雑感 CrossroadsdanceとLisdoonvarna:松井ゆみ子

ライター:松井ゆみ子

クリスティ・ムーアの「Lisdoonvarna」(リスドゥーンヴァーナ)という歌をご存知でしょうか?

ラジオから流れてくるたびに、コミックソングのような歌詞で奇妙な歌だなぁと思っていました。カウンティ・クレアにある小さなヴィレッジのご当地ソングといった感じなのですが、実は歴史ある野外コンサートのテーマ・ソングであることを不覚にも長らく知らぬままでいたのです。

折しもアイルランドの野外コンサートに関するドキュメンタリー番組を観る機会があり、詳細を知るとともに、この国の音楽が「屋外」から「屋内」に移され、それがまた「屋外」で新たな流れを作っていくという、アイルランド人らしいクリエイティビティに感服したばかり。

Lisdoonvarna Folk Festivalは1978〜83年まで毎年開催され、クラナドやチーフテンズなど海外で活躍を始めたミュージシャンを筆頭に、著名パイパーのシェイマス・エニスが参加するなど、トラッドとロックの垣根を超えたイベントなのがこの国らしくて素晴らしい。この流れは今も変わりません。

ジャクソン・ブラウンが招聘された年もあり「アイルランドのウッド・ストック」は名実ともに定着していったのですが、イベントが大きくなるとともに観客のボルテージも上がり、会場内での事故と事件という残念な事情でリスドゥーンヴァーナは歌の中に封じ込められました。

しかしこのコンサートは、のちにスレーン城、ひいてはエレクトリック・ピクニックなどへ引き継がれ、アイルランドのミュージックシーンに大きく貢献しています。

話は1900年はじめにさかのぼります。

クロスロード・ダンス Crossroads Danceとよばれる伝統音楽とダンスの集いが国内各地の四辻で行われていました。ほぼ自然発生的に開催されていたのだと思います。

まだ車も少なかった時代、四辻は人が集うのに適していたにちがいなく、参加者がどんどん増えても広がっていけばいいわけで。

この国らしい天然なイベントは“The Public Dance Hall Act of 1935”というアイルランド新政府によって決められた法規により屋外から屋内での開催が義務づけられ、きちんとした主催者をたてることも必須項目に。

が、これがまたアイルランド人らしい結果をもたらすことに。セットダンスの集いは勢いを失うこともなく、演奏者たちはケーリーバンドというスタイルを確立し、新たな伝統音楽の形を築きました。

ダンスホールはやがて、ポピュラー音楽を演奏するショウ・バンドの活躍の場にもなり、ひいてはアイリッシュロックを生み出す基盤となったのです。

この国におけるショウ・バンドの立ち位置が今ひとつつかめないままでいたのですが、ヴァン・モリソンもロリー・ギャラハーも最初に参加したのがショウ・バンドだったと知り、ようやく腑に落ちました。このお題は長くなるのでまた改めて書きたいと思います。

やはり興味がないせいか謎のままだったのがアイルランドにおけるアメリカン・カントリーミュージックの存在。セットダンスと同じくダンスがメインの集いですが、特に中部域から北西部にかけては揺るぎない人気で戸惑いを覚えるほど。しかし、ショウ・バンドたちの演奏がロックとアメリカンカントリーに枝分かれして定着していったと思うと納得できます。テレビの普及で、アメリカン・カントリーミュージックが身近なものになっていったのも人気の要因なのでしょう。

60〜70年代に活躍していたショウ・バンドたちはすでに消え、かたやアメリカン・カントリーブームを築き、かたやアイリッシュ・ロックミュージックを生み出して世界的に活躍しています。

Lisdoonvarnaも、クロスロードのひとつではなかったか。

そんな幻想を描いています。