アイリッシュ・ミュージック、ケルティック・ミュージックを中心としたヨーロッパのルーツ音楽についての情報、記事、読物、レビューをお届けする月2回発行のメールマガジン「クラン・コラ」。
当ブログにて、不定期にバックナンバーをお届けします!
クラン・コラ Cran Coille:アイルランド音楽の森 Issue No.261
- アイリッシュ・ミュージック・メールマガジン 読み物編
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Editor : 竹澤友理
December 2017
私たちには勇気が足りない!:field洲崎一彦
先月は、デイル・ラス氏のフィドルに接して感じた演奏のエモーションというものについて書いたのですが、デイル・ラス氏の演奏と初心者大学生君の演奏を比べるのはあかんやろ、というような誤解もあったようなので、今回は、関連したまた違う視点からのお話をします。
そうです。何もデイル氏の演奏と大学生君の演奏を比べたのではないのですよ。演奏というものの行為に潜んでいるエモーションのようなものの存在にデイル氏が気づかせてくれたというお話だったのです。確かに私自身も、このただエモーションという言葉だけでは言いたい事がうまく伝わらないかもしれないという危惧はありました。なので、今回は少し視点を変えてみようと思います。
デイル氏のような達人を引き合いに出したからいろいろ誤解を生んでしまったのであって、比べるならずばり西洋人の初心者の方が自然ですよね。例えば、デイル氏以外にも当セッションにはこれまで数多くの西洋人の演奏者が参加してくれました。その中には当然、いわゆる上手くない人も大勢いましたし実はほとんど弾けないというレベルの初心者さんもいました。が、アイルランド人もアメリカ人もオーストラリア人も、誰一人、「私は初心者でまだ下手なのですがどうぞよろしくお願いします」などというような自己紹介をしたた人は皆無でした。
この感じ。あるでしょう?
日本人の場合、実はけっこうな経験者でも、初めて参加するセッションで自己紹介をする時には必ずこの類いの謙遜の表明をしなければならないルールでもあるのか?ん?と思ってしまうほど、こういう感じの事を普通に表明しますよね?というか、なんか無意識にに言ってしまいますよね?
確かに昨今増殖している、あえてコミュニケーションしないぞ派の若者達はこんな事は言わないかもしれないれど、言わないけど、言わなくても判るようなおどおどした態度をしてしまうというような所があるじゃないですか。あるいは、このおどおど感が逆に働いてしまって、変な緊張と興奮をするのかどうか判らないけれど、どこかでタガがはずれてしまって、突拍子もない音量で弾き始めたり突拍子もなくチューニングがずれていたり、そんな事態になってしまったりする光景に接したことのある人も多いと思います。
これって、考えて見ると、ここで弾くの怖い・・・・、というような心理かな?
でも弾きたい。でも怖い。みたいな、わりとねじ曲がった心理ですよね。
では、何が怖いのか。自分の演奏でまわりの人達が何と思うだろう・・・とか、もっと発展させて、ヘタくそ!と思われたらイヤだ、嫌われたらイヤだ!というような雰囲気だと思うのですが、では、何故わざわざそこで弾くのか?というところがねじれてますよね。
西洋人の先輩たちは、たぶん、人がどう思うかなんてことに気が回らないほど弾きたい!と強いエモーションを持った人がセッションの輪に入ってくる。こういう事が怖いなどということは意識の端にも登らない、そういう事ではないかと思うのです。
こういう、セッションの場での日本人と西洋人の振る舞いの違い、気になるんですよ。文化の違いとひとことで言ってしまえばそうなんでしょうけど、同じ音楽をやってるんだからそんな事気にしなくてもいいじゃないか、という意見もあるんですけど、でも、どうしても気になる。
何故、気になるかというと、この振る舞いの違いが楽器を弾くという行為にも影響を及ぼしてないか?と思い当たるからです。こういう、人の輪という場面における西洋と日本の文化の差という問題は、それこそ、専門的に研究されている方も多いだろうし門外漢が想像であれこれ述べるのは乱暴だとは思うのですが、例えば、「他人」というイメージがまったく違うと仮定した時に、その「他人」の前で自分が楽器を弾くというイメージもこれはもうぜんぜん違うとこにはなりませんか?
