【メルマガ:クラン・コラ】Issue No.249

アイリッシュ・ミュージック、ケルティック・ミュージックを中心としたヨーロッパのルーツ音楽についての情報、記事、読物、レビューをお届けする月2回発行のメールマガジン「クラン・コラ」。

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クラン・コラ Cran Coille:アイルランド音楽の森 Issue No.249

アイリッシュ・ミュージック・メールマガジン 読み物編
Editor : 竹澤友理
June 2017

こんばんは。

6月号の読み物編をお届けします!

今月のEditor’s Choiceはフルート奏者の西川智子さんです!

「ケルトシットルケVol.5」収録にあたって様々な感慨や思いを語っていただきました。

お楽しみください!

演奏(発散)欲?:field 洲崎一彦

さて、今回はちょっとアイルランド音楽に限ったことではないかもしれないけれど、人前で楽器を演奏する立場のいろいろな心理の機微について考えてみようと思います。

先日、とあるライブでステージにあがっておりまして、最後の曲をじゃーん!と演奏し終わって私は大きな失敗なく最後の曲を演奏し終えたことに内心ホッとしていた時のことでした。一緒に演奏していたメンバーを見回して、立ち上がって客席に頭を下げようと相図をしたつもりだったのですが、一番近くにいたメンバーがただニコニコとこっちを見るだけでスっと立ち上がってくれない。え?と思ってその向こうにいるメンバーを見ると彼は不安そうにこっちを見てるだけ。つまり、客席から見ると舞台上で最後の曲をやり終えたバンドが何やら見つめ合いながら立ち往生をしてるような雰囲気になっていた。そういう謎の間を察した客席から約1名の勇気ある方が声をあげてアンコール!と叫んでくれた。が、しかし、それにつられて他のお客様が一緒になってアンコールの声を上げるわけでもない。そんな中途半端な気まずい空間が出現してしまって、なんかもう後にも先にも進めなくなってしまって、ほとんどリハもしていなくてメンバー全員が自信のない曲をアンコール曲として演奏してしまって、やっとのことでステージを降りたのでした。そんなことがありました。

私としては、なんやったんや!あの間は?冷や汗をかいてしまった!という焦った気分でおりまして、打ち上げの時に舞台上の私の隣でニコニコしていた彼に、あのニコニコはどういう意味やったん?とたずねてみたのです。

すると、彼は、前日にアンコールでやった曲を1回通してリハしたのでアンコール絶対やるもんやと思って、すぐにアンコール曲を始めるんやと構えてたのだと言うのですね。まあそれはそうなんですが、その曲を前日にリハした時にうまく演奏できなくて落ち込んでたのは他ならぬ彼なのです。なので、私としては最後の曲が気持ち良く終われたのでこのままキレイに終わってしまおうと思ってたのだということを彼に話す。すると、それは自分も同感だったがあの場では、もう1曲やりたい欲の方が勝ってしまったのだと言いうのです。

まあ、こういうちょっとしたメンバー間の思惑違いは実はよくあることなのですが、今回私はこの事にちょっとこだわってみようと思います。

つまり、不安な曲を演奏するのが嫌だからここで終わってしまおうと思った私と、不安な曲ではあるけれど、ええい!やってしまえ!と思った彼のこの心境の違いはどこから来るのだろうか、という所です。

これは、単に性格の違いだということなのかもしれませんが、確かに、ステージに上がる人にはこの2種類の人間がいるような気がするのです。

そもそも、人前で楽器を弾くというのはどういう事なのでしょうか?ちょっと理屈っぽい話になるかもしれませんが、この事を思案してみます。

基本的には、「あなたの演奏が聴きたい」という需要に対する供給として「私はその人の前で楽器を弾く」わけですね。だから、その人は対価としてチケットを買うということですね。でも、これは、あくまで市場経済のルールに基づいた商業構造であって単に「楽器を弾く」という場合のすべてが誰かに要求されるから弾くという事にはなっていないのではないか。特に非商業音楽やアマチュアの場面ですね。

例えば、ストリート。ストリートは確かに投げ銭がもらえる場合があり投げ銭目当てにストリートをするという事もあるでしょう。が、投げ銭では見合わない時間と労力を要する事がほとんどでしょうし、では、何故そこで楽器を演奏するのでしょうか?

