オブライエン一族の音楽的遺産


出典 https://blog.mcneelamusic.com/

アイルランドの楽器メーカーMcNeelaが公開しているブログの中から、「アイルランド音楽界で最も象徴的な音楽一家のひとつであるオブライエン一家」についての記事を許可を得て翻訳しました。

原文:An Irish Trad Dynasty – One of Ireland’s Greatest Musical Families

オブライエン一族の音楽的遺産

アイルランド音楽は世代を通じて受け継がれてきた伝統であり、友人も見知らぬ人々も分け隔てなく、共に演奏されています。彼らの愛情は、この豊かな音楽遺産を守ろうという一つの目的のために結びついています。しかし、かつては音楽家一族が伝統音楽を伝達する主要な役割を果たしており、その絶えることのない音楽的な創造によって音楽を受け継いでいたのです。

優れたアイルランドの伝統音楽家であるためには、これらの影響力のある音楽家一族の出身でなければならないというのは、長い間にわたりよくある誤解でした。これは今日当てはまりませんが、生まれたときから音楽の伝統に浸ることの利点は否定できず、また実際にこれらの偉大な音楽の系譜から生まれた象徴的なミュージシャンの数も否定はできません。一つの家族が有名なミュージシャンをたくさん排出するとき、彼らの血統に何かあるかもしれないと考えるのは自然でしょう。北ダブリンのオブライエンファミリーO’Brien Familyは、そのような家族なのです。

今日のアイルランド音楽界で最も象徴的な音楽一家のひとつであるオブライエン一家は、1人ではなく3人がリバーダンスのツアーに参加しています。彼らは数え切れないほどの賞を受賞しており、アイルランド音楽界の大御所であることに加え、最も伝説的なアイルランド人ミュージシャンたちとも共演しています。そんなオブライエン家の音楽的遺産についてもっと知ってみたくなったのではないでしょうか。では、始めましょう。

ディニー・オブライエンDinny O’Brien

真の人格者であり、真の紳士であったディニー(デニス)・オブライエンDinny (Denis) O’Brien は、オブライエン家の代表として愛され、音楽への愛grá を子供たちと分かち合いました。

1935年、ディニーは9人兄弟の長男として生まれました。彼はダブリン北部の田舎で育ち、幼い頃から耳で聞いて音楽を学びました。最初は、当時よく使われていた櫛combを演奏しました。櫛の歯の裏に紙を挟み、鼻歌を歌いながら演奏するもので、カズーのような音色です。9歳になると、ディニーはアイリッシュダンスの練習をする地元の女の子たちのためにハーモニカを演奏しました。

その後、フィドル、ティン・ホイッスル、メロディオンと進み、最終的にボタン・アコーディオンにたどり着きました。彼の叔父はメロディオン奏者だったので、彼が最終的にこの楽器に引き寄せられるのは理にかなっています。

ディニーの初期の音楽は、ダブリン北部のキリークKilleek出身のフィドル奏者、パディ・マーキーPaddy Markeyから多く学びました。もう一人、若き日のディニーに素晴らしい音楽を与えてくれたのが、旅芸人のジム・ドノバンJim Donovanです。ジムは放浪の吟遊詩人で、鍋やフライパンを直しに家にやってきて、時には夕食を一緒に食べたり、ディニーの祖母から数ペンスをもらったりすることもありました。

ジムは旅先から曲を覚えてはメロディオンやティン・ホイッスルで演奏したので、その訪問はいつも歓迎されました。もちろん、音楽はすべて耳で聞いたものなので、ディニーは運が良ければ全曲を覚えることができました。また、ジムの来訪時に曲の最初の部分だけ聞き取り、残りはジムの帰りを固唾を飲んで待つということもありました。

ディニーはもともとC#/Dボタンアコーディオンをプレス&ドローのスタイルで演奏していました。しかし数年後、ダブリン市内のラッセル・ストリートに住んでいた時、偉大なMソニー・ブローガンと知り合い、B/Cの演奏スタイルに移行しました。

ディニーの音楽的旅路

ディニーの家族は、ダブリン市内に近いカブラCabraに引っ越しました。15歳の頃から、彼は水曜日の夜にチャーチ・ストリートで Church Street行われるアイリッシュ・ミュージックのセッションに参加するようになりました。チャーチ・ストリートのセッションには、ソニー・ブローガンSonny Broganやビル・ハート Bill Harteなど、当時最高のミュージシャンたちが頻繁に訪れ、ディニーの演奏に大きな影響を与えました。

