【バックナンバー:クラン・コラ】Issue No.284

アイリッシュ・ミュージック、ケルティック・ミュージックを中心としたヨーロッパのルーツ音楽についての情報、記事、読物、レビューをお届けする月2回発行のメールマガジン「クラン・コラ」。

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クラン・コラ Cran Coille:アイルランド音楽の森 Issue No.284

アイリッシュ・ミュージック・メールマガジン 読み物編
Editor : 竹澤友理
December 2018

ガリシアのフルーティスト ショセ・リス Xosé Liz CDレビュー:Tominho

2018年10月、ショセ・リスの待望のフルートアルバムがリリースとなった。

ショセ・リスといえば、日本では無印良品のBGM 19 Galiciaに参加している他、Anxo LorenzoやRiobó、Entre Trastes、Arxe、Lizgairoなど、40を超えるプロジェクトに携わってきたミュージシャンだが、ガリシアを代表するフルーティストではありながらも、これまでの録音作品はブズーキやギターなどの弦楽器がほとんどだった。10年以上前からフルート作品を作りたいと考えていたそうだが、多忙を極めるスケジュール故、なかなか録音に踏み出せずにいたという。そんな中、数年前からアイルランドのコーク近郊で開催されるフルート・ミーティングに参加した時に、主催者でフルート職人のハミー・ハミルトンから、「是非ガリシア音楽をフルートでやってほしい」と求められ、決心がついたらしい。

CDを開封した瞬間から、ものすごい熱量のフルート愛が伝わってくる。18世紀のトラヴェルソから現代の製作家による新作に至るまで、スペインの中で最も貴重なコレクションを含む計12本のフルートが使用されているのだが、ブックレットには各トラックで使用されたフルートとヘッドキャップの写真が掲載されており、フルートファンとしては音色を聴き比べるのも楽しい。ディスクにもヘッドキャップが印刷されているし、ついでに言うと写真を撮影したカメラマンもプロのフルーティストだ。

本作の画期的な点は、まずガリシア音楽を扱った初のフルート作品であるということ。ガリシアにはレキンタと呼ばれる笛の伝統が今でも残っているが、主役はあくまでもガイタであり、これまでフォーク音楽として演奏される機会はほとんどなかった。本作はレキンタの伝統的な演奏スタイルを取り入れつつも、様々な楽器のレパートリーをフルートに「翻訳」して演奏するフォーク音楽のスタイルを確立した作品といえる。

ガリシア音楽といえば、ガイタと呼ばれるバグパイプが主役。伝統音楽やフォーク音楽では、ムイニェイラ (6/8拍子) やホタ (3/4拍子) といったガイタで演奏されるダンス曲が中心となることが多いのだが、本作のレパートリーはこれらにとどまらず、今まで笛ではあまり演奏されることのなかったレパートリーを積極的に取り入れている。タイトルのO Cantar dos Frautaresとはヘブライ聖書の「雅歌」を意味するガリシア語O Cantar dos Cantaresをもじって「歌」に当たる部分を「フルート」に置き換えたものだが、文字通りフルートで歌うことを意識した作品といえるだろう。

[1]のDanza de Vilanova / Marcha Procesional do Corpus de Pontevedrは、ガリシア西部ポンテベドラ県に伝わるダンス曲と、キリストの聖体行列で古くから演奏されてきた定番の行進曲だ。

[2]のGreladaは、カルロス・ヌニェスの「シーエスの風」の演奏で有名になったムイニェイラ (6/8拍子) Mui!)eira da Greladaを基にした曲だが、7拍子のリズムや異なるスケールを用い、本人曰く「バルカニック」なアレンジに仕上がっている。これは自身が教鞭を取る伝統音楽院で、他のリズムやスケールを使ってアレンジするレッスンを担当した時にできたものだそうだ。この曲については、Blanca&ChuchiやAtlantic Folk Trioで活躍するブルゴス出身のギタリストChuchi、セゴビア出身の若手フィドラーPaula G!)mez、ガリシアのパーカッションの常連Roi Adrioを迎えてのPVが公開されており、全ての楽器を自身で録音したCD版の演奏よりもさらに複雑なリズム構成となっている。