そこには、自分の演奏をより多くの人に聴いてもらいたいという欲求があるのですね。もっと言えば、たとえ、チケット代が発生するライブであってもこの欲求の方が強いというか、多くの演奏者はそれこそが全てだと言うほどモチベーションの中心になる心理だと思います。

では、これは、単に自己顕示欲ということで割り切ってしまえるものなのでしょうか?

自己顕示欲自体は人間の承認欲求から来るものであると考えると、集団で生活する動物であるところの人間にとってこれは本能の一部だと言ってもいいのでしょう。ただ、自己顕示はその内容と出し方によっては集団から疎外されるという危険性もはらんでいますから、世の中のすべての人がやみくもに自己顕示をしているわけではありません。

どうやら、このあたりに色々な人間のそれぞれの心理の機微があるように思われます。

つまり、ステージで最後の曲を演奏し終えた私と彼の中にはこの自己顕示の内容の違いがあるということではないでしょうか?

私は、自信の無い曲を演奏することは集団から疎外される危険性のある自己顕示だと判断した。彼は、これぐらいでは集団から疎外される危険性の低い自己顕示だと、むしろ、より集団に存在することが承認される可能性が高い自己顕示だと判断した。こういうことだったのではないでしょうか?

では、この差はどういう所から生まれるのでしょうか。私は目の前のお客様がこの自己顕示を快く思わないだろうと判断した。彼は快く思うだろうと判断した。こんな正反対の判断!

確かに、理屈ではこうなるんですが、同じ状況に身を置いて人間ってこんなに正反対の判断をジッサイするものなのでしょうか?

どうにも、ピンとこないお話なんですよね。

あ、そうそう。と彼が話を続けます。

これは本当はダメなんでしょうけど、正直言って発散というかなんというか、カラオケの楽しさと言うかなんというか、単に大きな声を出したいとか大きな身振りをしたいとか、そういうわけもなくわき起こる衝動みたいなものがあるじゃないですか。そういうシンプルな発散欲みたいなものも、大きな声では言えないけど確かにあったように思います。と。

え?っと思いました。音楽をやるというか楽器を弾くなり歌を歌うなりの行為にはそういう発散の機能というか効能というかそういうものがあったのか!正直言ってこの話は私には目からウロコでした。私の発想にはまったく無かったことです。

確かに、私は過去にはカラオケにもよく行った時期がありましたが、それは、ほとんどがお付き合いの一環で、はっきり言ってその楽しさは理解できなかった。でも、このシンプルな発散欲というキーワードを聞くと、今更ながらになるほど!と思える部分がいろいろ思い出されてくるではありませんか。

いや、もうはっきり、これまでの音楽をして来た記憶、遠い学生時代の軽音楽部での活動やそこの仲間たちとの日常とか、いろんな事が思い出される中で、当時は自分がなかなか実感としてピンと来ていなかったそいうコミュニティーでの暗黙の了解というか文化というか何というか、そういうものを思い返すに、この「シンプルな発散欲」というキーワードを放り込むと、今までなんとなく違和感があった部分がすっきりと収まるようなそんなスッとする気持ちになったのでした。

確かに、これまで音楽をやってる仲間たちからは、私は音楽やる人のわりには露出に慎重やなとよく言われてきました。私のことをライブが嫌いな珍しいミュージシャンだと誤解してきた仲間もいました。

と、言って、そんな私も、もちろん、ライブは楽しかったし、それなりの露出もきて来たし、そもそも、もし、人前で楽器を弾くのが苦痛ならこんなに長い間音楽やってないよ!というものです。

つまり、意識はしていなかったけど、私も知らず知らずの内にその発散の効能をそれなりに味わっていたということではないでしょうか?ただ、単に、意識には無いから積極的に追い求めたことが無かった。ただ、それだけではなかったか。

そうか。そういう事だったのか!!!!です。私はこんなおっさんになるまでこの事に気がついてなかったのか!!!