他の常連は、スライゴのジョン・イーガンJohn Eganとウィリー・デイビスWillie Davis(それぞれフルートとフィドル)、リートリムの強力なフィドル奏者トム・マリガンTom Mulligan、クレアのフィドル奏者ジョー・ライアンJoe Ryan とジョン・ケリーJohn Kelly 、スリゴ/ゴールウェイのフィドル奏者ユージン・マク・グリンEugene Mc Glynn などでした。チャーチ・ストリートのセッションは、ディニーに、最高のミュージシャンに囲まれながら、高いレベルのミュージシャンの音楽を聴き、演奏する機会を与えてくれました。

ディニーは、バリーズ・ホテルBarry’s Hotelで定期的に行われていた別のアイリッシュ・ミュージック・セッションにも頻繁に足を運びました。ここで彼は、後に妻となるマーガレットMargaretに出会いました。1959年に結婚した二人は、ベルヴェデーレ・プレイスに移り住み、その暮らしは音楽と冗談が絶えませんでした。そこでは、週のほとんどの夜にセッションや歌の集まりがありました。

1960年には長男Donncha(Denis)が生まれ、家族が増え始めました。やがてオブライエン家はダブリン北部のアーテインArtane に移り住み、そこでデニス、マイケル、トーマス、アンドリュー、ジョンの5人の子供たちを育てることになります。彼らは、自分たちが創り出すことになる音楽遺産を知る由もありませんでした。

セッション・ハウス

オブライエンの子供たちは、生まれた初日からアイルランドの伝統音楽に浸って育ちました。音楽を共にし、教えたのはディニーでしたが、子供たちが音楽を享受できる環境を作ったのはマーガレットが世話を焼いたおかげでした。

彼らの家は、ミュージシャンや他の人々が頻繁に出入りする「オープンハウス」でした。アイルランド音楽のセッションが定期的に行われ、家の中は曲や歌、物語で満たされていました。マーガレットは、何時も食卓に食事があるように気を配っていました。このような楽しいひとときとおもてなしは、他の追随を許さないものでした。

常連客の中には、リムリックのテンプルグランタイン出身のアコーディオン奏者、シェイマス・カッセン Séamus Cussenや、当時ダブリンのクロンターフに住んでいたミック・バーンMick Byrneなど、個性的な面々もいました。

シェイマスは、ケリー州境のすぐ北に位置する彼の土地で生まれた曲や知識を豊富に持ち、多くの曲を文書に書き写していました。彼は、アーテインのキッチンで夜な夜な曲を演奏していました。ミックは話術に長けていて、仲間達は皆、彼の話に熱心に耳を傾けていました。もちろん時には真実に混ざって少々行きすぎな話もありましたが、それがミックの話をより一層魅力的なものにしました。

ダブリンがアイルランド音楽の豊かな伝統のある地域ではないと思う方もいるかもしれませんが、ブライエン一家が育った地域の質の高いミュージシャンの豊富さには驚かされるものがありました。ご想像のとおり、オブライエンの家では頻繁にものすごいセッションが行われていました。

一家はノーススターホテルNorth Star Hotelでのセッションも頻繁に行い、そこにはマーク・ケリーMark Kelly(バンド「アルタン」) 、コルベットThe Corbetts、シェーマス・ミーハンSéamus Meehan、フィンバー・ドワイヤーFinbarr Dwyer、ヴィンシー・クレハンVincy Crehan(偉大なフィドル奏者ジュニア・クレハンの弟)、ダン・オダウドDan O’Dowd、チャーリー・レノンCharlie Lennon,、パディ・ヒルPaddy Hill(有名なコンサーティーナ奏者ノエル・ヒルの叔父)、ミホール・マック・アオガンMícheál Mac Aogáinやアントン・マク・ガバンAntóin Mac Gabhannなど、多くの音楽家と一緒だったそうです。

このような盛んなアイルランド音楽シーンから、オブライエン一族が先駆者として登場し、その後、世界で最も偉大なアイルランド伝統音楽家の一員となったことは、驚くには値しないことでしょう。

ジョン・オブライエンJohn O’Brien

McNeela Music Blogの常連読者、あるいは私のニュースレターを購読されている方は、偉大なるジョン・オブライエンのことをすでにご存じでしょう。イリアンパイパー、ホイッスル奏者、そして卓越したティンホイッスルメーカーです。

