
ライター:大島 豊
1月の末、久しぶり、うん十年ぶりに京都に行った。2本のライヴを見るためである。1本はバスコ&赤澤淳という異色の顔合わせ、もう1本が金子綾&洲崎一彦の G-old Field である。前者はこの組合せは二度と無いかもしれないと思われ、生きて動けるうちに見たいものは見ておこうという意識もあって見にいった。こちらについてはブログで報告する予定だ。ここでは G-old Field の方について書いておく。
洲崎さんから送られてきた G-old Field のCDを聴いて、まず感心した。洲崎さん、こんなに唄えたんだっけ。field のサイトにある G-old Field のライヴ動画を見て、感心は感嘆にかわった。これは生を見たい。生と動画は違うのである。へたをすると生とレコードの差よりその違いは大きい。
ちょうどトシバウロンの誘いで、バスコ&赤澤淳のライヴを見るために京都に行こうとしている。それにうまく合うライヴの日程は無理だろうか、とダメ元で頼んでみた。やりましょうという返事である。
洲崎さんの生を見るのはパンデミック前の2018年、琵琶湖畔・高島町のアイリッシュ・キャンプの時以来だ。あの時も洲崎さんは確か歌っていたはずだ。唄うこと自体に驚いて、出来不出来はほとんど憶えていない。ただ、まるでダメだったというはずは無い。むしろ結構唄えるじゃないかと感じたのではなかったか。今回のCDでの洲崎さんの歌は、結構唄えるどころではない。立派なものだ。引きこまれる。聴きいってしまう。
伝統歌を唄って説得力を備えるにはコツが要る。ひと言でいえば身を捨てることである。自己表現をしない。肝心なのは自分、自我ではなく、歌そのものだ。歌はたいてい自分の生まれる前から無数の人たちがうたい継いできている。自分の独占物ではない。うたい手は歌が形をとって聴かれるための依り代になる。うたい手は歌が聞き手に届くためのポンプだ。
うたい手はある歌を選ぶ。いやここでもおそらくは歌がうたい手を選ぶ。うたい手がある歌に出会い、唄いたいと感じるのは歌がそのうたい手に唄われることを望んでいるからだ。歌はうたい手にとり憑いて唄わせる、とも言えよう。指輪がビルボを選んだようなものだ。唄がそのまま力の指輪ではないが、唄は指輪以上のものになりえる。すべての音楽でそうだというわけではない。ただ、伝統音楽にあってはそういう仕組みだ。歌だけではない、チューンも同じだ。オリジナルの歌やチューンであっても、伝統音楽のフォーマット、スタイルで作れば同じことである。
というのが、半世紀、さまざまな地域、文化の伝統音楽を聴いてきて出てきた結論である。
であれば、伝統音楽の良い演奏とは、おのれを捨てて、歌やチューンの向こうところに身を任せることになる。歌がどこへ向かおうとしているかを感じとれるようになるには時間がかかる。手間もかかる。
何をどんな形でやって洲崎さんが伝統歌のそうした肝をつかんだのかは知らない。ことは技術の出来不出来だけではすまない。人となりも関わってくる。むろん、どうしようもないろくでなしが最高の音楽を奏でることもある。そこが音楽、ひいては芸というものの玄妙なところだ。幸い洲崎さんはろくでなしとは対極の存在だ。われわれはその点では安心できる。いかに凄い音楽でも、ひどいやつの奏でるものを聞きたくはない。ただし、それもこちらのコントロールの及ばぬところではある。
とまれ、洲崎さんは唄うべき歌とめぐりあい、その肝を摑みえた。その唄を聴くと、ぎゅっと胸の奥をつかまれる。歌があらがいようもなく流れこんでくる。今回唄われた歌はどれも良かった中で最も琴線をかき鳴らされたのは、ロリー・ギャラハーの〈A million miles〉だった。何とこのデュオにとっては〈新曲〉だという。先のCDには入っていない。