でも、しかし、その彼がもぞもぞと言いにくそうに「本当はダメだと思うんですけどね」という前起きがありましたね。それはそうなんです。チケットを買って観に来ていただいているお客様の前で、ただ発散して気持ちがいい、というような事は本当はバラしてはいけないのですね。

こんな所にこんな事を書いてしまうと、おいおい、それ言うたらあかんやろう!と突っ込みたくなるミュージシャン諸氏もいらっしゃるかもしれません。
なので、この話はこそこそ話という事でよろしくお願いいたします。

よし!私も、こっそり、三条大橋のたもとにでも行って楽器を弾いて来ようかな!?(す)

★Editor’s Choice★無伴奏アイリッシュの存在:西川智子

こんにちは、西川智子(にしかわさとこ)です。クラシックフルートとアイリッシュフルートを演奏するバイリンガル(?)な笛吹きとして、大阪を拠点に活動しています。フルートを吹いて今年でちょうど20年となりました。笛が好きだと言われたらすぐに油断する、”笛好き”好きでもあります♪

6月21日に発売となる、関西のケルト音楽バンドによるオムニバスCD『ケルトシットルケ Vol.5』に、”上沼健二&西川智子”として3セット収録させていただきました。偶然にも、私がアイリッシュをはじめた2010年に『ケルトシットルケ Vol.1』が発売されました。あの頃、まだまだアイリッシュ初心者だった私にとって、ふふっと笑ってしまう粋なタイトルや、どこか閉鎖的に感じられやすい伝統音楽の扉をフレンドリーに開けてくれる主旨が、とても魅力的に感じました。関西にどんなバンドがいるのだろうと、わくわくしながら購入した記憶があります。今回こうして第5弾にお誘いいただいたことは、7年前と今のアイリッシュへの想いとその違いを、ふと立ち返らせていただけるきっかけとなりました。

相方さんである上沼の楽器はフィドルとバウロン。私はアイリッシュフルートとティンホイッスル。そのため、アルバムでは「フィドル&フルート」「フルート&バウロン」「フィドル、ホイッスル&バウロン」と、曲調に合わせて3種類の編成で収録しました。皆さん、これらの編成を見てどう思われますか?クラン・コラの読者様はアイリッシュをよく聴かれるので、ある程度馴染みがあるかもしれませんね。しかし、アイリッシュを全く知らない人たちにとっては驚きの編成でしょう。ハーモニー楽器で盛り上げることもなく、スタイリッシュで凝ったアレンジもしないユニゾンの響き。素朴とも捉えられる私たちのような編成は、これまでのケルトシットルケのアルバムにもいらっしゃらないように思います。

アイルランドへ何度か渡り、現地の音に触れ、様々な音源も聴いてきました。また、アイルランドからの来日ミュージシャンとの共演や、彼らとの交流も通して思うことは、「アイリッシュは、メロディ楽器ひとつで十分に完成された音楽なのだ」ということ。むしろ、ハーモニー楽器やリズム楽器が入ることで、メロディ楽器のソロや重なりでしか作れない独特な音の響きを、打ち消してしまうこともあるように思います。シンブルな音の響きだからこそ、弾き手の魂や意思をダイレクトに感じられるのでしょう。

日本では大衆受けしやすいバンドサウンドが広まり、あえて無伴奏の編成でステージ演奏する習慣はなく、それが少し勿体なく思います。もちろんギターやブズーキ、ハープなどとの演奏も聴くことも、楽しくて大好きです。決して否定しているのではなく、無伴奏スタイルの存在がもう少し広まってもいいのにな、と惜しくなってしまうのでした。

