【メルマガ:クラン・コラ】Issue No.245

アイリッシュ・ミュージック、ケルティック・ミュージックを中心としたヨーロッパのルーツ音楽についての情報、記事、読物、レビューをお届けする月2回発行のメールマガジン「クラン・コラ」。

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クラン・コラ Cran Coille:アイルランド音楽の森 Issue No.245

アイリッシュ・ミュージック・メールマガジン 読み物編
Editor : 竹澤友理
April 2017

こんばんは!桜もだんだんと見頃を過ぎて、春も落ち着いてきましたね。今月からおおしまさんの記事が復活しております!Editor’s Choiceのコーナーは関西のアイリッシュバンドCocopelienaの岩浅さんが寄稿してくださいました。さらに、ケルトの笛hataoさんが本稿2度目の記載となる記事をお寄せくださいました。上岡さんの記事とともに今月から連載形式になっております。お楽しみください!

※スマホ等で読むときは、画面を横にしていただくと読みやすいかと思います。今月号は分量がありますので、お暇な時間にちょこちょこ読み進めていただくのがおすすめです!(竹)

「苦言」:field洲崎一彦

さて、最近いろいろな所で日本のアイルランド音楽界への苦言を耳にする。それもほとんどが内部からの苦言である。これもまた5年前にはなかった事態である。

私は、このクランコラ誌上に、去年の11月から、クランコラが休刊していたこの5年間のfieldまわりのアイルランド音楽状況の変化を振り返ってきたのだけれど、今回もむしろ「5年で変わったこと(その5)」と題してもよかったかもしれない。

この苦言はだいたいが同じようなトーンで、アイルランド音楽界が狭くて閉鎖的であるというものである。閉鎖的ということならば外部から聞こえて来てもよさそうなものだが外部からはむしろオープンな印象を持たれているような気がすることが多い。これは、私のような立ち位置から見ているとちょっと不思議な現象である。

先日も、最近アイリッシュ以外の音楽活動が多くなったある演奏者と久しぶりに話す機会があった。あのアイリッシュから少し距離を置くことができて良かったと思っていますと言う。この人は個人的に何か嫌な思いをしたのかもしれないがそこには触れずにあくまで一般論として、アイリッシュ界は他のジャンルと何が違うの?とたずねてみる。出て来る答えはここでも閉鎖的という事だった。

うーん。いったい何が起こっているのだろう。もうすこし具体的にたずねてみる。すると、アイリッシュ界はオタクの集まりでしょう、と言う。なるほど、マニアさんが多いということなのか。が、マニアさんなら他のジャンルにも絶対いるだろうし何故アイリッシュ界のマニアだけが目立つのだろうという所が気になった。

そこで、ふと思い当たったのだ。私自身も5年くらい前まではオタクとは言えないけれど、マニアの持つ閉鎖的な心境に陥っていた頃があったことを。

その頃、私は自分なりのアイルランド音楽の楽しみを発見した。あるいは、当時そう思っていた。今から思うと、それは他のジャンルを聴いてきた時には味わえないような種類の「発見した」感が強力だった。これが本当のアイルランド音楽の楽しみ方だ!とまで豪語はできないけれど、これって少なくとも絶対楽しいよね!ね!と誰彼かまわず言いたくてたまらない時期があった。

この「発見感」はある種の興奮を伴っていた。そして、その興奮した私に比べて、ね!ね!と私の話を聞かされる周囲の人々は思いの外冷ややかな反応しかしてくれない。すると、どうなるか。

みんな、何もわかっちゃいないのだ!と、どうしても開き直りの心がむくむくとわき上がる。何せ、私は興奮しているのだから。

あの時、もし、1人でも2人でも私の意見に同じような興奮を持って共感してくれるような人が現れていたら。今となっては、きっと、その人達と閉じこもって閉鎖的な雰囲気を作り、上記の開き直りがエスカレートしてもっともっと排他的な世界を醸造していたことは簡単に想像できる。

