【前編】UKのフルート奏者 トーマス・マクエルヴォーグさん インタビュー

トーマス・マクエルヴォーグ(Thomas McElvogue)

※この記事は、トム・マクエルヴォーグさんの許可を得てご自身のホームページの記事を翻訳、公開しています。

後編はこちら
https://celtnofue.com/blog/archives/2008

英語翻訳:村上亮子

BIOGRAPHY

簡単な履歴―2017年9月

1968年にイングランドのニューカッスル・アポン・タインで生まれました。だから40ってとこかな?姉が3人います。

母方の祖父はコネマラ(ゴールウェイ州)のフォグラス出身でした。そんなこともあって、母は私たち4人の子供をアイルランド文化に触れさせようとしました。

姉は3人ともアイリッシュ・ダンスのレッスンを受けていて、そのせいで私は幼い頃にアイリッシュ・ダンスのレコードを何回も何回も繰り返し聞きました。

有難いことにかなり良いレコードが何枚かありました。

自分もコンテストで踊ってみましたが、演奏する方が好みにあっていました。

またアイリッシュ・ダンスを踊るよりアイリッシュ音楽をする方がいいと言ってもいいのだと気が付きました。

8歳か9歳の頃ティン・ホイッスルを吹き始め、またかなり早い時期にフィドルにも手を出しましたが、フィドルは難し過ぎたのでホイッスルに決めました。

教えてくれたのはパトリック・ナイトというニューカッスルの音楽界のとても親切で度量の大きな方です。

12歳か13歳の時に木製フルートに移り、徐々に腕を上げていきました。

様々なレベルのコンテストで賞を取り、ついにはオールアイルランド成人フルートの部で優勝しました。

23歳までは演奏を続け、その後4年間全く演奏から離れました。26か27の時にアイルランドに移住し、演奏を再開しました。それ以来アイルランドのダブリンに住み、仕事であちこち動き回りましたが、その間も演奏は続けるようにしました。

フルートの演奏で主に影響を受けたのはマット・モロイ Matt Molloy、シーマス・タンゼイ Seamus Tansey、トミー・ピープルズ Tommy Peoples、フランキー・ギャビン Frankie Gavin、ショーン・マクグァイア Sean McGuire、キャサリーン・コリンズ Kathleen Collins、パディー・キーナン Paddy Keenanなどの方々です。

姉のシーナも同じころ音楽をやっていました。

彼女はその頃(今もですが)とても繊細な鍵盤アコーディオンを演奏していて、そのおかげで、私はフルート以外の楽器でのフレージングをよりよく理解できるようになったのです。

他のフルート奏者も同じだと思いますが、私も初期の頃からマット・モロイの息遣いと装飾を分析し、彼のコントロールと感性には畏敬の念を抱かざるを得ませんでした。

同時にシーマス・タンゼイの演奏の奔放な豊かさから、書かれた音符の後ろにあるものを見るようになり、音楽をよりよく解釈し、感じるにはどうすればいいかを学びました。

コンクールを目指すようになってから間もなく気が付いたのですが、他の多くの奏者は個人のスタイルをほとんど1音1音コピーしていて、来る日も来る日も「The Boy’s of the Lough」のモロイのバリエーションをそのまま演奏しているように思われました。

このような優れたスタイルをコピーすることはテクニックの勉強に役に立つのですが、自分では(少なくとも人前では)やりたいとは思いませんでした。

また私は練習で優れたフルート奏者をコピーしてみたことがありますが、決して同じようにはできないと悟りました。

同じころ、フルートの先生のパット・ナイトがトミー・ピープルズのレコード、「The Iron Man」を紹介してくれました。

この時期になると、レッスンではフルートを吹くことを学ぶのではなくて、学び方を学んでいました。(この言い方でわかってもらえますか?)。

私たちは音楽の様々なアプローチやスタイルについて話し合い、パトリックは色々なレコードを紹介してくれて、手に入れるように言いました(または貸してくれました)。

そしてどういう点を聞くのかを示して、私の悪い癖を直して、わかるかい?と言ったものでした。

その頃私は1日に最低3~4時間は練習していました。学ぶことがたくさんあるので、辛いことではありませんでした。

パトリック・ナイトと別れてから、ニューカッスルで一番頼りになり、影響を受けたのはジョン・ドゥーナン John Doonan(ジャロー出身の素晴らしいピッコロ奏者)、クリス・ジョーダン Chris Jordan(メイヨー州、ボーラ出身で大人になってからはニューカッスルに住んでいるインスピレーションにあふれたフィドル奏者)、マイケル・モリアーティ Michael Moriarty(ケリーの珠玉のフルート奏者)、メアリー・ラーキン Mary Larkin(スライゴ―出身でニューカッスル在住のすぐれたアコーディオン奏者)などです。

10代の頃はクリスやミックやメアリーと様々なステージでセッションをし、とりわけメアリー・ラーケンはスライゴーのレコードや曲 ― 特にジョシー・マクダモット Josie McDermott、ボビー・ガーデナー Bobby Gardiner、マルカス&JPハーノン Marcus & PJ Hernon、シーマス・タンゼイ Seamus Tansey― を私に紹介してくれました。

もう1人私に大きな影響を与えたのはテニー・コルコラン Teny Corcoranで、私がニューカッスルにいた時期を通じてアイルランド音楽家協会に深くかかわっていた人でした。

トニーは自分がやっているケイリーバンドの演奏に連れていってくれて、ジョン・ドゥナン John Doonanやミック・モリアーティ Mick Moriartyが演奏できない時には、代わりに入れてくれました。

テニー・コルコランもミック・モリアーティも地域の芸術祭で演奏していて、私も演奏するようになりました。

ありがたいことに昔の話です。

ダンサーのために12時間ぶっ通しで演奏することは、今となってはあまり気が進まないけれど、後で考えてみると、その経験は訓練と根気とタイミングのセンスをつけてくれました。

キャサリン・ティッケル Kathryn Tickellも私を支え励ましてくれました。

キャサリンは私が作曲したものを初めて商業的にレコーディングしてくれた音楽家です。

キャサリンはプロのミュージシャンとしていかに成功するかという実例としてニューカッスルでは突出した存在でした。

彼女のプロ意識、音楽の才能、マナー、そしてノーサンブリアの民族音楽への深く根差した熱意と活動をいつも尊敬していました。

キャサリンの他にカレン・ツイード Karen Tweedも私の作曲への熱意を後押ししてくれました。

カレンは審査員のシャボン・オドネル Siobhan O’Donnellを通して音楽家協会のネットワークで知り合いました。

10代後半の何年間か、カレンはそれまでになかった程の多くの聴衆に、私の作曲したものを届けてくれました。

ロンドンのミュージシャンはカレンを通して、少なくともカレントとのセッションを通して、私の曲の多くを知りました。

この点で私はカレンにとても感謝しているし、カレンが私の音楽の発展に与えた影響を過小に見ることはできません。

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