歌の小径の散策・その4 The Flower of Mahearally:おおしまゆたか

ライター:大島 豊

前回とりあげた〈Bonny Light Horseman〉について、編集長から、この曲が〈Danny Boy〉ほど有名でないのはなぜか、という問いかけを受けた。ひと言で言えば〈ダニー・ボーイ〉が有名なのはそのセンチメンタリズムのおかげだ。歌詞の内容よりもメロディが感傷性ずぶずぶなのである。端的に言えばあの一段と高くなるところだ。あそこに人は感激してしまう。あそこを高くせずに歌うと、途端に感傷性が消えるのは、Hanz Araki & Colleen Rainey のヴァージョン(Tricolor《歌う日々》収録)を聴けば一聴瞭然だ。

〈Bonny Light Horseman〉のメロディには、どのヴァージョンでも感傷性は無い。むしろ排除している。そしてこの曲をとりあげるうたい手たちもまた皆感傷性を排除する。それはもう不思議なほどで、クラシック唱法でも、土産物向けでも、見事なまでにセンチメンタリズムに陥ることを避けている。感傷性を前面に出して歌うことを許さないものを、この曲は備えている、としか思えない。歌詞の内容からすればめいっぱい感傷的にも唄えそうだが、メロディにそうさせないものがあるにちがいない。

センチメンタリズムに陥らず、なおかつ〈ダニー・ボーイ〉よりも美しいメロディの歌、そういう歌はアイルランドにたくさんある。その中でも最も美しいメロディ、とあたしが思うのが今回とりあげる〈The Flower of Mahearally〉だ。

この歌の美しさに眼を、いや耳を開かされたのは Oige/ の1993年のデビュー・アルバムによる。Oige は「オイガ」と読み、アイルランド語で「若さ、青春」を意味する。このバンドはその名の通り、このデビュー・アルバムのリリース当時、最年長でギターの Paul McLaughlin が20歳、他の3人は全員十代だった。グラスゴーでのライヴを収録したデビュー盤の音楽は歌もチューンもまさに若さにはちきれんばかりの演奏、まことにみずみずしいものだ。技術的に未熟なところは皆無なのはもちろんだが、この時にしかできない勢いと輝きに満ちている。

このバンドはまた少し前にデビューしていた Deanta の弟妹分でもあった。「ジュアンタ」はアイルランド語で “done” または “made” を意味する。たとえばオイガのリード・シンガー、Cara Dillon はジュアンタのリード・シンガー Mary Dillon の妹である。ジュアンタは1990年から97年にかけて3枚のとびきりのアルバムをリリースして解散してしまう。後で聞いた話では、メンバー同士で全員結婚したために解散したのだそうだ。2008年に再編されたそうだが、録音は出していない。

オイガは1996年にやはり見事なセカンド・アルバム《Bang On!》をリリースした後、ばらばらになる。リード・シンガーのカラ・ディロンは少しして、レイクマン・ブラザーズの一角 Seth と結婚し、こちらは今にいたる赫々たるキャリアを積んでゆく。活動の場はブリテンだが、ルーツがアイルランドにあることは明らかだ。アイルランド系を代表するうたい手のひとりと言っていいだろう。

その出発点がオイガのデビューであり、〈The Flower of Mahearally〉という歌をカラによって教えられたのは幸いなことだった。この歌の美しさに気がついたのも彼女のみずみずしい歌唱だからこそでもあったと思う。その後、様々なヴァージョンを聴くにつけ、数あるアイルランドの歌のなかで、最も美しい歌との想いは強くなりこそすれ、薄まったことはない。アルタンもやっている。アヌーナもうたっている。ニーヴ・パースンズもオンヤ・ミノーグもポーリーン・スカンロンもアシュリー・デイヴィスもとりあげた。フランク・ハートやクリス・コンウェイの歌唱もある。有名無名、どの歌唱を聴いても、あらためて美しい歌だと思いしらされる。

歌詞はとびぬけたものではない。ダウン州、Banbridge Town、Mahearally などの地名によって、この歌がアルスター産であることが示されるのが特徴的なくらいだ。もっともこの「マハラリィ」という地名そのものがまず美しい。ダウン州の townland の一つの名前だそうだ。townland というのは、伝統的にアイルランドの地名のもっとも小さな単位。わが国でいえば、「字」または「小字」に相当しようか。

とびぬけた内容ではないものの、アルスター産であるもう一つの特徴がある。この歌は男性から女性を歌っている。惚れた相手を「マハラリィの精華」と呼んでいる。念のために書きそえるが、「マハラリィで一番の華」ではない、「マハラリィに咲いた華」の意味だ。この男性はカトリックで、相手の女性がプロテスタントだという説がある。女性がプロテスタントなのは Sally と呼ばれていることでわかる。これは The Salvation Army 救世軍にひっかけた暗語、わかる人間にはわかる秘かな呼称なのだそうだ。

ノーザン・アイルランドにおいて宗派を超えた結びつきは最も忌避された関係の一つだ。かつて、「紛争」The Troubles が最も深刻だった時期には、カトリックがプロテスタントの相手と恋におちることは、女性であっても、公衆の面前で頭を剃られ、タールをかけられるというリンチをおこなう口実とされた。逆もまた同様だった。女性が頭を剃られるのは、社会からの追放を意味した。第二次世界大戦において、パリ解放の直後、ナチ協力者と目された女性は頭を剃られて追放された。シネイド・オコナーが頭を剃っていたのはそうした野蛮な「伝統」への攻撃の側面もあったろう。

したがって、この場合、男性の想いがとげられることはありえない。たとえ相手の女性が答えてくれたとしても、二人を待っているのは、双方のコミュニテイからの弾劾と追放だ。二人が共に手をたずさえる形で追放されるならば、まだいい方だ。十中八九、仲をひき裂かれて、二度と会えぬように別々に追放される。

聖金曜日合意から四半世紀を経て、ノーザン・アイルランドの状況もかなり変わっている。今では宗派を超えた「道ならぬ」恋におちいっても、ただちにリンチに会うことはないかもしれない。それでも、こういう感性、ものの見方はそう簡単に消えるものではない。「トラブルズ」を身をもって体験している人たちは敵対していた宗派への嫌悪感、反感が骨の髄にまで刻みこまれてもいるだろう。それが思わぬ形で噴出することはむしろ大いにありうることだ。

したがってこういう歌を今ここにおいて歌うことは、そうした世間の反応のしかた、考え方への抗議となる。宗派という枠組みをすべての価値判断の基準に置くこと、あるいはより普遍的に、他者との違いを強調することで自分たちの主張の正当性を確保しようとする態度に異議を申したてることになる。それも正面切って抗議するのではなく、許されぬとされる相手への想いをひたすら歌うことによる。命懸けの恋に、従来は同胞への裏切りとされてきた恋に幸あれと歌うのだ。そのことがこの歌を一層美しくする。

アイルランドでは人間のこういう醜い様相がどこよりも剥出しに現れる。そして、それ故にこそ、美しい歌が他のどこよりもたくさん生まれ、歌いつがれているようにもみえる。〈ダニー・ボーイ〉のセンチメンタリズムも、ひょっとするとあまりに痛みの大きな様相を隠そうとする必死の努力なのかもしれない。(ゆ)