こういう実感から思うに、アイルランド音楽にはこのような「発見感」を伴う興奮に陥りやすい何か要素があるのではないかということである。

しかも、この要素は、他の音楽ジャンルには無い魅力を生み出す源泉でもある、そういう質の何か。

まず、アイルランド音楽は、例えば、クラシックやジャズのように一見してとんでもなく難しそうには聞こえない。耳に馴染みが良いメロディが流れているだけでで、ひょっとすると伴奏すら無い。

次に、最低限1000円余りの笛を入手することで演奏を始められる。つまり、敷居が低い。

そして、最後に、これは私もさんざんに経験したことだが、アイルランド人の演奏を目の前で体験する機会が豊富であること。これ、実際非常に大きい要素だと思うのである。

それは、耳馴染みの良い簡単な形の音楽であり、初心者にとってもセッションという独自の演奏形態があるから他人の演奏を間近で体験する機会が多い事に加えて、こういう場に本国から来日したプロ級の演奏家が普通に参加してしまう。

1人のリスナーとして達人の演奏会を鑑賞するというのではなくて一緒にセッションをする、この一緒に音を出すという体験は鑑賞するのとはまた全く異質な刺激にあふれている。同じメロディーを同時に奏でているのに何故こんなに違うのだ!自分がその時まったく異質な作業をしているかのように思える違和感に襲われる。耳だけではない、身体全体がそれを感じてしまう。

これは、一種のショックである。

現に、私がそうだった。CDでしか聴いたことが無かったアルタンが京都公演の後にわが店にやって来てセッションが始まってしまう。こんな音楽ジャンルは他にはあまり無いと思うのだ。

例えば、ポールマッカートニーが来日して公演のあとにふらっと飲み屋に行って酔っ払って歌う場所に居合わせ、おまけに一緒になって歌うなんて機会があるビートルズファンが日本にどれほどの数いるだろうか、である。他のジャンルではまず滅多にあり得ない状況が、何度も何度もやって来るのである。

また、私の体験ではないけれど、10数年前から学生の英語の語学留学先にアイルランドが認められたことで若者が以前よりも手軽にアイルランドに行く機会が増えた。中には留学をきっかけにアイルランド音楽にはまった例も多いのだが、本国のパブでは毎晩どこかでセッションをやっている。ここでも、名のある演奏家が一般愛好家に混じって普通にセッションをしている光景はまれではないから、意図せず一流の演奏を体験してしまう初心者が続出する。現地の雰囲気も手伝って、理屈ではない、身体が反応してしまう。

ロンドンの飲み屋に入ったらポールマッカートニーが酒飲みながら歌ってて一緒にどうだい?なんて光景に遭遇する日本人が果たして何人いるだろうか。

このショックとともにわき起こる、自分達が普段やってるのは「本当のアイルランド音楽ではないのかもしれない」という思いの萌芽は強力である。では、何が違うのか?。。。と、マジメな人は悶々とするのだ。悶々とし続ける。その果てに何かを発見した気分になった時の興奮たるや言うに及ばずではないか。

しかし、これは体感であって何か論理的なというか、既成の音楽理論的なものでやすやすと説明できてしまえる類いのものではない。個人の体感を客観的に論理で説明できるのであれば究極的にはもう楽器を弾く必要などなくなる。つまり、この興奮を他者に正確に説明するのは多くの場合至難の業である。

故に、誰もわかっちゃくれない。。。誰もわかっちゃいない。。。という地点で沈没。

そして、それぞれに沈没しながら閉鎖的な空間が乱立してもまったく不思議ではないだろう。ウラを返せば、まさにアイルランド音楽という場が持つ魅力の裏側にこの問題が潜んでいたということである。

だから、どうせ誰もわかっちゃいないんだ!という卑屈さはもうみんな捨ててしまおう。その気分に襲われているのはあなた、あるいはあなたたちでけではないのだ。

アイルランド音楽は本来は奥の深い民族文化だ。そして、この異文化に触れる場がこんなにも恵まれている状況に私たちはいるのだ、また、それがかの国の文化そのものなんだ、と。