例えば、聞いた話ですが、アメリカでは知らない同士がエレベーターに乗り合わせたら、お互いにフレンドリーに挨拶をし積極的に会話をする光景が普通にあって、彼らが社交的でフレンドリーな人達だからなのだという牧歌的な解釈は間違いですよと、常に「自分は危険な人間ではない」ということを積極的にアピールしておかないと本当に身の危険があるからだ、というエピソードを思い出すのです。
くどいようですが、ちょっと想像してみてください。「他人」へのイメージがこんなにも違う中で楽器を弾くのですよ。音楽という万国共通の文化を一緒に楽しむんだから、などというのんきな事言うててええんでしょうか。
当店にもよくおいでになる西洋人特にアメリカ人観光客の方々、この方々は本当に明るくて気さくに会話されます。初対面なのになんでこんなに気さくなんだ!と驚くこともしばしばです。他人との会話って、他人に対して自分の何かをアウトプットする第一歩ですよね。だから、会話というのは、上記のような、その個人が持っている「他人」感が如実に出てしまう行為だと思います。
一方、楽器を弾くという行為はどういうものでしょう。楽器を弾いて外に向かって音を出すのだからこれも明らかにアウトプットですよね。例えば、部屋でひとりで楽器の練習をしている時は誰も聴いてないのだからアウトプットじゃないという意見もあるかもしれませんが、そこで物理的に音が出て行ってしまう以上、これは窓の外で誰かの耳に入っているかもしれない。つまり、潜在的にそれはアウトプットという事になると思うのです。
つまり、他人に対して行うアウトプットとしての楽器を弾く行為です。ここのイメージが西洋の人々とまったく違っていたのだ!とすれば、どうでしょう?当然、出て来る音にも違いが出て当然ということになる。この「音」というのは音色という意味ではありませんよ。音楽という意味です。
はい。これが、私の問題提議なのです。
デイル氏が何を気づかせてくれたかがここなんです。彼の楽器を操る巧みさだけに目を奪われるのではなく、その奥に横たわるこの「楽器を弾く」あるいは、「アウトプット」するという基本的姿勢の違いなのです。これを、先月は「エモーション」という言葉で言い表そうとしたのですが。彼らが、自分をアウトプットする姿勢には何かエモーションのようなものを伴っているということなのです。
つまり、ふらりとやって来ていきなり大きな声でジョークばかりをまくしたてるアメリカ人観光客の皆さんの会話には、その基本姿勢として、日本人のお客様には無いエモーションのようなものがあるのではないか。
という、お話なのでした!
そして、私たちがこの日本人が持っているであろう「他人」感を保ったまま、このようなエモーションを伴ったアウトプットをするにはどうしたいいのか、なのです。この事に対して最近ひらめいたキーワードがあります。
それは、「勇気」なのですね。
そうです。私たちには勇気が足りない! (シーン・・・・)
ますます、訳がわからないことになってしまいましたかね?汗。(す)
Ashley Davis——アメリカで伝統をうたう試み・その4:おおしま ゆたか
ハンツ・アラキ・トリオの一員として来日したコリーンのライヴについては、ブログに書いた。
http://blog.livedoor.jp/yosoys/archives/54784724.html
来春に出るという新録とそれに伴う来日は楽しみだ。
さて、コリーンのアルバムを聴く試み、セカンドの《LARK》の後半を続ける。
06. I Live Not Where I Love 03:59 England
イングランドの有名な伝統歌。起伏の大きな美しいメロディをもつ名曲。おそらく最も有名な録音はマディ・プライア&ティム・ハートの二人の名義でのアルバム《SUMMER SOLSTICE》(1976) のものだろう。ハートのギター1本をバックにプライアが凛とした歌唱を聴かせる。もっともアレンジはスティーライ・スパンの《TEN MAN MOP》拡大版CD収録の1971年のBBCでのライヴにも入っているものと同じ。おそらくはプライアとハートがスティーライ以前に組んでいたデュオの頃からやっていたのではないか。ブートレグで聴けるこの頃のライヴ録音では、後半ピーター・ナイトが味のある伴奏をつける。また2009年のオーストラリアでのライヴ《LIVE AT A DISTANCE》でもほぼ同じアレンジで収録している。