ジョンは幼い頃からティン・ホイッスルを吹き始め、ダブリン音楽院Dublin College of Musicでクラシック・ピアノを学びました。しかし、13歳の時、兄のミックと同じ道を歩むことを決意し、ミック自身から教わりながらイリアンパイプスの演奏を学び始めました。

兄たちと同様、ジョンもまた、オブライエン家の通過儀礼であるオールアイルランドの称号を獲得しています。今日、彼は有名なイリアン・パイパーであり、現代における最も偉大なティン・ホイッスル奏者の一人として認められています。

ジョンは10代の頃からツアーに参加し、ニューヨークのカーネギーホールやラジオシティ・ミュージックホール、ロンドンのアポロシアターなどで演奏してきました。また、リバーダンスのメンバーとしても長年活躍し、1997年末にラガン・カンパニーに加わり、2001年にはブロードウェイのイリアンパイパーになりました。彼のツアーのハイライトは、ケルティック・ウーマンとの長年の共演で、数々のDVDに出演しています。

また、代表的なボックス奏者であるパウディ・オコナーPaudie O’ Connorとのコラボレーションなど、数々のレコーディングも行っています。彼らのアルバム“Wind and Reeds”は、シュリーブ・ルクラSliabh Luachra地方の音楽を革新的にアレンジしたもので、イリアンパイプスとボタンアコーディオンの珍しい組み合わせをフィーチャーし、絶賛されました。

実の父親であるディニーと一緒に演奏した経験を持つジョンが、このデュエットをシームレスに融合させることに成功したのは当然でしょう。アイリッシュ・ミュージックのアルバムとして、ぜひ手元に置いておきたい一枚です。

熟練の職人

音楽家として数々の賞を受賞しているジョンですが、セタンタ・ホイッスルの熟練の笛職人としても知られています。

ジョンはMcNeelaの工房で美しい高級ホイッスルをデザインしており、私はアイルランド音楽の生ける伝説と職場を共有できることに興奮しています。正直なところ、仕事ができること自体が奇跡のようなものです。時々、即興のセッションが行われることもあります。時には、その様子をカメラに収める幸運にも恵まれることもあります。

これは、弟のMick(フルート)、John(ギター)、そして素晴らしいMícheál Ó Raghallaigh(コンサーティーナ)と一緒に数曲楽しんでいるところです。

セタンタ・ホイッスルは本当に特別なもので、プロのミュージシャンのニーズに応えるために愛情を込めて作られた作品です。非常に演奏しやすく、すべてのオクターブで美しく温かみのあるクリアな音色、優れた反応性、極めて正確なチューニングを持つこれらのホイッスルは、プレイヤーとしての能力を反映するだけでなく、演奏を向上させるために設計されています。

ジョンが作った楽器を吹けば、奏者は彼と同じ音楽の高みに引き上げられるでしょう。私はこの楽器を強くお勧めします。セタンタ・ソプラノ・ホイッスルセタンタ・ロー・ホイッスルの全商品は、私のオンラインショップでご覧いただけます。

ドンハ・オブライエンDonncha O’Brien

1960年、O’Brien家の長男として生まれたDonncha(通称Denis)は、筋ジストロフィーを患い、1990年に30歳の若さでこの世を去りました。しかし彼の人生はその病気に代表されるものではなく、彼は短い時間の中で、アイルランドの伝統音楽の世界に永続的な影響を及ぼしたのです。

ティン・ホイッスルの名手であるドンハは、1979年にデビュー・アルバム“Ceol ar an bhFeadóg Stáin”をリリースしましたが、それはメアリー・バーギンの “Feadóga Stáin”のリリースと同じ年でした。二人の奏者の笛の演奏スタイルは異なりますが、これらの録音を聴くと、それぞれが独自の技術を持つ達人であったことがわかります。

ドンハのアルバムは発売と同時に批評家から絶賛され、現在でも変わらず高い評価を受けています。彼の繊細な演奏スタイルと巧みな装飾の使い方で、彼のアルバムはアイリッシュ・ティン・ホイッスル演奏の最高峰となりました。

明るくさわやかな音色のドンハの流れるような演奏と高度なリズムは、曲に並外れたエネルギーを与えています。彼の音楽性は各曲に現れており、彼の演奏は柔らかく、繊細な甘さを帯びています。