[3]のFandango da Vellaはポンテベドラに古くから伝わる定番のファンダンゴ (3/4拍子)。この曲もカルロス・ヌニェスが出演した映画「J:ビヨンド・フラメンコ」の中で演奏されていることで有名。元々はミクソリディアンのチャンターを使ったガイタ (バグパイプ) で演奏されていた曲だが、ここでは現代のチャンターを使い、ガイタのメロディのオクターブ上をレキンタと呼ばれる笛で演奏する伝統的な笛のスタイルを採用している。普段プロとしては全くガイタを演奏していない彼だが、元パイプバンド出身だけあって、装飾音を多用するガリシア南部リアス・バイシャスのスタイルで見事に演奏している。

[4]のPainter Gas Reelと[5]のGlencoe March / William Davis Marchは、マイケル・グリンターのフルートによるアイリッシュリールの形式を用いたオリジナル曲と、スコットランドのマーチのセット。

[6]のJota Portuguesa / Jota del Guijarでは、ガリシア州外のホタ (3/4拍子) を2曲組み合わせたもの。1曲目は本作のマスタリングを担当しているアコーディオン/フィドル奏者のCarlos Quint!)がポルトガルで収集したホタで、2曲目はカスティーリャ地方セゴビア近郊の村に伝わるもの。恐らくドゥルサイナと呼ばれるチャルメラのようなオーボエ族の伝統楽器で演奏される曲だろう。常にチャンターに空気を送り続けるバグパイプでは演奏しにくい細かな連続音を、タンギングを用いて演奏しているのが特徴的だ。

[7]のO Refaixoは、ガリシアの伝統衣装にまつわる伝統曲。これもPVが公開され
ている。

[8]のHoróはブルガリアのトラッド。

[9]のEl Candilは、ポルトガルの伝統音楽の影響を強く受けるスペインのエストレマドゥーラ地方のダンス曲。スペイン語でcandilとはランプの意味だが、この地方では「人々の生活を明るくする踊り」として親しまれている。

[10]のXota de Montrove / Mui!)eira de Vilarmideは、ガリシアのセッションでは定番のホタとムイニェイラ。1曲目のMontroveは歌を付けたフォリアーダとして演奏されることも多いのだが、フルートで上手く歌い上げている。2曲目は本作では意外にも唯一のムイニェイラで、ガリシア東部フォンサグラダ近郊のビラルミデ村に伝わるレパートリー。この地域は1オクターブ半近くの音域を用いたガイタの演奏スタイルが特徴的で、ガイタで高音域の演奏は決して容易ではないのだが、フルートやフィドルなどの楽器では難無く演奏できることから、最近は都市部のアコースティックなセッションでよく演奏される。

[11]のPasacorredoiras do Condado / De Mostad a Millaresはパサコレドイラス (2/4拍子) のセット。1曲目は伝統音楽を演奏し始めるきっかけになったというミジャドイロ (Milladoiro) の演奏で有名。2曲目はSondeseuのTrastempoにも収録されているが、彼の定番のレパートリーだ。

[12]のCanto de Afiador / Romance de Herveiraはガリシアの伝統曲。Canto de Afiadorとは、刃物研ぎ屋の歌のこと。現代ではほとんど見られなくなったが、ガリシアでは刃物研ぎ屋が街を歩いて回る時、人々の注目を集めるためにパンフルートを吹いて回る風習が見られた。最も有名なのは、アメリカの民俗音楽収集家アラン・ローマックスが収集したもので、後にこれを聴いたマイルス・デイビスは『スケッチ・オブ・スペイン』でThe Pan Piperを録音しているのだが、実際にフルートで演奏する試みはこれまでにないものだ。リコーダーではカルロス・ヌニェスの録音があるものの、リコーダーの甘い音色とはやはり印象が大きく異なる。