ちなみに《SUMMER SOLSTICE》にはアンディ・アーヴァインがマンドリンで参加している他、ジェリィ・コンウェイ&パット・ドナルドソンというフェアポート人脈がリズム・セクションという興味深い起用が見られる。というのは余談。
その他、やはりイングランドのシンガーの録音が多い。メアリ・ブラックがうたっているのも、彼女の出発点がイングランドのうただからだろう。ブズーキとギター伴奏に、フルートがアイルランドの色を付ける。
リンダ・トンプソンが回顧アンソロジー《DREAMS FLY AWAY》(1996) に収めているのは、かなりゆっくりしたテンポで、これまたほぼギター1本のバックで始まる。途中からエレキ・ギターが加わるが、これはもちろんリチャードではない、はず。さらにオルガンも加わって、リンダのスタイルもあって、豪奢なヴァージョン。ただ、リンダの声とスタイルは、このうたとは合わないところもある。愛する土地に棲めないのを嘆くよりも、そのどこが悪いと開き直っているようでもある。
その名も《TRADITIONAL SONGS OF ENGLAND》と題したアルバム (1993) でうたうのは Jo Freya。リンダとは対照的に弦楽四重奏をバックとして、歌唱も格調高い。チェロのピチカートが効果的。
《SISTERS 1: Folksong》() 収録のカナダの Eileen McGann の歌唱も格調高い。このうたはこういう形になりやすいのか。ここでもフルートがフィーチュア。
手許にはたまたまアメリカ人の歌う録音が三つある。まずは Kat Eggleston のセカンド《SECOND NATURE》(1994) は、自身のギターとここでもチェロがバック。上記のうたい手たちが自意識過剰に聞えるほど、抑えた、控え目な歌唱。一音ずつ言葉を置くようにうたう。もともとこの人は言葉を大事にうたうが、ここではさらにていねい。後半、チェロに支えられた、ホィッスルの間奏がすばらしい。コリーンやアシュレィ・デイヴィスに見られる、アメリカのうたい手の自意識を表に出さない、抑制された歌い方はこの人あたりから始まっているのか。
二つ目は Karen Mal のもので、《DARK-EYED SAILOR》(2005) 収録だが、あたしはレーベルの Waterbug のサンプラー《BORN INTO THE WHISPER》で聴いている。エグルストンと同じく、言葉を大事にうたう。バックはむしろ華やかだが、シンガーはここでも抑え気味で、誇りよりも敬意をこめてうたう。
この二人に比べても、コリーンの歌唱はさらに抑制が利いている。アクセントというよりも抑揚をていねいに追う。ゆっくりとうたいだし、一節うたったところでフィドルとフルートが入って、ジグのリズムに切り替える。ただし、歌唱はビートに乗るよりは、やはり一語ずつていねいにうたう。ドラムスとベースも入っての間奏でのフルートとフィドルがいい。
こうしてみると、少なくとも比較的近年の録音では、英国勢よりもむしろアメリカのうたい手の方がうたへのリスペクトが篤く、個人の表現よりもうたを伝えてきた伝統の一環としての意識が明瞭だ。ブリテンのうたい手たちはどこか「看板」をしょっている。
07. Down By The Sea 03:55 Ashley Davis
作者のオリジナルはシャープなギターのカッティングが曲を推進し、ハープがアクセントをつける。デイヴィスの歌唱はすぐ隣りに坐っている相手にうたいかける。
コリーンはこれもぐっとゆっくりと、しかもスイングしながらうたう。ギターもアルペジオ。チェロと、ここでもマンドリンがセンスのいいバックをつける。アラキはコーラス。作者のうたが基本であるとしても、この歌唱はあらためてこのうたの良さを静かに伝える。
