とあるライブの夜は更けて:field 洲崎一彦


出典 Irish PUB field

ライター:field 洲崎一彦

前回は、軽く、CD作ったけど売れない、、、とぼやいて、自嘲風味で流そうと思っていたのですが、音楽そのものの価値?というような大袈裟な問題の一端に首を突っ込んでしまって、また、迷走しかけて終わりました。

そんなモヤっとした気分の中で、先日、フィドル青年Kくんとライブを行う機会がありました。当世、音楽の価値が著しく低下しているなどとボヤいた直後に自分たちがライブをするという何とも言えない気分のまま。いや、本来、人前で演奏するとなれば、こんな雑念は払いのけて全身全霊で演奏に集中しなければいけない。

まして、今回は、このクランコラの創始者であって今もレギュラー執筆者のおおしまゆたか氏が、この京都までおいでになって我がライブに足を運んでいただいている。おおしま氏とはもう四半世紀の旧知にもかかわらず私の生演奏をお聴きいただくのは今回が初めて!という、個人的に大イベントなわけで、緊張感もひとしおなのです。

上記の雑念と共に強烈な緊張感というねじれた心境の中でライブが終了。ライブ後にはおおしま氏との座談会を設定し、ライブを見に来てくれたセッション常連のお友達も交えて皆がおおしま氏を囲んでの談笑が延々と続いたのでした。

この談笑のひととき。何と楽しく充実した時間だったことか!

あろうことか、翌日には自分達がライブをした記憶が遠い昔の事のようにかすんでいます。そうなんです。この談笑タイムの印象の方が絶大だったことを正直に白状せねばなりません。

前回にも書きましたが、CDからサブスクなどのネットに音楽の媒体が移っていく中での、音楽そのものに対する価値の低下という懸念。YouTubeなどに、歌ってみました、弾いてみました、が、あふれる現象に象徴される、音楽は演る事に意義がある、という風潮。観客が、同じように演奏する立場の人達で占められるライブハウス。こんな中で、かつて大きな趣味の一角を成していた、音楽鑑賞というエリアがどんどん狭まってしまっているのではないか。

昔は何誌も発行されていたFM音楽雑誌などはもうどこにも見当たらない。FM音楽雑誌というのは、FM放送での音楽番組を紹介し、読者は「エアチェック」と呼ばれたFM放送を録音する行為でその音楽を鑑賞する仕組みの上に成り立つ情報誌でした。思えば、そこには、音楽鑑賞という大きな趣味世界があった。

例えば、釣りの世界に名人がいるように、音楽鑑賞の世界にも名人がいました。私の学生時代などを思い出しても、このジャンルのことは誰々に聞けばいい、とか、あの人はビートルズ博士だ、とか言うような人間が周りに普通に居ました。果ては、レコードの歌詞カードと共に解説を書く(ライナーノートですね)プロの評論家の方々、ラジオで音楽番組を担当するプロの評論家の方々もたくさんいらっしゃったものです。

言わば、音楽鑑賞という趣味世界が堅固に存在していました。

確かに今でも、ネットの世界で色々な音楽を評論する人達は存在するのですが、それらのほとんどが、どこか、個人のつぶやきとして流れていってしまう。これは、ネット空間という独特の世界の空気感としてどうしようもないことなのでしょうが、私らのような、レコード・ライナーノート世代からすると、どこか、ガツンとしたパンチが無いわけです。

おおしまゆたか氏と言えば、私たちの世代には多大な影響力を持つ評論家の先生です。私がアイルランド音楽を聴き始めた1990年前後の時代。その頃に一時、世界の民族音楽というくくりで日本国内の各レコード会社がワールドミュージックというシリーズのCD群を発売する風潮があった。輸入盤ではなくて国内盤ですから、丁寧に歌詞カードがついているものもあったしライナーノートも付属していました。今の様にネットがまだ一般的ではありませんから、その音楽やミュージシャンの説明はこのライナーノート頼りだったわけで、私がその頃手にしたアイルランド音楽のCDのライナーノートの多くをおおしま氏が執筆されていたのです。

いわゆる、プロの評論家の先生なのです。が、私にとってはまさにアイルランド音楽入門時の先生。

そして、2000年に、私はそれまで営んでいたカフェをアイリッシュパブにリニューアルして、週2回のセッションを始めたことで、周辺のアイルランド音楽ファンが集うようになって行きます。その中のとある人物におおしま氏を紹介していただいたのをご縁に、京都と神奈川で、細々と、ほぼ、メル友状態が延々と四半世紀も続くというお付き合いをさせていただくことになったのです。

私がおおしま氏に抱くイメージは、こういう風に形作られて行ったわけでして、それは、まさに「音楽鑑賞の専門家」とも言える存在なのですね。

そのおおしま氏に初めて自分の生演奏をお聴き頂いた後に、和気あいあいとした座談の機会を持つことが出来た。具体的にライブを批評していただいたとか、そんなことではなくて、今終わったライブをネタにしながらも話題飛びまくりの雑談に明け暮れた。この満たされた感をどのように表現すればいいのか、適切な言語化がちょっと難しいぐらいの充実した時間。

そうですね。音楽の価値低下を危惧する私の深層に思わぬ方向からかすかな光明が射したと申しましょうか。音楽鑑賞という次元にピンポイントフォーカスすることで、うっすらと音楽の価値低下を免れるかもしれないという希望!とまで言ってしまうと、少し後付け理屈のようになってしまうかもしれませんが、何かそのような雰囲気の空気があの場にみなぎっていたと申しましょうか。。。

ここ、大変微妙なお話なのです。自分達が演奏したライブそのものより、その後のおしゃべりの方が楽しかったって?

こういう誤解を生んでもおかしくないことは重々承知しています。

が、あの夜の、おおしま氏を囲んだ談笑に漂っていた空気を少しでも皆さんにお伝えしたい。この一心で、今回このことを書いてみたというわけです。

音楽に限らず表現というものは、表現する方も受け取る方もどこかに狂気をはらんでいるような所があると、私はずっと思って来ました。が、気がついてみると、いつからそうなっていたのか、今や正気の人々が表現を行い、正気の人々がそれを受け取り存分に楽しんでいる。これは、社会にとっては表現の持つ効用と需要が広がったのですからとても喜ばしいことなのです。が、私がこの現実にハッと気がついた時、混乱とともに、これまで思って来たその表現自体の価値というものが何なのか判らなくなってしまった。

と、少し極端な言い回しをした方がピンと来る諸兄もいらっしゃるかもしれませんね。

これはもしかしたら、私が気が狂ってる人だと吐露したことになるのかな笑。(す)