このセットで使用されているフルートは、1730年頃にイングランドのJohn Schuchartが製作した象牙のトラヴェルソ。ガリシアで最も有名なガイタメーカーのヒル兄弟のコレクションだそうだが、ショセ曰く「象牙級の重鎮へのオマージュ」として、2曲目ではアントン・コラル (伝統楽器製作家、演奏家。ビーゴに楽器工房と伝統音楽学校を設立し、多くの製作家を育てただけでなく、カルロス・ヌニェスなどの多くの優れた演奏家を育てたことから、ガリシアでは最も重要な人物と見なされている) がハーディガーディのために作曲したロマンセを演奏している。

[13]のOhrwurm / Elkundaは日本でもお馴染みのポルスカのセット。

[14]のMarexadaはオリジナル曲だが、アントン・コラルの息子、カルロス・コラルが伝統的なレキンタを意識して製作したという新作のD管フルートを用いている。音色もエッジの立った一般的なアイリッシュフルートよりは、レキンタの祖先であるトラヴェルソを意識したものとなっている。

Colleen Raney——アメリカで伝統をうたう試み・その16:大島 豊

アメリカのケルト系シンガー、コリーン・レイニィの録音を聴くシリーズ。
4枚めのアルバム《Here This Is Home》の3回め。

03. Stand Up for Love {Vincent Woods & Aidan Brennan}
現代のアイルランドの詩人ウッズの詞にプロデューサーでもあるブレナンが曲をつけた歌。アルバムに収録する曲を選んでいた時に、ブレナンが提案した。これにつけたコリーンのライナーの要約。

私は祖先の女性たち以上に愛と希望と意思疎通の世界、そしてものごとを肯定的に見る世界に棲んでいる。同時に、そうではない人たちがたくさんいることもよく知っている。だから、チャンスがあれば、例えごく小さなふるまいでしかないように見える時でも、立ち上がって、自分の棲む世界のすばらしさを訴えることをためらわない。

細かくブラシでビートを刻むドラムス、シュアなベース、アルペジオをキープするギター、ドローンのようにハーモニーをつけるフィドルがバック。コリーンは抑えた歌唱でうたいだし、終始、あえて抑えているが、最後のコーラスは声を強める。ギターとドラムスはちょっとペンタングルを思わせる。地味だが佳曲。

04. The Lovely Green Banks of the Moy
Micheal Davitt (1846-1906) を謳った伝統歌。メイヨー出身。独立闘争の中で当初の態度から反転し、絶対非暴力を掲げた。当然、多くの敵を作ったが、歴史の上では後世、長く広い影響を残す。マハトマ・ガンディーの非暴力抵抗主義もその流れを汲むと言われる。

歌詞も詠人不知ではあるが、メロディは伝統歌〈The Lovely Green Banks of the Lee〉のものを借りている。プロデューサーのブレナンが John Hoban から習ったもの。

手許の録音ではチーフテンズが2000年の《Water From The Well》に収録。ケヴィン・コネフが唄っている。アレンジは、いつもながらのチーフテンズ流。

コリーンはギター、ベース、そしてハーモニウムをバックに、いつもよりさらに抑えた歌唱。ほとんど陰々滅々の域。一方、単に抑制しているのではなく、暴力から生まれるものは哀しみでしかないことを訴えてもいる。いかなる「成功」も暴力によるものである限り、最終的には悲劇的な形で失われることを、静謐な唄によって伝えようとしている。

次の〈The Granemore Hare〉は人気のある曲で録音がたくさんあるので、以下次号。

日本のトラッド系アーティストのCDレビュー 高野 陽子「モルーア 〜海の歌い手〜」:大島 豊

まず言葉が違います。歌詞の内容に盛り込まれた歴史があります。さらに、唄われてきた来歴、蓄積があります。歌そのものとは直接関わりのないことを山ほど背負っています。中には言語化されていないものもあります。こうしたことを見つけだし、消化することは、伝統の外に立っている人間にはまことにむずかしい。