08. Otterburn 04:11 Northumberland
チャイルド・バラッド161番。有名な〈Chevy Chase〉はこの別ヴァージョン。1388年8月に、ニューキャッスル・アポン・タインの北西50キロにある村オタバーンの付近で戦われたオタバーンの戦いをうたったもの。スコットランドとイングランドの国境をめぐる小競合の一つ。スコットランド側の第二代ダグラス伯ジェイムズがイングランド側に侵入し、これを迎え撃った初代ノーサンバーランド伯ヘンリー・パーシィの軍を大々的に破った。但し、ダグラスは戦死。
コリーンはかなりの短縮版をうたい、ギターの伴奏からしてアメリカン・フォーク・ソングの趣。こうしたバラッドはドラマティックな展開をみせることが多いが、ここではアメリカ版としてうたって、歌唱でも劇的に盛り上げる。とはいえ、そこにも抑制が働いていて、バラッド・シンギングの範疇から踏み出すことはない。
このタイトルでこのバラッドを録音している例は他には見あたらない。
09. Gallant Murray 03:13 Scotland
アンディ・M・スチュワートのオリジナルはドラムス、ベースも加え、華麗なギターの響きとともに、勇壮なマーチに乗せて朗々とうたう。ハイランドのクラン諸族の盛時への讃歌だ。
コリーンはさすがにスコットランド風の発音は捨てているが、それでも原詞の備えるビートの感覚は健在だ。この人はアクセントの使い方がうまく、こういう曲ではビートを際立たせることなく、しかもリズミカルにスイングする。ドラムスとエレキ・ベースのリズム・セクションも贅肉を削ぎ落とした演奏でまことに趣味が良い。
10. I Know My Love 02:09 Ireland
チーフテンズがコアーズと録音して有名になった伝統歌。イングランドやアメリカでも人気があり、録音は無数にある。
最も伝統的な歌唱としてはマクピーク・ファミリーのものが一つの指標になろう。Ian Campbell Folk Group の《ACROSS THE HILLS》(1964) では、若きデイヴ・スウォブリックのマンドリンが聴ける。
そのスウォブリックは Kevin Dempsey とのライヴ録音がボックス・セット《SWARB!》にある。スウォブリックはうたとはまるで無関係の曲をデンプシーのうたと交互に弾く。このチューンが合っていないようで、どこかとぼけたつながりがある。この人にしかできない離れ業。
チーフテンズ+コアーズではラテン調のアレンジで、ほとんどカリプソの気分。
チーフテンズは無理矢理にリールをはさみこんでいるが、この録音は珍しくコアーズがチーフテンズを自分たちのペースに巻き込んで、チーフテンズのポップスとのコラボレーションとしては出色の出来栄えだ。
もっともこのうたのベスト・ヴァージョンとしては、1995年の Eliza Carthy & Nancy Kerr のものにまず指を折る。二人のヴォーカルとフィドル2本のみ、それもフィドルはメロディになる前のリフを繰り返すだけで耳を奪う。
アイルランド勢では Neiley Collins の《FROM TIME TO TIME EVER CHANGING》(1998) での歌唱が面白い。自身のシンプルなギターをメインとしたバックでとことん誠実にうたう。決してうまいわけではないが、誠実さだけで聴かせてしまう。アイルランドには時たまこういううたい手が現れる。
異色なのはアイルランドのコーラス・グループ White Raven のヴァージョン。フィドル1本を伴奏に、男女三部コーラスでうたう。そのアレンジがかつてのものとは一線を画したモダンなものだ。なお、これには同じフィドラーによるリール〈The Rose in the Heater〉の見事なソロ演奏がおまけにつく。
コリーンは自身のバゥロンだけを伴奏にアップテンポでうたう。アラキがコーラスをつける。歌唱もバゥロンもすばらしい。これができるのは、実はそれほど多くない。バゥロンを叩きながらうたうというとクリスティ・ムーアやケヴィン・コネフがいるが、このバゥロンは二人とは時代が違うのは明らかだ。チーフテンズ+コアーズのヴァージョンとは対極にあって、カーシィ&カーとタメを張る。