オブライエン家のような音楽的才能に恵まれた家族の一員であれば、当然、兄弟をアルバム録音に参加させることは理にかなっています。Ceol ar an bhFeadóg Stáinには、イリアンパイプスに弟のミック、フィドルにトムとアンドリューを加えています。この才能豊かなメンバーのギターには、Altanで有名なマーク・ケリーMark Kellyが参加しています。近年、このアルバムは、RTÉのRaidió na Gaeltachtaのアーカイブから採取した3曲のボーナストラックを加えてCD形式で再リリースされました。

この録音は、精神と人生への愛を持った若者の音楽である。どの曲も信念と誠意を持って演奏されている。人生の美しさと残酷さを認め、理解する音楽家だけが引き出せる特徴だ。
― パディ・グラッキン

この新譜には、チャーリー・レノンとジョニー・コノリーによるトリビュートも収録されています。チャーリー・レノンがドンハに敬意を表して作曲した、人気の高いアイリッシュジグ「The Flying Wheelchair」です。

ゴールデン・イーグル

ドンハは、高い演奏技術を持つだけでなく、地元のアイルランド音楽クラブであるClontarf CCÉのメンバーとしても活躍し、高い評価を得ている教師でもありました。絶賛されたアルバムに加え、“The Golden Eagle”と題した曲集をリリースしました。この包括的な曲集は、アイルランドの伝統音楽を学ぶ人にとって、完璧な伴侶となるものです。もし、あなたがこの本を手に入れることができたなら、しっかりと離さないでおいてほしいです。数量が限られているので、手に入れたい方は急いでください。

ドンハは父親のように一角の人物で、人生に対する真の欲望を持っていました。音楽以外の時間には、友人の飛行機で出かけるなど、悪ふざけをしている姿がよく見られました。彼は、労働省で働く若者たちと一緒に、給料の中から数ポンドを出し合って、飛行機に乗って遠出をしていました。モンテカルロやチェルトナムなど、冒険の旅に出かけました。彼の人生に対する情熱は、その音楽にも表れています。

家族だけでなく、彼を知るすべての人に愛されているドンハは、アイルランドの伝統音楽の世界に永続的な遺産を残しました。彼は現在でも、当時最も影響力のあったアイリッシュ・ティン・ホイッスル奏者の一人として認識されており、彼の演奏は何世代ものホイッスル奏者にインスピレーションを与え続けています。彼の記憶は、彼の音楽を通して生き続けています。

ミック・オブライエンMick O’Brien

次は、今日の伝統的なアイルランド音楽で最もよく知られている人物の一人、ミック・オブライエンを紹介します。

有名なイリアンパイプス奏者であるミックは、まずダブリン市内のトーマスストリートパイパーズクラブThomas Street Pipers Club でイリアンパイプスの教育を受けました。その後、イリアンパイプスとその音楽を広めるために設立されたNa Píobairí Uilleann (The Society of Irish Pipers)に加入しました。

これらのクラブでの活動を通して、ミックは何百もの曲を吸収し、テクニックを磨き、アイルランド音楽界で最も著名なウイリアン・パイプ奏者の一人として頭角を現しました。

1996年、彼はソロ・デビュー・アルバム“May Morning Dew”をリリースし、高い評価を受けました。当然のことながら、このアルバムはミックのパイパーとしての卓越した能力を見事に表現しています。

コンサート・パイプス(現代のピッチのパイプス)、フラット・パイプス(やや古い時代の、ピッチの低めなパイプス)、ホイッスル、フルートはミック・オブライエンの素晴らしい楽器の多様性を示すだけでなく、またもや素晴らしいパイピングアルバムを発表するというチャレンジに見事に応えている。このパイパーに台座を授与しよう。
― フィンタン・ヴァレリー、アイリッシュ・ミュージック・マガジン

今日、ミックは演奏家として大きな需要があり、有名人になっている。

ダブリナーズ The Dubliners、フランキー・ギャビンFrankie Gavin 、RTÉコンサート・オーケストラなど、アイルランド音楽界の大物たちとのコラボレーションも多いです。また、デイヴ・フリンDave Flynnなど著名なアイルランド人作曲家とも共演しており、フリンはミックのために世界初のウイリアンパイプのためのエチュード集“Five Études for Uilleann Pipes”を作曲しています。また、リバーダンスという小さなショーに出演していたことでも知られるかもしれません。

2003年、ミックは著名なフィドラー、クイビーン・オ・ライリーCaoimhín Ó Raghallaighと組んでCD“Kitty Lie Over”を発表しました。このアルバムはアイリッシュ・エコー誌のトラディショナル・アルバム・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、高い評価を得たため、2011年には待望の続編“Deadly Buzz”をリリースしました。