アルバムの収録時にこんな出来事がありました。フィドル&フルート編成の曲で、バウロンも重ねてみようかというアイデアが出たのです。アイルランドでもメディア取材を受けるなど、本場のミュージシャンからも認められている上沼のバウロン。もちろん、とてもとても素敵に添えてくれました。しかし、私たちは最終的に、この曲はフィドル&フルートだけの方がより魅力的だと感じたのです。決してどちらかが「良い悪い」ではなく、その方がフィドルとフルートの響きをより聴いてもらえるのではと判断しました。逆に、バウロンがあるからこそ惹き立つセットもあり、アルバムでは主観的な好みで3種類の編成に落ち着きました。

以前、とあるミュージシャンが私たちの演奏を聴いてくださった際に、「君たちの演奏を聴いてると、Mair?adとFrankie Kennedyの1stアルバム(『Ceol Aduaidh』)を思い出すよ」と、真剣に仰ってくださいました。今でも忘れられない、最高の褒め言葉でした。上沼は私がアイリッシュを知るきっかけをくれ、これまでにたくさん共演し、お互いの音の変化も見てきました。彼の音楽や、音への向き合い方を心から尊敬していますし、絆も深く感じます。そんな背景も、シンプルな編成だからこそ、リスナーさんに伝わるものがあるのではと願っております。演奏者としてまだまだ未熟な私ですが、そんなことを考えながら収録していたのだなと、『ケルトシットルケ Vol.5』を聴いて、楽しんでいただけますと幸いです。長文駄文となりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

ざっくり学ぶケルトの国の歴史(3)へき地に追いやられがち:上岡 淳平

歴史を知ることは、音楽・文化に触れる上でとても大切だと思うんですという話から、歴史の話をはじめております。

「昨日まであんなに楽しく暮らしてたのに」

のん気にロンドン界隈で暮らしていたローマ人は、北からやってきた野蛮な怖い人たち(ピクト人)と、大陸側から突如攻めてきた怖い人たち(アングロ・サクソン人)に挟み撃ちにされてしまいます。

のん気に暮らせるからこそ、遠征を続けていたローマ人は、上下から凶暴な人たちに追い立てられて、そそくさとおうちに帰ってしまいます。

でも帰る場所のない現地のケルト・ピープルはというと、一同大パニック!

「とりあえず、逃げなきゃ!」ってなわけで、ローマ人が見向きもしなかったド田舎(ウェールズやコーンウォール)に逃げ込んだ。そんな逃げ惑っていた頃、希望の光として生まれたのがアーサー王の伝説だったりするんだとか。

その頃、アイルランドでは、ケルト人(名称:スコット人、使用言語:ゲール語)の中のトゥアハという部族が、小王国をつくっていた。

今でも有名な観光地「タラの丘」がその中心で、伝説の王様なんかも誕生したんだって。そうして民族として成熟していったアイルランドの人たちは、お隣ブリテン島からローマ人がいなくなったのを見計らい、ちょこちょことブリテンに攻め入った。(英国がアイルランドに攻め入る歴史とは真反対)

ピクト人たちともがっつり戦って勝利を収めたり、ウェールズあたりをちまちま攻めたりもした。

ブリテン島の住人からすると、三方向から侵略者が攻めてくるので、「こりゃたまらん」と、次第に島の端っこ(コーンウォール)に追いやられていき、ついには海を渡って、対岸に流れ着き、そこに町を作った。そして、その町を「ブルターニュ」と名付けたんだ。

さて、侵略劇もひと段落すると、イギリスの島の中でそれぞれが思い思いにグループを作っていって、7つの国に分かれることになった。

また、ローマ人によってもたらされ、ローマ人とともに消え去ったキリスト教が、ローマ教皇の計らいによって再度、ブリテン島に広まった。ちなみにアイルランドには、ローマ帝国の時代にやってきた聖パトリックの布教によって、それなりにキリスト教が定着していたと言われていたりする。