11. Lizzy Lindsay 03:52 Scotland
ロバート・バーンズの伝えた伝統歌の一つ。〈Leezie Lindsay〉のタイトルもあり、Linn Records の《THE COMPLETE SONGS OF ROBERT BURNS》では第二集で Arthur Johnston がうたっている。これは Belle Stewart の流れを汲んで、真正面からうたう。スコットランドらしい、まことに美しいメロディはそれだけで「絵」になる。
アイルランドでは Finbar & Eddie Furey が取り上げているのが、最も早い部類。ギターとリコーダーを伴奏にした歌唱で、アイリッシュ・ミュージックの開拓者としての役割はもっと評価しなくてはならないと思い知らされる。
スコットランドのうたをうたう時のコリーンのスイング感は、似たうたい手は他にちょっと見当らない。これをスコットランド的でないとして斥けるのはお門違いだ。ドラムスがブラシでこのスイング感を裏書きする。フィドルとアラキのフルートがいい。
シンガーとしてはファーストから格段の成長を見せている。とはいえ、まだここではバックに支えられているところも無いでは無い。それが、次のギタリストとのデュオではまた別の相を見せる。(ゆ)
★Guest Writer★ 新連載:オーケストラアレンジで聴くケルト・北欧の伝統音楽:吉山雄貴
はじめに 本連載と執筆者について
みなさま初めまして!
私、吉山雄貴と申します。本名です。アイリッシュをとおしてかかわったかたがたの間では、「よしやマン」というニックネームで呼ばれております。
このたび、「クラン・コラ」に拙文を掲載していただけること、とても光栄に思います。
この連載の趣旨は、題名にもあるように、「ケルト圏や北欧の伝統音楽を、オーケストラ・アレンジで聴いちゃおう!」、というもの。
百聞は一見に如かず、もとい一聴に如かず。まずはこの動画をご覧ください。
これはIevan Polkkaという、北欧フィンランドの有名なポルカ。ボーカロイドがネギをふり回すアニメーションとともにYou Tubeに投稿され、それがきっかけで世界中に広まった、といういわくつきの1曲です。
アイリッシュ界隈でも、Finnish Polka(フィンランドのポルカ)の名前で、しばしば演奏されています。
最近だと、「いい部屋ネット」のテレビCMで、桜井日奈子さんが替え歌を歌ったのが、記憶に新しいかな?
いやそんなことより、特に前からこの曲をご存知だったかたに、お訊きします。このアレンジ、いかがでした?
重厚! 壮大! 大迫力!! そんな言葉が並ぶのではないでしょうか。
実はこの音源、動画のタイトルにもあるように、オーケストラアレンジなんですよ。演奏そのものは生の楽器ではなく、ソフトウェアで打ちこんだもののようですけど。
オーケストラはご存知ですよね。コントラバスやらトロンボーンやらティンパニやら、いろんな楽器をもった人が数十人ズラッと並ぶアレです。
主に活躍するジャンルは、クラシック音楽です。しかし、映画音楽もオーケストラの出番。「スターウォーズ」も「ロード・オブ・ザ・リング」も「パイレーツ・オブ・カリビアン」も、すべてオーケストラが演奏しています。
私、伝統音楽ももちろん大好きですけど、同じくらいオーケストラが好きなんです。
何十人もの人間が奏でることで生じる音の厚み。金管楽器の咆哮。腹の底にひびく重低音……。
こればかりはさすがに、伝統音楽に見られる2人から4人編成のバンドでは、到底かないません。そもそも伝統音楽が追求するのソコじゃないしね。
でね、探してみると意外なくらい、伝承曲をオーケストラで演奏するためにアレンジした作品って、みつかるものなんですよ。より正確には、オーケストラで演奏するために書かれた楽曲で、伝承曲を引用したもの。
この連載では、そういった作品を集中的にとり上げて、ご紹介します。
