歌の小径の散策・その1:おおしまゆたか

ライター:大島 豊

編集長からそそのかされて、しばらく歌について書こうとしている。

アイルランドやスコットランド、イングランドの伝統音楽に初めて触れたのは歌を通じてだった。今から思えばブルーグラスはすでに入っていて、各地の大学にはブルーグラスのクラブがかなりあったようだ。現在のケルティック・ミュージックのサークルの流行に匹敵するか、あるいはもっと盛んだったかもしれない。ブルーグラスは歌とならんで器楽演奏がキモである。ユニゾンによる合奏ではなく、ソロの回しだ。ジャズでソロを回すのと同様、個人を集団よりも重視するアメリカの文化の産物ではある。しかし、ぼくがブルーグラスに触れるのはむしろ後だった。アイルランドやブリテンの伝統音楽の血縁として聴くようになる。

アイルランドやブリテンの伝統音楽の前に聴いていたのはいわゆるロックだった。昨今、「クラシック・ロック」と呼ばれるフォームだ。ロックはそのルーツであるポップス、R&Bやブルーズにジャズの影響から器楽演奏の側面をミックスした形式ととることもできる。ということは、ミュージシャンの志向や嗜好によって器楽演奏の比重は変化するけれども、根幹は歌である。ニール・ヤングのギター・ソロやオールマン・ブラザーズ・バンドの歌のない〈In Memory of Elizabeth Reed〉、あるいはキング・クリムゾンやイエスの演奏も好きだったけれども、そういう器楽演奏が魅力的に聞えるのは、その前に歌があるからだった。ブルーグラスもまず歌をうたってからソロを回す。本格的に音楽に目覚めたその時期にはジャズも聴いたはずだが、当時ジャズに反応しなかったのは歌が無かったからだろう。ジャズの場合、ヴォーカルはまったく別のジャンルとして扱われていた。

歌を好むこの傾向は、幼少期に触れた音楽がテレビ・マンガや子ども向けドラマの主題歌だったからだろうとは思う。家にクラシックやジャズのレコードがあったり、家族に楽器演奏をする人間がいたなら、別の嗜好が育ったことは想像がつく。しかし、ウチの家族には音楽に縁がある者がほとんど誰もいなかった。親戚にも隣近所にもいなかった。最大の音楽源がテレビだった。テレビで鳴っている音楽は圧倒的に歌である。番組の主題歌でなければ、歌謡番組だ。ジャズの演奏が番組として放映されることはありえなかった。器楽はクラシックの演奏がNHK教育チャンネルで流れるのがせいぜいである。伝統邦楽、三味線、琴、尺八などの演奏を流す番組はあったかもしれないが、子どもは見ようとしない。ウチでは歌謡番組すら積極的には誰も見なかった。

そういう家庭に育ったぼくが音楽がなくては生きていけなくなったのは不思議の限りではある。

とまれ、ぼくにとって音楽を聴くのは歌を聴くことだった。アイルランドやブリテンの伝統音楽に触れて、惹かれていったのも、そこで聞えてくる歌がそれまで聴いてきた歌とは決定的に違っていたからである。それにいわゆるケルト系のダンス・チューン演奏のレコードは初めは少なかった。ボシィ・バンドの衝撃はまずダンス・チューン演奏が多いことだった。プランクシティはあくまでも歌をうたう。ボシィ・バンドになって初めてレコードの半分、あるいはそれ以上が器楽の演奏になった。それでもまだトゥリーナの声が聞えてくるとほっとするのである。少し遅れてボーイズ・オヴ・ザ・ロックやデ・ダナンを聴いたけれども、デ・ダナンはアルバム毎に違うシンガーをゲストに迎えていたから、むしろそちらの方に興味が向かった。

やがてアイルランドやブリテンの伝統音楽のレコードが細々ながらも途切れずに入ってくるようになり、その中にはジャッキィ・デイリー&シェイマス・クレイのような全篇ダンス・チューンだけのレコードも含まれだしていたが、そういうレコードを聴くのは苦手だった。LPだから針を落とせば片面は聴くことになるが、半分いかないうちに飽きてくる。全部おんなじに聞えるのだ。いきおいそういうレコードは後回しになった。

ダンス・チューン演奏に対する苦手意識が木端微塵になるのは来日したボーイズ・オヴ・ザ・ロックの演奏を生で体験したときである。同時に生演奏、ライヴというものの威力も認識させられた。

それはいわば穴が埋まったので、歌を聴かなくなったわけではない。伝統音楽にだんだん引きずりこまれるにつれて、むしろ歌はますます魅力を増した。アイルランド語の歌、スコティッシュ・ガーリック語の歌を聴くにいたって、また新たな世界が開けた。

伝統音楽の根幹は、地球上どこにあっても歌である。というのが今のところぼくの結論だ。人間にとって第一の「楽器」は声だ。手で何か、石か棒をもって別の何かを叩くよりも、自らの肉体だけで音が出せる声の方が簡単だ。人はまず声を使うことで意思疎通をはかろうとし、次に、あるいは同時に、声によって感情を共有しようとしただろう。前者はやがて言語へと変化し、後者が音楽になっていっただろう。身振り手振りや両手を叩く、あるいは手で体の他の部分を叩く方法もあるが、伝達距離も伝えられる内容もずっと限られる。踊りは感情共有の手段、時には物語の伝達手段にもなりえるが、哀しみや怒りを共有するのは不得手だ。

アイルランドにあっても伝統音楽の根幹は歌である。というのも今のところ、ぼくの結論だ。いかにダンス・チューン演奏が盛んであっても、歌が無くなれば音楽伝統は死ぬ。歌が音楽伝統の根っ子であり幹であれば、ダンス・チューンは枝であり葉である。外から見えるのは茂った葉っぱであっても、それを生みだし、支えているのは幹だ。歌の伝統とダンス・チューンの伝統は別々のものではない。

まあね、歌は難しい。楽器の天才が歌うとなると音痴だったりする。シューベルトは唄えたのか。というのは問題がまた別だろうが、やはり大量の歌を残したロバート・バーンズはたぶん唄えたんじゃないかという気がする。カロランもたぶん歌はうまかっただろう。カロラン・チューンとぼくらは呼ぶが、カロランの曲には基本的に歌詞が存在する。ハーパーはハープが弾けるだけではなく、唄えなければ商売にならなかったはずだ。

伝統音楽というと器楽、ダンス・チューン演奏が幅をきかせているのはアイルランド本国も同じだから、ましてや異国であるこの国のアイリッシュ・ミュージック演奏が器楽に偏るのはやむをえない。

わけじゃあ、やはりない。

と歌好きのぼくは思う。もっと歌を聴こうではないか、紳士淑女諸君。(ゆ)