伝統歌ではない。しかし洲崎さんは自己表現として唄ってはいない。言ってしまえば、唄いたいから唄った。ということはこの歌が洲崎さんに唄われたかった。そして洲崎さんが唄うことで、歌はロリー・ギャラハーという個人から脱出し、広く世界に解き放たれた。伝統歌へと発酵する歩みを始めた。あたしがそこで、こりゃあいいと感じたのはその解放、出発の瞬間に立ち会えたからだ。
この歌は元来とりわけブルース色が強いわけではない。一方でギャラハーの音楽にはいつも底にブルースが流れている。この歌のブルースの色合いを引きだしていたのが金子さんのフィドルである。
告白すると金子さんはもっとアイリッシュゴリゴリなのだろうと想像していた。あそこまでアイリッシュ・チューンを弾きこなせるには、ゴリゴリにならねばならないはずだ。ところが実際のフィドラー金子は歌伴にも抜群のセンスを発揮する。そのお手本が誰なのか、何なのか、わからない。デイヴ・スウオブリックは歌伴にも名演がいくつもあるが、金子さんとスウオブリックはどうも合わない。金子さんのフィドルはもっとマジメだ。そしてこのギャラハー・ナンバーで弾いたフィドルはブルース・フィドルだったから、また驚いた。こういう合いの手の付け方をどこで学んだのか、自己流なのか、訊くのをついつい忘れた。更に歌からダンス・チューン、たぶんリールへとつなげるのに、内心快哉を叫んでいた。ギャラハー本人がこれを聴けばきっと歓んだろう。
今回は一応コンサート形式で、動画のようなセッションとは違う。フィドルとブズーキがたがいに反応しあって、音楽の温度がどんどん上がってゆくわけではない。ある枠が設定されていて、その中で展開する。終りが決まっている。すると密度が高くなる。ぎっしりと詰まってくる。
もともと二人のセッションは「ケンカ」として始まったのだそうだ。ケンカと言っても、肉体同士がぶつかり合うというよりは、飛び道具で何かを投げつけあう形に近い。どちらがより熱い「弾」を投げつけられるか。
洲崎さんは2種類のブズーキを使う。一本は唄用、もう一本はチューン用。チューン用の方が弦の張りが強く、より大きく、シャープな音が出る。これから放たれる音はフィドルを圧倒し、聴くものを圧倒しようとする。そうなればこちらとしても受けて立たないわけにはいかない。しかし相手はブズーキだけではない。フィドルもまたブズーキに対して受け身ではない。すると哀れリスナーは双方からあふれている音楽に流されまいとかろうじて体を支えることになる。流されてしまっては、二人が生みだす音楽を受けとめて、音楽として味わい、呑みこむことはできない。
レコードではこういう形にはならない。音楽は時間に支配されている。始まりがあり、ある時間が経てば終わる。人間がやる以上永遠に終わらないことは不可能だ。しかもその時間はひと塊になる。終りは空白頁というわけにはいかない。小説は未完のまま世に出ることは少なくないがレコードはそうはいかない。レコードは発散するのではなく収束する。どんな音楽でもそうなる。ジャズのような徹底して発散する音楽でも、レコードでは否応なく収束する。レコードが収束するのは、作品、パッケージだからで、収束することによってアーティストのやっている音楽の本質がより明瞭になる。収束するのにケンカするわけにはいかない。
G-old Fidld の音楽がどんなものかは、レコードの方が摑みやすい。そしてその場合、聞こえている音楽には裏が、隠れているところがあることもわかる。その隠れているところは生でしか見えない、聞こえない。それがわかるレコードが良いレコードということになる。ライヴへと誘うからだ。
自己表現ではなく、唄いたい衝動に忠実で、それ故に伝統の一端に連なる唄と、フィドルとブズーキの「ケンカ」としてのチューン。前夜とはまことに対照的な音楽だった。そしてどちらも極上の音楽だった。この多様なる音楽に浸る幸せをつくづく思いしらされた冬の京都行である。ありがたや、ありがたや。(ゆ)