母語と後から身につけた言語の間には決定的な違いがあります。バイリンガルやトリリンガルとして複数の言語を母語としているケースと、その一つを母語とし、他は第2、第3言語として後から身につけたケースでは、後者が母語以外の言語にどれほど習熟したとしても消せない違いがあるそうです。

伝統音楽は自然言語に似ています。クラシックやロック、ポップス、ジャズなどは数学のような普遍的な言語です。あるいはある目的のために作られた言語、たとえばプログラミングのための言語です。数学もいわばメタ・プログラミングのための言語と言えましょう。

伝統音楽の中でもインストゥルメンタル、とりわけダンス・チューンはこうした人工の言語に近いところがあります。あるいはそういうものとして演奏しても、ネイティヴの演奏に近づくことができます。楽器は身体の外にあって、伝統とのインターフェイスになりえます。声はそうはいきません。それを出している身体はヒト、ホモ・サピエンスという同じ種であるとしても、それをプログラミングしている言語は異なりますし、まったく同一の身体はありません。

では、異なる伝統の歌を人はまったく唄えないのか。

そんなことは無い、という実例の一つがここにあります。このアルバムで高野陽子は様々な言語で唄っています。スペイン語、英語、アイルランド語、琉球方言。それでいて、それぞれの歌のリアリティを見事に伝えています。

歌は何よりも感情を伝えようとします。歌詞を見れば物語であったり、教訓であったり、嘆きであったりします。が、歌の本質はそれらを語ることにはありません。物語や教訓や嘆きを伝えるには各々にふさわしい形態、手法があります。歌が伝えるのは、他の方法では訴えることのできないものです。言葉を使いながら、実際に伝えようとしているのは言葉にはならないもの、言葉では表現できないものです。

感情は本質的に言語になりません。我々はそれに言語的表現を与えようとします。そのために韻文、散文、罵詈雑言、顔文字など、様々な手法が編み出されてきました。言語はついに感情を伝えられないと実感した時に歌が生まれます。

もう一つの要素は歌が伝える感情はいつもどこでも一定の同じものでは無いことです。核となるものはあります。けれども、唄う人、唄われる時と場所、唄われる形によって、その現れ方は異なるものとなりえます。すなわち歌の伝える感情はかなりの幅を持つことが可能です。こうした幅は言語表現でもありますが、歌に比べるとずっと狭い。だからこそ、我々は何百年も前に詠まれた和歌にこめられた感情を感得できる。そう見れば、歌はいわば瞬間のものです。いま、ここで唄われていることに意味がある。

歌が音楽であるのはここのところです。音楽は瞬間の芸です。音は鳴るそばから消えてゆきます。録音というテクノロジーも音楽のこの基本的な性格は変えられません。音楽は持続しないところに祝福があります。音が止むことが無ければ、それは苦痛以外のなにものでもありません。

さて、我々が異なる伝統に惹かれるのは、それが異なっているからです。自分の中に無いものだからです。そして高野陽子は、異なる伝統の異なる感情を、いま、ここで唄っています。

どの歌も、元来属している伝統から一歩離れ、高野陽子の歌として唄われています。そう唄われて初めて、歌にこめられた感情の異質さが伝わってきます。たとえば〈月ぬ美しゃ〉や〈恋ぬ花〉を、沖縄の唄者たちの唄と聞き比べてみれば、そのことは一聴瞭然です。沖縄の伝統は我々にとってはアイルランドやスペインよりも近く、その感情にも共通するところが大きいですから、比べた時、相違するところと共通するところとがわかりやすい。どちらの曲も沖縄の唄者たちによる録音はいくつもあります。

まず〈恋ぬ花〉を聴いてみます。最近の録音では平安隆が《悠》2016 で唄っています。自身の三線を伴奏として、円熟の極みの唄です。自分が生き抜いてきた人生と、沖縄がくぐり抜けてきている歴史の厳しさをともに唄い込め、その向こうになお希望を見ようとする。聴いていると背筋が自然に伸びるとともに、胸の底からじわりと暖まってきます。あるいは《唄綵》2018での金城恵子の唄。何か滔々と流れるものにどこまでも運ばれてゆくようです。

