出典 https://blog.mcneelamusic.com/
アイルランドの楽器メーカーMcNeelaが公開しているブログの中から、おすすめのB/Cボタン・アコーディオン奏者について解説している記事を許可を得て翻訳しました。
原文:Concertina FAQ – The Difference Between the English, Duet and Anglo Concertina
アイリッシュ・ボタン・アコーディオンB/Cスタイルの3大プレイヤー
これらの3人のアイルランド式ボタン・アコーディオンの伝説的な奏者たちは、伝統的なアイルランド音楽における現代的なアコーディオンスタイルに大きな影響を与えました。
この記事を読み進めて、伝統的なアイルランド音楽におけるアコーディオンと、これら3人のアコーディオン奏者がアイルランドのB/Cアコーディオン演奏にどのように変革をもたらしたのかを学んでみてください。
伝統的なアイルランド式アコーディオンの起源
アコーディオンはフリーリード楽器で、コンサーティーナと同じ楽器の種類に属し、19世紀初頭にドイツで発明されました。その大音量により初期の頃からアイルランドのダンス音楽で人気を博し、現在でも伝統的なアイルランド音楽やケイリー・バンドで特に人気があります。
B/Cキーのボタン・アコーディオンが最も一般的に演奏されていますが、C#/Dボタン・アコーディオンを演奏する著名な奏者も多数存在します。アイルランドのアコーディオン奏者たちは、どのキーが伝統的なアイルランド音楽の演奏に最適かについて長年議論を重ねてきました。しかし、どちらのキーも伝統的なアイルランド音楽コミュニティにとって重要な存在です。
伝説的な3人のボタン・アコーディオン奏者
伝統音楽のアイリッシュ・アコーディオンでは、長年にわたり驚くべき音楽家たちが輩出されてきました。アイルランド式ボタン・アコーディオンについて伝統音楽の愛好者と語り合うときに必ず名前が挙がるのが、Paddy O’Brien、Joe Burke、Finbarr Dwyerという3人の奏者です。
Paddy O’Brien
Paddy O’Brien(左側)とJoel Cooley(写真提供:concertina.net)
1922年にTipperary県Nenaghで生まれたPaddy O’Brienは、音楽一家の出身です。彼の父Dinny O’Brienは著名なフィドル奏者で、家では頻繁にセッションが開かれていました。
パディはフィドルから音楽を始めましたが、あまり熱心ではありませんでした。それよりも、近所の人が持っていた2列ボタン・アコーディオンに心を奪われ、こっそりと練習を始めました。
彼の生まれ持った音楽の才能のおかげで、すぐにアコーディオンを習得しました。
1936年、14歳の時にパディは初めてのラジオ放送に出演しました。父Dinny(フィドル奏者)とBill Fahy(フルート奏者)と共に演奏し、彼らは「Lough Derg Trio」として知られていました。
この演奏は、アイルランド全土およびイギリスで2RN(現在のRadio Éireannの旧称)を通じて生放送されました。14歳の奏者が見せた卓越した技術にリスナーたちは驚かされ、Paddyの名前は瞬く間に伝統的なアイルランドのアコーディオン音楽の代名詞となりました。
その後、彼はSeán Ó Riadaの「Ceoltóirí Cualann」や「Lough Derg Céilí Band」、「Aughrim Slopes Céilí Band」で演奏し、1949年には「Tulla Céilí Band」に加わり、C#/Dスタイルの巨匠Joe Cooleyの後任となりました。
オブライエン独自のアコーディオンテクニック
パディはアイルランドのフィドルスタイルにも理解を深め、ロール、装飾音、三連符といった様々なフィドルのテクニックを熱心に学びました。これらの技術をアコーディオン演奏に取り入れたことで、彼は独特の演奏スタイルを生み出しました。
1950年代には、「内から外へinside out」と呼ばれるB/Cスタイルのアコーディオン演奏を完成させ、これが彼の代名詞となりました。このスタイルは次に紹介するアコーディオンの伝説的奏者Joe Burkeの演奏にも明らかに見られます。このスタイルでは、フィドルのような流れるようで高度に装飾された演奏が特徴です。
