ポップコーン理論:field 洲崎一彦


出典 Irish PUB field

ライター:field 洲崎一彦

さて、先日、ネットか何かで読んだ話なのですが、とある映画マニアの方が独白しておられて、彼は長年映画を愛好する中で、映画は絶対に映画館で1人で観ることを信条に過ごして来られたのだとか。その彼が、最近一般的になってきたシネマコンプレックス、つまり上映スペースを複数備えて何種類もの映画を同時に上映運営する大規模映画館の存在に苛立たれているのです。そういう場所では必ずと言っていいほど、ポップコーンを中心に軽食や飲み物が販売されていて皆そこに行列を成している。そして上映館の客席はポップコーンを抱えたお客さんで埋め尽くされると。彼はそういうお客さんがまわりでポップコーンをポリポリ食べる空間で映画を鑑賞する環境に耐えかねて、最近ではそのような大映画館におもむくのをやめて、もっぱら、家でネット配信の映画を鑑賞するようになってしまったと言うのです。

その彼が、何かの拍子にそういう大映画館の近くを通りかかった時に、ふと、足がそちらに向き、思わず人の列に並んでポップコーンとコーラを買って上映館の座席に座ってしまった。特に何も考えないで普通に座っていると、やがて映画が始まり、自分も周りの人達と一緒にポップコーンをポリポリ食べながら結局その映画を最後まで観てしまったと。そして、彼にこみ上げてきた思い。それは、「何て!楽しいんだ!」という事だった。

これは、とある人の日常のエピソードを綴った何気ない良いお話ですよね。が、私にはズキッと来てしまったのです。映画が好きなら、映画を観に来たのなら、そんなポリポリとポップコーンなんて食べないで集中して映画を鑑賞しなさい!

はい、これは正論です。こういう風に面と向かって言われたら誰も反論なんて出来ない。そうです。以前の私はこういう類いの事を周りに吐き散らしていたのではないかと気づいてズキッと来てしまったのです。

昔、ウチのセッションに居合わせたある音楽家の方が、「彼らは演奏しに来てるのか、お友達を作りに来ているのか判りませんね」と皮肉まじりにおっしゃった時、私はこれに激しく同意したのでした。その方は続けて「演奏も面白く無いし。アイリッシュのセッションというのはSNSのようなお友達作りのものなのですね」と。

おお!そうだそうだ、マッタクだ!。

確かに、その頃から時代も下って、私もいつまでもそんな偏った考えに凝り固まっていたわけではありません。特にコロナの閉塞した期間も挟まって、随分私の頭もほぐれてオープンに変化して行ってるのですが、が、それでも。このポップコーンの話には、あ!と、なったわけです。

はい。私はアイリッシュパブを経営している人間です。アイリッシュパブは飲食店ですから、飲食してもらってナンボなお仕事なのです。そして、元々、私がそれまで営んできたカフェギャラリーをアイリッシュパブに模様替えした動機は、私がセッションをしたかったからでした。今と違ってネットなどの情報も乏しく、人伝えに聞いた話などでイメージした、アイリッシュセッションというのはアイリッシュパブで行われるものだという情報だけに頼って。パブ前夜にはアイルランド音楽の大先輩をお迎えして「セッションのやり方を教えてください!」と迫り、パブにしてからは、徐々に多くの先輩方がウチのセッションにお越しいただけるようになって、まったくの入門者だった私は徐々にいろいろな事を教わって少しづつアイリッシュミュージックを愛好する人間になって行った。

が、動機はどうであれ、事実として、私はアイリッシュパブを経営している人間なのです。アイリッシュパブは飲食していただいて、また、その空間を楽しんでいただいてナンボなお仕事なわけです。言わば、大映画館でポップコーンを販売している側の立場に居るわけですよ。こんな、明白で単純な事に何故いままですっきり目を向けられなかったのか!なのです。

いみじくも、このクランコラ昨年末号に私は「音楽の効能」というテーマで一文を書いていました。もう少し前には「音楽の楽しみ方は人それぞれだ」というような事も書いた記憶があります。なんとなく、もやっと感じた事を何とかかんとか理詰めで文章にした、そんな記憶があります。その「感じ」は、そんなに理屈をこねくり回さなくても、あなたはポップコーンを売る側の人間でしょう?と、面と向かって言われた、そんなシンプルな衝撃を突きつけて来たのが、このポップコーンのエピソードというわけです。