こうした唄と並べて、果たして高野陽子はどう唄うのか。

驚いた、というのが正直なところです。まったく遜色が無い。これはもう沖縄の伝統歌ではありません。高野陽子の歌です。いま、ここに生きる人間の一人としての歌です。上原奈未のハープが場を設定し、パーカッションが唄を引き立てます。そこで真向から、愚直に唄ううたい手。唄に身を捨て、唄が流れでるままに唄います。流れでるまでに唄を取り込んでいます。

〈月ぬ美しゃ〉は八重山の歌で、大島保克、新良幸人をはじめ、大工哲弘や平安隆、ネーネーズも唄っています。三線一本のオーセンティックな歌唱もあれば、平安隆には故ボブ・ブロッツマンとの共演、大島保克にはピアノのジェフリー・キーザーとの共演もあります。ネーネーズはコーラスと言うよりもユニゾン。大工哲弘はギターや石としか聞えないパーカッションをバックに唄ってもいます。どれも味わい深く、何度聴いても色褪せませんが、筆者としては新良幸人が伝統の形にもどって唄っている《月虹》2013 での歌唱が最も深い共感に誘われます。

高野は自身の弾く三線とライアーをバックにしています。コブシはあえて最小限に抑え、声を伸ばします。己れの声の質を活かす唄い方を模索した結果でしょう。三線はシンボリックな使い方。そしてライアーが面白い。ハープとギターを合わせたような響きです。コーラスの最後の繰返しで、それまで上げきらずに唄ってきた「おーほほぉーい」を本来の形に上げきるところ。うたい手の謙虚さが光ります。

スペインはアストゥリアス産の[01]、アイルランド産の[02][03][05][06]、英語圏のビッグ・バラッド〈The Cruel Mother〉の1ヴァージョンである[07]、クラシカルの[09]、いずれも同様に、いま、ここの唄として唄われます。

その点で異色なのは[08]です。伝統歌ではなく、いま、ここのために作られた『千と千尋の神隠し』のテーマです。こうしていま、ここで唄われている伝統歌と並べられると、この歌もまた元は伝統歌であるように聞えてきます。そう聞えてみれば、オリジナル作品といえども、まったくのゼロから作られるわけではないと思い当ります。作曲家は各々の伝統の中で育っています。アイルランドや沖縄のような形ではなくとも、伝統は作用しているはずです。

高野陽子がこうした伝統歌を自分の歌として唄うには、本人の精進とともに、これを支えるミュージシャンたちの貢献も少なくありません。こうした音楽家たちの協力を集められるというところでも、高野の器の大きさが測られます。

例を挙げれば[02]のギター。この歌にはアルタンの決定的なヴァージョンがありますが、このギターはそこでの Mark Kelly の演奏を凌ぎます。高野の歌唱がマレード・ニ・ウィニーのそれに拮抗しているのには、ハーモニクスを効果的に使うこのギターのサポートが大きい。

続く[03]では高野自身も巧みなバゥロンを披露します。この歌にもクラナドやアルタン、さらには P!)draig!)n N!) Uallach!)in の各々に決定的な歌唱がありますが、ここでのヴァージョンはそうした先達の各々の良いとこどりをした上で、本人の原初的なバゥロンが独自の筋を通します。

[06]でも、プリミティヴとも聞える打楽器(クレジットではプログラミング)が使われていて、典型的な「耳タコ」の曲であるこの歌に新鮮な筋を通しています。この歌には無数といっていいヴァージョンがあり、出来もそれこそピンキリですが、高野のヴァージョンはこの打楽器とウードの響きに支えられて、ベストの一つに数えられます。

どういうわけか、英語の歌では、高野はうたい手としての自意識が消しきれずに残る傾向があります。歌詞の意味が「わかって」しまうからでしょうか。この歌はまたうたい手が唄うことに没入していないと、それが如実に現れてしまうという性格を備えています。気をつけていても、あられもなくセンチメンタルになっていってしまいます。アルバムの中で他の歌は良いのに、これだけが唄いきれていない例が少なくありません。高野自身の歌唱は、バックの演奏に救いあげられ、かすかに残る自意識が愛嬌とも言えるものに転換しています。

