含め守安さんの本に影響を受けてアイルランドを目指した若者は多かったかと思います。

当時はインターネットがまだ普及しておらず、ファクスで海外と連絡を取り合い、ホテルは現地に入ってから電話で予約していました。車もホテルもコンサートも事前に予約ができる現在を思うと、なんと不便で冒険的な時代だったのかと思います。

この年の2週間くらいの滞在が、私のアイルランド音楽にさらにはまりこむきっかけになりました。まだEUに加入する前のアイルランドでは、通貨としてポンドを使っていました。オフシーズンで観光客がいない寂れた雰囲気の街、曇りと雨ばかりの陰鬱とした冬の天気、暖炉で燃えるターフ(泥炭)の匂い……。特別な人や音楽との出会いがあったというわけではないのですが、音楽以外は何もない、そんな素朴な田舎の音楽に触れて、初めてCDからは伝わらないアイルランド音楽を体感できました。

今の若い人は新旧の優れた音源や映像に信じられないほど安価にアクセスでき、現地の情報を簡単に入手でき、私の時代とは天と地ほどのアドバンテージが与えられています。それは羨ましい一方で、あの頃のまだ閉じていた世界の、好景気と開発にさらされる前のアイルランド音楽を体験できたことは、それとは天秤にかけられないくらい、私にとってかけがえのない財産になっています。

編集後記

原稿が不足しがちな本誌に、寄稿してやっても良いぞという愛読者の方はぜひご連絡ください。

ケルト音楽に関係する話題、例えばライブ&CDレビュー、日本人演奏家の紹介、音楽家や職人へのインタビュー、音楽旅行記などで、1000文字程度までで一本記事をお書きください。

頻度については、一度にまとめてお送りくださっても構いませんし、毎月の連載形式でも結構です。

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クラン・コラ:アイルランド音楽の森(月1回刊)
発行元:ケルトの笛屋さん
Editor :hatao

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