しばらく経った頃には、ブリテンの7つの王国にもきっちり優劣が付き、大ボスも決まったりして、ほんと平和になったんだって。

お隣アイルランドも、前述の通りキリスト教の教えをしっかり守り、なんとも平和な時代を謳歌していた。

その頃は、都市と呼べるようなところはなく、修道院の周りに村が出来ていた。みんな修道院にモノを売り、修道院はみんなの治療や(罪の)赦しを与えるという、持ちつ持たれつ文化が築かれていたんだそうな。

紀元500年ごろのイングランド事情を紹介したところで、続きはまた次回。

「ハブ」としてのパブという文化について 4:竹澤 友理

セッションで楽器を触ることから目的が移り、その場に居合わせた人どうし交流を楽しめるようになって数年ほど。周りを取り巻く環境もめまぐるしく変わっていき、最初はひとりで行き帰りしていたパブfieldへの道程も、いろいろな面子でぷらりと辿ることが多くなった。

はじめは見えてさえいなかったいろいろなものが、目を開け耳をひらいた途端にじぶんの一部になっていくのを感じた。それはきっといい変化だと思った。

前回(先月)書いた通り、音楽をする場所というよりは、パブというのは人が集う場所であること、そこからさまざまな創作や刺激や発見が得られること、それ自体を楽しむ余裕がまた新しいものを生んでいくということ、それらが自然と人を引き付けてゆくこと、その気付きがよりセッションを楽しく充実した時間にできること、そんな一連のことを考え至った2年半を経てわたしはいまだに楽器に触れ続けている。

一か所のセッションに行く回数でいえば正直減ってしまったが、代わりに楽器と人と過ごせる場所はぐんと増え、そのあいだを行ったり来たりしているのがとても楽しい。取り組む楽器の種類もさまざまな事情で増え、そのぶん多角的に一曲を考えられるのがこれまた楽しい。じぶんの音楽周りは楽しいでいっぱいなのである。それで十分な贅沢だと思っている。

後進に期待したいとか、バンドに求めるものとか、他人とじぶんを差別化して自己のアイデンティティを際立たせたいとか、トラッドとポップスのこととか、きっと正解の見つからない議論はアイルランドでもその他の国でもいままでのようにこれからも盛んにおこなわれるだろうと思う。

たしかにそのどれもが議論すること自体に価値があるし、非常に重要でだれもが通る道だったりするのだと思う。だからこそ、これから時が経って先達者になってゆくのであれば、その道の後輩にはただただ様々な音楽と人の場に触れてほしい、なんてことを今現在は考える。多様多彩な人や創作に触れていく中で、彼ら彼女らが自由に選び取った選択肢のどれもを肯定すると思う。なぜならその辿ってきた道筋と選んだ一つ一つのことが、その子らの音楽の重要なバックグラウンドになると信じているので。

ともかく、今は自分が学び経験する立場なので、まずは人同士のつながる場所、音楽同士のつながる中枢(ハブ)としてのパブで、これからどんな人たちと繋がれるのか。楽しみです。 (連載終わり)

編集後記:竹澤 友理

梅雨なのにそれほど雨も続かず、あまり6月という感じがしないなぁ、とおもいながらこれを書いております。

あっというまに7月が目前ですね。

さて、来月のEditor’s Choiceは、東京で活躍されているフィドラーの矢吹彩さんに依頼しています!

おたのしみに!

クラン・コラ:アイルランド音楽の森(月2回刊)

★クラン・コラでは読者の皆さまから寄稿を募集します。ケルト音楽やヨーロッパの伝承音楽について、書きたいテーマでお寄せ下さい。詳しくは編集部までご連絡ください。

クラン・コラ:アイルランド音楽の森(月2回刊)
発行元:ケルトの笛屋さん
Editor : 竹澤友理

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日本のケルト音楽普及に尽力されたライターのおおしまゆたか氏と、京都でアイリッシュ・パブ feildを経営する洲崎一彦氏が編集し発行されていた、国内におけるケルト音楽の情報を網羅したメールマガジン「クラン・コラ」。

2011年に一度休刊しましたが、5年の沈黙を経て2016年に復刊!
編集・発行をケルトの笛屋さんが引き継ぎ毎月2回のペースで発行中です!

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