異なる伝統の歌を唄う人は、そう多くはありませんが現れてきています。元の伝統のうたい手とは違った、我々のいま、ここで唄いなおしてくれている人たちです。アイルランドや北欧の伝統では奈加靖子、河原のりこ、ほりおみわに続いて、高野陽子の録音が出たことを、心の底から言祝ぐものです。

もっとも女性ばかりなのは不思議ではあり、男声の唄も聴きたいものではあります。

足踏み?その3:field 洲崎一彦

私はこのクランコラに毎月こうやって駄文を書き連ねているわけですが、今年ももう12月になってこの1年を振り返ってみると、結局、やっぱり、わりとややこしい事ばかり書いてきた事に気がつきます。この新しいクランコラが始まった時は、旧クランコラの反省があって、あまりややこしい発言はしないでおこうと心に決めたのですが、結局、同じような事になってしまうのですね。まあ、その辺はもうあまり意識せず自然体に行くしかないのかもしれません。

というわけで、今回はまた「足踏み」の話題です。今年はこの「足踏み」話題を2回も書いている。そしてこれが3回目の「足踏み」話題になります。

そもそも、旧クランコラの時代から、私はこの「足踏み」がダメだダメだとわめき続けて来たのでした。何故ダメかはこれまで何度も書いてきたので今は省略しますが、最近、この、私の「足踏みダメ!」論を考え直さなくてはならないかもしれない事態に遭遇してしまったのです。

それは、ずばり、元々足踏みの出来ない人が出現した事でした。そして、いろいろと調べていると、今ではセッションで普通に足踏みをしている人も元々は楽器を弾きながら足踏みができなかったと証言する人がけっこうな有割り合いで存在していたことが判りました。

私はリズムを感じる時に足踏みをするのはごく自然な事だと思っていたので、少なからず驚きました。こうなると、私が長年わめき続けてきた「足踏みダメ!」も考え直す必要があります。

つまり、私の「足踏みダメ!」は音楽に合わせて足でリズムを取るのが当たり前になっている人に対してのものであって、元々足踏みができない人に対して「足踏みダメ!」と言ってしまうと、そうか、ムリせんでええのか!ということになってしまいますね。  これはまずい!

実をいうと、楽器を弾きながら足踏みが出来ないという状態は足踏みに頼る演奏よりもさらに困った結果を招きかねないです。音楽は時間とともに音が出ては消え出ては消えという現象なので、それがメロディを形成しますよね。ここにメロディを形成するリズムが生まれるのですが、このリズムの背後には拍という一定間隔に刻まれた律動があらねばならず、今これをメロディのリズムと区別するためにビートと名付けると、このビートとリズムの間の関係がいろいろと生まれて来ます。例えば、この両者をピッタリとシンクロさせるのか、あるいは、何らかの意図を持ってずらせたり合わせたりするのかとうような調節が演奏の醍醐味であるという考え方ができるわけです。

足踏みをするという動作はこのビートを感じているわけですから、楽器を演奏する時にこれができないという事は、身体全てが今奏でているメロディーのリズムだけに支配されてしまっているということになります。こうなると、上記の演奏の醍醐味という次元は永遠に訪れないということになります。

例えば、たった1人で楽器を弾くのならまあこれでもそれなりに楽しくもあるでしょう。しかし、例え2人であっても合奏ということになると何か共通の時間のスケール(基準)がないとバラバラになってしまって合奏の意味が無くなってしまう。この時間の共通のスケールがビートであって、もし、指揮者が存在するとしてもこのビートの感覚がメロディのリズムに対して独立に感じられるものでない限り指揮者の振る棒の意味も理解できないということになりますね(指揮者も広義に合奏者の1人とすると)。