そこで、それぞれの人が、それぞれの発見感を持って興奮しながらせいいっぱいこの音楽を楽しもうとしているのだ、と。

だからー!みんな一緒にセッションしようね!(す)

Hannah Rarity《BEGINNINGS》:おおしま ゆたか

昨年末の「ケルクリ」で最大の収獲はこのEPだったかもしれない。チェリッシュ・ザ・レディースのシンガーとしての来日だったが、ジョーニィ・マッデンのはじけぶりに眼を奪われて、正直、バンドの他のメンバーはほとんど眼に入っていなかった。ということをこれを聴いて思いしらされた。

プライヴェートな事情から、昨年12月はじめから非生産的なことばかりやって過ごしていた。1日終るとくたびれはてて、何をやる気もおきない。音楽も聴きたいと思わなくなる。人間、非生産的なことばかりやっていると、ココロが干からびてくるというのがよくわかる。

暖かくなり、その作業も一段落ついてようやくまともに音楽を聴く気になり、そう言えばと会場で買ったこれをとりだしてみた。

当初、なぜかアメリカンとばかり思いこんでいた。このあっけらかんとしたジャケットのせいかもしれない。公式サイトを見れば、スコティッシュでグラスゴーのコンセルバトワールを卒業、リマリック大学にも交換留学している。となるとこの選曲も道理だし、先年亡くなった Andy M. Stewart 畢生の名曲〈Where are you tonight I wonder〉のうたいこみの深さも納得する。

スチュワートのオリジナルもスローなバラッドだが、ラリティはさらにテンポを落とし、ピアノ伴奏だけでうたいだす。愛する女が他の男のもとへ去ったことを嘆くというのは、ありふれた話ではあるのだが、それがスコットランドでしか生まれない起伏の大きな、陰翳の濃いメロディに乗せられると、いきなり普遍的でしかも生々しくなる。作者はもちろん、ニーヴ・パースンズよりも、カラン・ケーシィよりもゆっくりとぎりぎりまで速度を落とし、十分に延ばすラリティのうたは、裏切られた人間の痛切さ、しかも裏切った相手をなお愛せずにはいられない人間のどこへ持っていきようもないやりきれなさを聴く者にうちこんでくる。途中からフィドルとホィッスルがドローンを入れてくる。ホィッスル主体のサビからはあえかな希望が、ほのかに匂う。

2曲めの〈Erin Go Bragh〉は、ディック・ゴーハンが一代の傑作アルバム《HANDFUL OF EARTH》冒頭で、切れ味抜群、豪奢華麗な自身のギターをバックにうたっているのが強い印象を残している。ゴーハン自身、半ばアイルランドの血を引くことを宣言した形で、ごりごりスコティッシュの権化のように仰ぎ見ていたこの人が、とリリース当時あたしなどは衝撃を受けたものだ。

手許にある録音で最も伝統本来に近いと思われる Jimmy Hutchinson の《CORACHREE》収録のヴァージョンではむしろユーモラスにうたわれていて、一種のジョークともとれる。アンディ・アーヴァインがリード・ヴォーカルをとる Patrick Street ではその流れを汲んでいる。ゴーハンは緊迫感に満ちた演唱で、正面から差別を告発する。ハイランド差別に託してアイルランドへの差別も歌いこむ。アーヴァインとの違いが際立つところは、それぞれの性格やそこから生まれる立ち位置の違いでもある。もっともこの一聴ソフトにやんわりとうたいながら、後で衝撃が効いてくるのはアンディのスタイルでもある。