映画も、その楽しみ方は人それぞれなのです。それは当たり前の事で、周りでポップコーンを食べている人たちに囲まれて映画を鑑賞することに耐えられない人も当然居るのですし、ポップコーンを食べながら観ないと映画を観た気分になれない人だっている。さらに、なかなか出不精でいちいち映画館に出かけて行くのもちょっとおっくうという人は今なら家で寝転びながらネット配信でも楽しめる。こうやって、それぞれに楽しむもの、それが映画というものなのでしょう。どんな楽しみ方が正解というものではありませんよね。ここまでは、そうです、当たり前なのです。

が、私がかつて陥っていた状態はというと、この大映画館でポップコーンを売りながら、そのお客さんに向かって、「お前らこんなもん食べながら映画観るなんてけしからん!」とわめいていたも同然ではないですか。今まさにポップコーンを買おうとしているそのお客さんにしてみれば、ただただ、理不尽なケンカをふっかけられている以外の何ものでもない。

そのポップコーン売りのおっちゃんは映画を観ないのでしょうか。いや、観ることもあるでしょう。そうすると、前に自分らに説教してたおっちゃんが映画を観ているぞ、と、以前そのおっちゃんからポップコーンを買った人がその現場に偶然遭遇する、そんな場面がジッサイにあるか無いかは別にして、おっちゃんとしては正論、暴論を吐き散らかした後ではそのような場面も想像もしないではない。そうなると、おっちゃんとしてはそんな場面はいかにも気まずいわけで、おちゃんの行動力は著しく鈍っていき、結局はそのおっちゃんが映画を観る時は家でこっそりネット配信で見るしか助かる道がなくなる、とまあ、こういうストーリーも自然に発生しうるわけです。つまり、おっちゃんの行動力が鈍る。

そうなのです。私は以前から何かにつけて、しばしば、以下のような会話を人と交わしてきた記憶があります。

人「あなたは、楽器を弾く人には珍しくライブをするのがあまり好きではなさそうですね?」

私「そうですね。やたらライブが好きな人に比べると、それほどやりたいとは思いませんね」

人「楽器を弾くからには、人前でそれを披露することが練習の目標になるものではないのですか?」

私「確かに、そういう目標がなければ、なかなか、ストイックな練習などは続きませんね」

人「では、ライブを否定まではしていない?」

私「そうですね、言ってみれば、ライブは必要悪という所でしょうか」

人「・・・・悪ですか。。。。」

この、なんとも、ねじれた消極性!!

 
別に、斜に構えてニヒルを演じて悦に入っていたわけではありません。今思えば、私は前述のポップコーン売ってるおっちゃん状態に陥っていただけだったのではないか。つまり行動力が鈍る。別に必要以上に人前で楽器弾かんでもええやん、と。こんな所にまで、このポップコーンエピソードは切り込んで来るわけです。ぐいぐいえぐられる。

つまり、音楽と私。というのは結局良い付き合いが出来ていなかったのではないか? ここまで攻め入られた。話はここまで来てしまった!

昔、ウチに出入りしていた覇気のある若手学生フィドラー君が居ました。ある日、私は彼と音楽談議をしていて、今ウチのセッションに来ている若者達は別に音楽しに来ているのではなくて友達が作りたいだけだろう?だいいち、彼らの奏でるセッションは取り立てて良い音楽と呼べるものでは無いではないか!と、毒づいた事がありました。この時この彼はいみじくも私に言った。「では、彼らの存在はありがた迷惑ということですか?」

 。。。。。。!

もう、けっこう昔のことなのですが、この時も、彼の台詞は確かに私にグサッと突き刺さったのでした。いまだに覚えているのですから、鮮明なショックだったのです。が、ポップコーン理論を得た今ならシンプルに判ります、彼が言いたかったこと。

「あなたは、そういうパブを運営しているのでしょう? ただ、演奏がしたいだけなら、彼らは学校の廊下で弾いてますよ」

ひえー!ひえー!

実は、このポップコーン理論ショックに愕然としていた同じ頃、先日ひょっこりと、この彼が顔を見せてくれたのです。今はもう京阪神には住んでいなくて結婚もしてすっかりしゃんとした大人になって、往年の角も取れてすっきりにこやかな青年として目の前に現れました。 

この時の彼のいやに明るいニヤニヤした表情の裏に、「何やら、まだまだスザキさんはややこしい事を言ってるんじゃないでしょうね?」と、突っ込まれているような気持ちになって、てへへへへ(苦笑)みたいな、ちょっと、ほっこりとした気分にしばし浸ったというわけでした。

いやはや、トシ取ったということですか笑。(す)