また、打楽器というものの微妙さにも少し触れたいと思います。皆さんなんとなく打楽器というものはリズムを出す楽器だと信じ込んでいるのですが、打音それ自体が音ですから(たいていは、倍音を多く含むので音程があまり感じられない)、これにも音程があるのは事実です。ですから、打楽器とてメロディ楽器の側面を他の楽器同様に持っています。

特にアイリッシュのバウロンの場合は、アイリッシュ音楽から楽器を始めた人でバウロンの人が陥りやすい危険な状態があります。バウロンというのは考えてみれば非常に特殊な打楽器です。バウロンのバチは右手指でつまんで手首を回転させるスナップで片面太鼓の皮を叩くという動作で音を出すわけですが、これは手首と指という身体の末端の運動のみで完結できる動作ですね。最低限右手首だけ自由に動かせれば音が出せてしまいます。つまり右手首だけでリズムを感じることができればいいわけです。その上、多くのアイリッシュセッションではこのバウロンは大きな音で打つことがタブーになっています。つまり小さな音で打つ方が喜ばれる。こんな打楽器はあまり他には見かけません。手首より先しか使わずに小さな音で皮を打つ打楽器!

例えば、黒人音楽のビートを感じるためにはまずは体幹でビートを感じなければならない、とは一昔前に流行った黒人音楽ビート論でしたが、これが正しい正しくないは置いておくにしても、身体全体で感じるからこそ踊り出したくもなるわけで、世にダンス音楽とされるものはこの身体を揺さぶるインパクトが必要であることは確かでしょう。

この、踊り出したくなるような身体全体で感じられる躍動感というものは、メロディを追っているだけでは決して生まれて来ないものだと思います。そこに、ビートという拍動が同時に感じられて初めて身体が揺さぶられるのではないでしょうか。この拍動を感じている様が象徴的には足踏みに相当すると思うのです。

そういう意味では、多くのセッションで演奏される音楽はアイリッシュダンス音楽なわけですから、その躍動感は身体全体で感じられるものであるはずです。そこで使われる、一般的にはリズム楽器と思われている打楽器のバウロンが、いわゆる小手先で、しかも小さな音で叩かなければならないという違和感。バウロンというのはある意味もうすでにリズムを司る打楽器とは言えないのかもしれない。

今や、アイリッシュ音楽のバウロンで打楽器を始めた人がだんだん視野を広げていって他のジャンルにも目覚めて、いろいろな打楽器を駆使していわゆるパーカッショニストになって行くというコースも多いと思いますが、多くのこのコースの人達の演奏がリズム打楽器ではなくてメロディ打楽器になってしまう例を、私はけっこう見てきました。判りやすく言えば、彼らの出す音はメロディへのからみは巧みなのですが、まったく人の身体を揺さぶるようなインパクトを持っていないというサウンドなのです。ややもすると、打楽器を叩く手が疲れればそれで終わりというような演奏をする人が出てきてしまいます。

こういう事ばかり書いていると、また、とりとめなくなって来ますので、話題を戻します。

結局、私の足踏み論は、足踏みでビートを踏みながら楽器演奏ができない人は、まず、これが出きるようにしよう。しかる後に、この足踏みがクセのようになってしまったら、今度は、足踏みを止めましょう! と、まあ、こういう判りにくい話になってしまいますね。

こういう、「感じ」を言葉で言い表すのは本当に難しいし、また、多くの誤解を生むことになるんやろうな。。。(す)

オーケストラアレンジで聴くケルト・北欧の伝統音楽
第10回 アイルランド狂詩曲(ハーバート):吉山 雄貴

【アイルランド狂詩曲(ハーバート)】オーケストラアレンジで聴くケルト・北欧の伝統音楽

編集後記

今年も1年間、クランコラをお読みくださいまして、ありがとうございました。ライター陣のお陰様で読み応えのある記事を配信し続けることができました。

クラン・コラ:アイルランド音楽の森(月2回刊)

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クラン・コラ:アイルランド音楽の森(月2回刊)
発行元:ケルトの笛屋さん
Editor : 竹澤友理

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