ラリティはどちらかというとゴーハン寄りの解釈だろう。左にヴィオラ、右にホィッスル、中央でギター。こうして歌われると、かなり音域の広いうただ。この人の声も中音域がふくらむ。ヴォーカルは緊張感を湛える一方で、ヴィオラとホィッスルのリフは軽やかでもある。やがて第二連からヴィオラとホィッスルが重ねるリフが切迫感を高める。いわれのない差別を受ける者が感じる恐怖が迫ってくる。

4曲めはこの中では最もアップテンポ、フィドルとホィッスルは伴奏というよりもドラマチックな効果音。冒頭でリヴァーブを利かせ、これが一篇の炉辺の語りであることを示す。伝統の生地に近い録音を聴くと、これは冗談の塊のような歌らしい。リヴァイヴァルでもそちらを敷衍した歌唱が一般的にみえる。ラリティはしかしどうやらユーモアよりも神秘感、不思議の感を前面に出そうとしている。

[1]と[5]はラリティがソングライターとしても並ではないことを示す。

[6]はアメリカに残ってブリテンに逆輸入される形で広まった。ジーン・リッチーやヘディ・ウェストの古い録音があり、ブルース・モルスキィもとりあげている。映画『歌追い人』のなかでアイリス・ディメントがうたっているのも良い。O’Jizo の新作で1曲うたをうたっているNancy Conescu の版は多重録音で歌をだんだん重ねてアカペラ・コーラスに仕立てていておもしろい。マーティン・シンプソンのヴァージョンも、ギターのみでの演奏だが、アメリカ版とみていいだろう。シンプソンといえば先頃出した Dom Flemons との共演盤を聴いても、アパラチアが心の故郷の人ではある。

ブリテンではシャーリー・コリンズが有名なデイヴィ・グレアムとのアルバムでとりあげた。これも元は彼女がアラン・ロマックスに同行したアパラチアでの歌の採集旅行の成果のひとつだろうが、この人がうたうとまったくイングランドのうたになる。グレアムはこれにアラブ風味たっぷりのギターをフリーリズムで対置する。こういうところにこの人の天才がよく現れる。

コリンズのこの歌唱を聴いてビートルズから伝統音楽に転向したというのは Pete Watkinson。倍音豊かなテナーの無伴奏で、テンポを落とし、ていねいにうたいこむ。

デイヴ・バーランドがうたっているのもアメリカの古いうたが好きだからだろうが、例によってメロディがまったく違う。ほんとうにどこからこういうメロディを見つけてくるのか。よく知られているのとはまるで別だがしかしぴったりなのだ。

しかし、このうたのあたしにとっての今のところ決定版はジョン・ドイルのものだ。ベース、ドラムス、それにピアノによるミニマルなバックに、自身のギターを配し、肩の力を抜いてゆるりと坦々とうたってゆく。掉尾のドラムはじめ、組立てはモダンな、ポップスとも言えるものだが、歌唱はあくまでも伝統に則って感情を顕わにしない。シンガーとしてのこの人の存在に耳を開かれる。

ラリティ版のギターはペンタングル以来のブリテンの伝統音楽のギターを受け継ぐ。いろいろな意味でこのトラックは彼女のフォーク・リヴァイヴァルへのトリビュートとも聞える。歌唱は歌の内容にしたがって感情をこめることをしない伝統に沿いながら、メロディそのものの生理にしたがって軽重をつけてゆくが、その無理のない強調のしかたはモダンな試みだ。

影響を受けたミュージシャンとして、カリン・ポルワートとともにケイト・ラスビーの名前もあって、言われてみれば、自意識が頭を出すところもないわけではない。ポルワートやキャサリン=アン・マクフィーの後を追ってほしい。もしチェリッシュ・ザ・レディースの再来日があれば、この人のソロ・ライヴを、小さな会場で聴いてみたい。

それにしても、チーフテンズもスコティッシュのアリス・マコーマックをシンガーとして採用している。スコットランドの女性シンガーには、やはり「なにか」があるのだろう。

Musicians
Hannah Rarity: vocals
Innes White: guitar, keyboards
Sally Simpson: fiddle, viola
Conal McDonagh: whistle

Tracks

  1. Anna’s Lullaby (Hannah Rarity)
  2. Erin Go Bragh (Trad.)
  3. Where Are You Tonight (I Wonder)? (Andy M. Stewart)
  4. Miller Tae My Trade (Trad.)
  5. Stevenson’s (Robert Louis Stevenson/ Hannah Rarity)
  6. Pretty Saro (Trad.)