アレンジ次第で、映画音楽に引けをとらない迫力をも獲得しうる、伝統音楽のポテンシャル。伝統音楽を聴いてたのしむ方法の多彩さ。そういったものを感じとっていただければな、と思います。
ピックアップする楽曲は、そのほとんどがクラシック音楽です。しかし、専門用語はほとんど使いません。ですから、その点はどうかご安心ください。
というか、私自身が「うん? ポコ・アレグレット、……え? グラツィオーソ? なにそれイタリア料理の名前ですの?」(ちがいます)て感じの人です。そんな私の耳にも心地のいい作品を、私でも理解できるコトバで、語りたいのです。
最後に、私よしやマンについて、少しおはなしします。
私、小学生のころから、ギリシア神話など神話が好きでした。どれくらい好きかというと、北欧神話に登場するルーン魔術や、ドルイドが使用したといわれるオガム文字を実践するほど(アブナイ奴)。
中学生のとき、占星術を題材にしたホルストの「惑星」を聴き、それがきっかけでクラシック、というか音楽そのものにハマりました。その後、主にイギリスや北欧出身の作曲家の作品ばかり聴いていましたが、あるとき、ホルストの「サマセット狂詩曲」という楽曲に出会って、民族音楽というジャンルに目覚めます。何かとホルストに人生を方向づけられていますね私。
これが「サマセット狂詩曲」です。
イングランドの民謡をいくつか引用したオーケストラ曲で、郷愁をそそるメロディがたまりません。
これを聴いて以来、私は似たような旋律を探し求めて、「○○狂詩曲」とか「××民謡組曲」と銘打った楽曲を、手当たり次第に鑑賞しました。本連載でとり上げる作品の大部分は、そのとき出会ったものです。
なぜ、クラシックというジャンルの中で民族音楽を探すなどと、大変まわりくどいことをしたのか。理由は簡単。「民族音楽のCDはワールドミュージックの棚にあるよっ!」、というごく基本的な事項を、当時の私は知らなかったからです。ここ笑うところです。
ということで次回から、迫力のオーケストラ・サウンドで伝統音楽をたのしめる作品を、ご紹介してまいります。第1弾は、ルロイ・アンダーソンの「アイルランド組曲」。
編集後記:竹澤 友理
こんばんは!今月から新連載として、吉山雄貴さまより今月掲載分も含めまして14部にわたる原稿をお預かりいたしました。これから1部ずつ掲載していく予定です。クラシック音楽とケルト音楽の交点では、どんな興味深い化学反応が見られるのでしょうか。今後ともおたのしみに!
クラン・コラ:アイルランド音楽の森(月2回刊)
★クラン・コラでは読者の皆さまから寄稿を募集します。ケルト音楽やヨーロッパの伝承音楽について、書きたいテーマでお寄せ下さい。詳しくは編集部までご連絡ください。
- クラン・コラ:アイルランド音楽の森(月2回刊)
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「クラン・コラ」とは
日本のケルト音楽普及に尽力されたライターのおおしまゆたか氏と、京都でアイリッシュ・パブ feildを経営する洲崎一彦氏が編集し発行されていた、国内におけるケルト音楽の情報を網羅したメールマガジン「クラン・コラ」。
2011年に一度休刊しましたが、5年の沈黙を経て2016年に復刊!
編集・発行をケルトの笛屋さんが引き継ぎ毎月2回のペースで発行中です!
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10日発行のPart 1は「情報編」として、発行日近くに行われる国内のケルト音楽ライブ情報をぎっしりと掲載!また、コンサート、ライブ情報の掲載依頼も随時募集しています。
20日発行のPart 2「読み物編」では、アイリッシュやケルト音楽・文化にまつわる話題お届けしています。クラン・コラの創刊者のおおしまゆたか氏、洲崎一彦氏をはじめ、さまざまな連載陣(店長含む)やゲストライターによる濃密で読み応えのあるメルマガとなっています!
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