パディ独特のスタイルを聴く
1972年にパディの自宅で録音された素晴らしい音源をお聴きください。この録音は、パディの親友であるLarry Redicanによって制作されました。このテープは、ニューヨークのブロンクスで活動していたフルート奏者Jack Coenのために、PaddyとLarryが共同で作成したものの一部です。
作曲家としてのPaddy O’Brien
パディは伝統的なアイルランド音楽の優れた作曲家でもありました。しかし、彼の完璧主義的な性格のため、多くの楽曲が破棄されてしまいました。彼の目から見て100%完璧でない曲はすぐに捨てられたのです。それでも、彼が作曲した中で特に広く演奏されている曲には、次のようなものがあります。
「The Coming of Spring」、「Dinny O’Brien’s」、「The Nervous Man」、「Ormond Sound」、「The Foggy Morning」、そして「Hanly’s Tweed」 などです。
こちらでは、彼の娘Eileen(フィドル演奏)と孫娘Jennifer(ピアノ演奏)が彼の作曲した3曲を演奏しています。ぜひお聴きください。
Paddy O’Brienは1988年に脳卒中を患いました。それ以降、アコーディオンを演奏することはできなくなりましたが、作曲活動は続けました。1991年3月2日、69歳で亡くなりました。
彼が伝統的なアイルランド音楽の世界に与えた驚くべき影響は、今日でも感じらます。多くの現代の伝統音楽界の重鎮たちが、彼を主な影響として挙げています。
Joe Burke
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Joe Burkeは、B/Cボタン・アコーディオンの「生ける伝説」という称号にふさわしい人物です。
彼は1955年11月に初めてのライブ演奏を行い、現在でも演奏活動を続けています。
1939年、Galway県Kilnadeemaで生まれたJoe Burkeは、Paddy O’Brienの画期的なB/Cアコーディオンスタイルから多大な影響を受けました。現実主義者であった彼は、自身の音楽のヒーローであるパディの流れるようで高度に装飾されたアコーディオン演奏技術を模倣しました。Joe Burkeは、アイルランドにおけるアコーディオンの復興の立役者としてもよく知られています。
Joe Burkeの幼少期
音楽一家に育ったジョーの両親はともにアイルランドのアコーディオンを演奏しており、彼自身も4歳のときにホーナー製の2列ボタン・アコーディオンを手にしました。叔父からいくつかの曲を教わったのが始まりです。
音楽的な才能に恵まれた彼は、フィドル、アイリッシュ・ティン・ホイッスル、イーリアン・パイプス、アイリッシュ・フルートなど、他の楽器もマスターしていきました。しかし、彼の心を最もとらえたのはアコーディオンでした。
幼少期に触れる機会が多かったアイルランドのフィドルスタイル、特にフィドル奏者Michael Colemanの演奏に彼は魅了されました。ジョーはこのフィドルスタイルをアコーディオン演奏に取り入れ、15歳のときにパオロ・ソプラーニ製のB/Cアコーディオンを手に入れると、その技術と熟練度は飛躍的に向上しました。
バークのアコーディオン演奏スタイル
アイルランドの著名なフィドル奏者、故Ben LennonはJoe Burkeの演奏について、次のように絶賛しています。
長年にわたり、彼の演奏を研究してきました。なぜ彼の演奏がこれほど素晴らしく調和しているのかを理解するためです。私がたどり着いた結論は、秘密の一端が彼の蛇腹の使い方にあるということです。蛇腹の動きによって一連の音を織りなし、時には揺れるような効果を生み出しながらも、完璧に計算されたタイミングで演奏しています。これに加えて、右手は非常に広い範囲をカバーします。ロール、ダブル、トレブル、あらゆる種類の装飾音を取り入れ、そのテクスチャは繊細そのものです。また、彼だけが知る独特の装飾音も含まれています。その結果、伝統音楽の最高峰を見事に体現した演奏が生まれるのです。
― Ben Lennon、『The Morning Mist』CDに寄せて
Joe Burkeのアコーディオン演奏を聴く