Produced, Engineered, Mixed and Mastered by Scott Wood @ Oak
Ridge Studios
Artwork and Layout by Dougie Harley
Photograph by Beth Chalmers

https://www.hannahrarity.com

★Editor’s Choice★:岩浅 翔

本メルマガでの執筆の依頼を受け、どういったテーマについて書くか頭を悩ます日を過ごしていました。アイリッシュミュージックの魅力、楽器について、演奏に関すること、ミュージシャンについてなど色んな切り口を考えましたが、そもそもこのメルマガを読んでる方々は私よりもそういった内容に関しては造詣が深く、何を今更しょうもない事を…と思われる事が想像に容易い為、少し斜めを向いたテーマについて書くことにしました。

私自身は幼少期からアイリッシュを含むワールドミュージックを聴きライブを見て育った為、自然なものとしてアイリッシュを聞いている訳ですが、どうやら世間的にはマイノリティ、少数派だという事をしばしば忘れてしまい普段音楽をそう聴かない人と接した時にハッとしてしまう事があります。休日に誰かと会うとすると9割以上がアイリッシュ関連の友人としかあっておらずみんなが自分と同じような価値観や感覚だと麻痺してしまうのです。言ってる事がいまいちピンと来ないかもしれないので例を挙げましょう。

「セッションで終電逃しちゃって、仕方ないから朝帰りするか」とか、「今度遠方で演奏するから泊まりで行こうかな。メンバーの中には女性もいるけど予算ケチって相部屋で雑魚寝します」とか、「新しい楽器買おうかなー。届くの注文してから5年以上後だけど」というような事は私の感覚ではまあ普通の事なんですけど、世間一般的には許されない、理解や容認に苦しむものという事です。それ故よく個性的だとか変わってる奴だなどと言われたりする事が往々にあります。

以前に仕事上で面接をする事がある会社員の先輩フィドラーと話してた内容ですが、履歴書の趣味の欄に「音楽鑑賞」と書いている人が多くいるという事ですが、そういう人に「音楽鑑賞がご趣味とありますがどういった音楽を聴かれるのですか?」と社交辞令的に聞くと「なんでも聞くのですがミスチルとB’zとかよく聞きます」と大体の人は答え、「それ、なんでもじゃねーだろ!なんでもつったらJPOPだけじゃなくてジャズもプログレもワールドも聞けよ!」と思う事よくあるよね、と共感して盛り上がった事があります。しかしながら世間一般的には「なんでも」というとミスチルやB’zの違いであってアイリッシュなんて何ですか?それ、というレベルなんでしょう。独身時代には恥ずかしながら小生も男女合同コンパニー、いわゆる合コンなるものに参加していた時代もありますが、そういう場で「趣味は音楽で、アイリッシュとかが好きです」なんて言うとそこで会話の流れがストップしてしまうか「それってどんな音楽?」と果敢にも(聞かなくてもいいのに)聞かれた場合には「えーっと、あれこれこんな感じの・・・」みたいな説明をするものの結局良くわかってもらえない事が多く、聞いた側も聞かれたこっちも後味の悪さだけが残るという残念な結果になってしまうので、合コンに限らずいつ頃からかそんなに親しくない人にはアイリッシュ音楽をやっているという事は言わないようになりました。

また別の例では私が中学1年だった時と思うのですが、学祭のテーマソングを全校生徒の投票によって決めるという取り組みがあり、確か私は「祭ったらもうこれしかないでしょ!」みたいな意気込みでフォルクローレの花祭りという曲を投票用紙に記入した記憶があります。結局当時流行していた小室ファミリーTRFのサバイバルダンスという曲になったのですが、開票後にアホな事書いてしもたなあという気持ちを覚えたと同時に、少数派にとって多数決ほど非民主的で馬鹿馬鹿しく思えるものは無いなと思った記憶があります。話しが脱線しましたな。

なにが言いたいかというと、自分も普段接している友人も実は少数派、それが当たり前と慣れてくるとそうでない「アイリッシュってどんな音楽?」というような多数派の人と接した時に面食らったり怒らせたりしてしまう事があります。音楽の嗜好だけでなく価値観や行動においてもやはりずれがあるようです。意識的にちょっと違うんだろうな、という事を意識するだけで社会性とでも言おうか、円滑に周囲とのコミュニケーションを取れるようになるので是非ご注意ください。ちなみに私が個人的に思いつく「アイリッシュ音楽が好き」という事以外での少数派とされる嗜好やパターンを挙げます。

  • 家にテレビが無い。もしくは無くてもいいし、あってもバラエティやドラマは見ずニュースかライブ映像しか見ない。
  • 予定の無い休みが滅多にない。今日は予定もないし街中ぶらぶらして、おっ!映画館でも入ってみるかなんてのは久しくない。
  • カラオケ嫌い。カラオケのあるスナックとかで他人のカラオケを聞くのも自分が歌うのも苦痛。
  • 友達やFB友達に外国籍の人が結構いる。
  • ルームシェアでも平気。むしろルームシェア最高。

こんなとこでしょうか。我々少数派にとっては肩身の狭い社会ですがそれでも本メルマガをはじめ、コミュニティが各地で、SNSであり、コミュニケーションを取れるようになったことは素晴らしい事です。

アイリッシュ・ミュージックの導入期(1):ケルトの笛 hatao

4月になり、全国の大学ではケルト・アイリッシュ・サークルで新入生の獲得が盛んに行われていることでしょう。また、社会人でも4月をきっかけにカルチャー・センターなどで、新しい趣味のひとつとしてアイリッシュを始める方もいらっしゃるかもしれません。今回は、そんな新人にどうやって音楽にハマってもらえるか、というテーマでお話しします。

私はかれこれ15年くらいアイリッシュの笛を教える仕事をしています。
生徒さんの傾向を観察していると、2つのタイプに分けることができます。アイリッシュが好きで、CDを買ったりライブに足を運ぶタイプ。もうひとつはアイリッシュにはそんなに情熱はないけれど楽器を教えてほしいと考えているタイプ。主体的なタイプと受動的なタイプともいえます。習得が早いのが前者のタイプであることは読者のみなさんも想像がつくでしょう。楽器の習得度は投資した時間とお金に比例します。その投資先は楽器や練習時間やライブやセッション、またはアイルランドに行くことまでいろいろ含まれるでしょう。私自身、いったい何百万円アイリッシュにお金をつぎ込んだのか考えるとおそろしくなります。

自分から積極的に時間やお金を投資する生徒さんについては、今は演奏が下手でもまったく心配がいりませんし、いつかかならずバンドを組んだりライブに出演したりして、先生のもとを巣立っていきます。

教える立場として苦労するのは、そうではない生徒さんに、いかに音楽の楽しさを伝えて、モチベーションを高めてゆくかということです。積極的に行動するタイプの生徒さんも最初からそうだったというケースは少なく、ある時点で楽しさに目覚め、行動するようになるのです。

一番良いのは、楽しいという体験をしてもらうことです。それは、良いライブを観たとか、好きな曲が見つかったとか、簡単な曲が人と一緒に弾けたとか、小さなことですが、この音楽に関わるとその先に何か楽しいことがあるかも?と思ってもらうこと。そのために、先輩や先生がかっこいい演奏ができることやライブ活動をしていることは魅力的です。