ジョーは、1973年にリリースされたアルバム『Traditional Music of Ireland』から、彼の愛用するパオロ・ソプラーニ製B/Cアコーディオンでリールを演奏しています。その魅力をぜひお楽しみください。
Finbarr Dwyer
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Finbarr Dwyerは1946年、Cork県Castletownbereで生まれました。前述の他の演奏家たちと同様、彼も非常に音楽的な家系の出身です。両親はアコーディオンを演奏し、兄弟のうち二人もアコーディオンを演奏していました。また、父親と兄の一人はフィドルも演奏していました。
父親のジョンは、イーストゴールウェイのフィドル奏者Paddy Kellyに似たスタイルでフィドルを弾きました。このスタイルは若きフィンバーの演奏スタイルに大きな影響を与えました。
ジョンは旧IRAのメンバーでもあり、スパイク島Spike Islandでの投獄中に多くの音楽家と交流し、曲を共有しました。この時に得た音楽はフィンバーに伝えられ、フィンバーはこれらの曲を吸収していきました。
フィンバー自身がアコーディオンを始めたのはわずか3歳のときで、9歳のときにはKerry県Killarneyの寄宿学校で最初の2曲を作曲しました。
ロンドン時代
フィンバーは1966年に教師としてイギリスに移住しました。その3年後、彼は全イングランドアコーディオンチャンピオンとなりました。イギリスに10年間滞在し、ロンドンのアイルランド音楽シーンで非常に有名で親しまれる演奏家となりました。
当時、活気に満ちたパブ文化の中で、Raymond Roland、Liam Farrell、Bobby Casey、Martin McMahon、Martin Byrnesといったミュージシャンたちと定期的に演奏しました。彼はその頃のロンドンのアイルランド音楽シーンを「非常に盛況だった」と語っています。
1970年には、初のアルバム『Irish Traditional Accordionist』をリリースしました。このアルバムはベルファストのインターナショナル・スタジオで録音され、ピアノ伴奏にはTeresa McMahonが参加しました。テレサとその夫マーティンも、ロンドンのパブシーンで非常に活躍していました。
作曲家としてのフィンバー
2014年にRTÉのインタビューで、フィンバーは作曲の芸術は「想像力」であると語りました。詩人が自然の風景からインスピレーションを受けるように、彼も曲を作ると話しています。彼自身、「音楽を発明したわけではなく、自分より前からそこにあった」と述べています。
「The Berehaven」や「Farewell to Kilroe」はそのようなインスピレーションを受けて作られた曲です。また、1968年のクリスマスの朝、ロンドンで聞いたアオガラの美しいさえずりから生まれた「Waltz of the Birds」も有名です。その他、「Kylebrack Rambler」や「The Holly Bush」をはじめ、彼が作曲したとされる曲は無数にあります。
フィンバーの作品は、現在も世界中の伝統的なアイルランド音楽の演奏家たちによって演奏されています。
フィドル奏者Liam O’Connorが演奏する「The Holly Bush」(Finbarr Dwyer作曲)
17年間の活動休止
Finbarrは1980年代にカー・ラリーチームの一員として活躍し、大会で特に優れた成績を収めていました。しかし、1988年、チームの大切な仲間がドニゴールでの事故により命を落とすという悲劇に見舞われました。Finbarr自身の言葉によれば、「皆がひどく落ち込んでしまい、私たちは17年間演奏をしませんでした。」
17年後、Finbarrは恐れと不安を抱きつつも再びアコーディオンを手に取りました。幸いなことに、すべての感覚がすぐに蘇り、自身でも「以前よりも上手くなっている」と語るほどでした。
こちらは、2007年にFinbarrがBrian McGrathとの共演で演奏した映像です。
RTÉのPeter Browneによるラジオ番組「故Finbarr Dwyerの特集」をお聴きください
Finbarrは2014年2月8日、アイルランドのCork県Mallowでこの世を去りました。