音楽の楽しみ方はそれぞれですので、みんながセッションに行ったり、ライブをしたりすることを目標にしなくても良いでしょう。それぞれがこの音楽を好きになり、自分なりの目標や楽しみ方を見つけられれば良いですね。

この音楽を愛する方を増やすチャンスの春、ぜひみなさんの勧誘が成功することを祈っています。

ざっくり学ぶケルトの国の歴史(1)すごくすごく昔の話:上岡 淳平

実はこの6月にスコットランドに旅行することにしたんですが、そうすると

「えー、海外旅行?いいねー、どこ行くの?」

「あ、スコットランドに行こうと思ってます」

「ん?スコット…あ、ああ!イギリスね、いいよねイギリス」

みたいな会話を交わす羽目になります。

たとえば、サッカー好きなら不思議に思ったことがあるかもしれない英国代表の数。日本は当然「日本代表」一択ですが、英国からはイングランド代表、ウェールズ代表、スコットランド代表、そして北アイルランド代表と4チームもエントリーしているんです。あんな小さな島から4チームも出るって、何それズルくない?と言いたくなるのも当然ですが、そこには深い歴史があります。

ケルトの国々で受け継がれている伝統音楽も同じように、様々な歴史を持っていて、その中で伝統が育まれ、また乗り越えて、独自のアイデンティティーを持った文化に発展しているので、今回からは思い切って歴史の話をしたいと思います。

ケルトの笛屋さんというウェブサイトで公開しているコラムを再編集しつつ、歴史に興味がない人、苦手な人でも興味を持ってもらえるよう工夫して連載したいと思いますので、よければ暇つぶしにご一読いただけたらと思います。

『ブリテン島』

ごぞんじですか、ブリテン島?

これまで「アイルランドってどこ?」って聞かれた時には、「世界地図で言うと一番左上らへんにある小さな島。それがイギリスで、その左にあるさらに小さいのがアイルランドなんです」なんて説明をしていたものだけれど、あの島のちゃんとした名前は「ブリテン島」。

誰でも一度は「長ぇ名前だなぁ」と感じたことがある「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」のブリテンは、この島の名称からきているんですね。

元々はフランスやドイツのある、ヨーロッパの大陸と地続きだったんですが、今から8000年ぐらい前に海峡ができて、ブリっと島になりました。その昔、地続きだった(今は海の底に沈んでしまった)幻の陸地は「ドッガーランド」と呼ばれていて、現在も発掘調査などによって色々な新事実が解明されています。

そこからさらに2000年ほどが過ぎた紀元前3000年〜2500年ごろには、かの有名な巨石文化が栄え、なぜかは知らないけれど、みんなでやたらと大きな石を積み上げはじめたんです。イギリスのストーンヘンジや、アイルランドのニューグレンジが有名で、いまも人気の観光地になっています。(ニューグレンジはギザのピラミッドより古い遺跡なんですよ)

実は、この時代の人たちのことは、あまり詳しくわかっていないそうですが、おそらくブリテン島と大陸が地続きの時代からアイルランド島はあって、その辺に住んでた人たちが移動したんだろうというのが定説。

そこからさらに500〜1000年が経ったころ、いわゆる「ケルト人」がブリテン島にやってきます。つまり元々そこに住んでいた人を侵略する形で、ケルト人はブリテン島に入って来た、というわけですね。

ケルト人が英国領にご来店したところで、続きはまた次回。

「ハブ」としてのパブという文化について 2:竹澤 友理

はじめて1人でセッションに行ってから半年〜一年半。そこまで頻繁ではないにせよ、京都にいくつかあるパブの店主のおじさんたちに顔を覚えてもらうくらいにはなった。

この時期を振り返ると、すこし苦いような気持ちが蘇ってくる。行く場所行く場所で、セッションの雰囲気はまるで違う。その日誰が来るのか、初心者が多いのか、常連が多いのか、どんな楽器が集まるのか、まるで分からない。そしてじぶんはまったくの初心者。そもそも大人がお酒を飲む場に行き慣れてもいない。行ったとして、旧来の知り合いが居るわけでもない。関東から越してきたばかりで、溶け込もうとして無理やりな関西弁とか喋ってみる。関西の人はこういうのすごく嫌がるのでお勧めしない。

つまりは相当の無理をしてセッションの場に出向いていたのだ。当時は誰に話したりもしなかったが、毎回1人で行き帰りも寂しかったし、楽器も始めたばかりで扱えていないのに人前で、ときには熟練の大人の輪に混ざることもある。正直に告白すれば、毎回非常なプレッシャーとある種のストレスを己に課して学校からバスに乗っていたのだった。先月も書いたが、当時入っていた寮には門限があった。もはや刻限遅刻魔となってしまった私だが、当時は寮母に対して良心の呵責もあり、帰り道も気が気ではなかった。

当然だけれども、ある程度も楽器を扱えないのにそういう場に1人で楽器を持って行きまくるのは、あまり周囲からの理解は得られなかった。できないのに目立ちたがりみたいに思われていたのならちょっと落ち込むかもしれない。

そうではなくて、生音の演奏をこんなに近くで、いくらでも聴けるということ、ミュージシャンと世間話ができるほど距離が近いこと、じぶんも同じ楽器を持っていて、知っている曲であれば拙くてもいっしょに合わせてもらえること。それまで聴く専で留まらざるを得なかった身には、前述したようなプレッシャーも含めて刺激的だった。むしろ、同じ場にいるのにじぶんができないことがたくさんあることのフラストレーション。これをエネルギーにして、ひたすら観察と録音と練習とを繰り返した。その一連の流れもたいていすぐには成果が出ないので悔しくて、またフラストレーションが溜まる。できないままセッションに行って、またフラストレーションが溜まる。また練習して…というように少し道のりのしんどい時期だった。振り返れば異常なほどの情熱だけれども、理解を示してくれた方々の存在を勝手に支えにしていた。

たいてい一人で行っていたからこそ、行った先で先輩と会えば嬉しかったし、「ごはんいこやー」「飯いくかー」と言ってもらえたときには私の中で寮の門限はなかったことになっていた(寮母さんほんとごめんね) パブにプロの方が遊びに来ていて、意図せずしてその演奏を近くで観察できたり、独学で悩んでいた点を指導してもらえるという幸運なこともあった。店主をはじめお店の方は思っていたよりもフレンドリーだった。体育会系のような過剰なストイックさは、パブ周りの「脱力系のすごいひとたち」と交流するうちに適度に波形を描くようになった。パブにセッションをしに行くことが、ゆるりゆるりと気楽なことに変わっていった。

一時期だけだったが、京都にあるパブや喫茶のセッションをその月は全部行ったというようなキチガイなこともしてみた。さすがに続かなかったが、そこでちょっとした考え事が出来た。

編集後記:竹澤 友理

3月号はライターが3人だけでしたが、新年度号は盛りだくさんでお送りしました!なかなかスマホや携帯ですと読み通すのが難しいでしょうが…読みやすく軽く、内容は読み応えを というところを追究すると塩梅がなかなか難儀なものです。連載も増えましたので、工夫したいと思います。

来月号もお楽しみに!(竹)

クラン・コラ:アイルランド音楽の森(月2回刊)

★クラン・コラでは読者の皆さまから寄稿を募集します。ケルト音楽やヨーロッパの伝承音楽について、書きたいテーマでお寄せ下さい。詳しくは編集部までご連絡ください。

クラン・コラ:アイルランド音楽の森(月2回刊)
発行元:ケルトの笛屋さん
Editor : 竹澤友理

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日本のケルト音楽普及に尽力されたライターのおおしまゆたか氏と、京都でアイリッシュ・パブ feildを経営する洲崎一彦氏が編集し発行されていた、国内におけるケルト音楽の情報を網羅したメールマガジン「クラン・コラ」。

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