このタイトルは、2人のルーツであるダブリンの生い立ちを反映したものです。Deadly Buzzはダブリンのスラングで、楽しい時間や気分の良さを意味します。

この才能あふれるフィドルとイリアンパイプスのデュオは、最高のアイルランド伝統音楽の一例であり、あなたの心を高揚させ、気分を高揚させることに成功し、実際にあなたをデッドリー・バズの気分にさせるのです。

グッドマン文書 The Goodman Manuscripts

ミックが近年最も成功したコラボレーションのひとつが、実の娘の一人であるイーファ・ニ・ブリアンAoife Ní Bhriain.との共演です。

Tunes from the Goodman Manuscriptsは、ミック・オブライエン、娘のイーファ・ニ・ブリアン、エマー・メイヨックEmer Mayockの名人トリオによるデビュー・アルバムです。このアルバムは、その名の通り、19世紀のジェームズ・グッドマンのコレクションから曲を集めたもので、このコレクションは、大飢饉以前のアイルランド伝統音楽の保存に非常に重要な役割を果たしました。

メイヨーのパイパーとフルート奏者であるエマー・メイヨックは、ダイナミックな父娘デュオと境界なく融合し、彼らの音楽は曲から曲へと自然に流れていきます。

このトリオは、グッドマン手稿の中から最大級のセレクションを、思慮深い解釈とセンスの良いアレンジによって実現することに成功しました。この名手たちに期待することは、決して少なくないでしょう。

2014年、このトリオはTG4 Gradam Ceoil Awardを受賞し、その音楽的コラボレーションを讃えられています。

イーファ・ニ・ブリアン Aoife Ní Bhrian

音楽に囲まれて育ったミックと、彼の妻で同じく音楽家のフィデルマ・オブライエンFidelma O’Brienが、自分たちの子どもたちにも同じような環境を整えたことは驚くには値しません。

長女のアオイフェ・ニ・ブライアンは、幼い頃からバイオリンを弾き始め、マリア・ケレメンMaria Kelemen先生のもとでクラシックバイオリンも学びました。(Ní BhriainはO’Brien家のアイルランド名です)。

天才的なバイオリンとコンサーティーナ奏者であるイーファは、Fleadh Cheoil、Fiddler of Dooney、Bonn Óir Sheáin Uí Riadaで7つのアイルランド国内のタイトルを獲得するなど、クラシックとアイルランド伝統音楽の両方で数々の一流のコンクールで優勝しています。さらに、TG4 Gradam Ceoil賞を父親と一緒に受賞しており、イーファは最も輝かしい若手音楽家の一人であることがわかるでしょう。

父親と同様(叔父の一人も!)、イーファもまたリバーダンスの板を踏み、2009年にフィドル奏者としてデビューを果たしました。彼女は現在、ライプツィヒのフェリックス・メンデルスゾーン音楽演劇大学で音楽演奏を学び、クラシック・バイオリニストとしての技を磨いています。アイルランド音楽への情熱は明らかであり、家族と共に、また名人芸を持つソロ演奏家として、この音楽の伝統を共有し続けています。

キアラ・ニ・ブリアンCiara Ní Bhriain

才能ある娘一人では物足りないようで、ミックの次女キアラもフィドル(他の楽器も含む)の達人です。

姉と同様、キアラも3歳でフィドル、7歳でハープを習い始めました。その後、Royal Irish Academy of Musicでフィドル、ビオラ、ハープを学びました。

アイリッシュ・メモリー・オーケストラIrish Memory Orchestraの創設メンバー(わずか15歳!)でもあるキアラは、演奏家として非常に需要の高いオブライエン・ファミリーの一人です。彼女は広くツアーを行っており、最近ではグラミー賞を受賞したプロデューサー、ジュディス・シャーマンJudith Shermanと作曲家デイヴ・フリンの作品“Stories from the Old World”をレコーディングしました。

オールアイルランドでの数々のタイトルをはじめ、その他の名誉あるタイトルを持つキアラは、今日、アイルランド伝統音楽界の輝かしい若手スターの一人として認識されています。

トムとアンドリュー・オブライエン Tom & Andrew O’Brien

トムとアンドリューの兄弟は、兄弟に比べるとやや知名度は低いものの、父ディニーの足跡をたどり、生まれた瞬間から音楽を吸収してきました。二人ともフィドル奏者で、オールアイルランドフラーキョールのタイトルをいくつも持っています(ただし、オブライエン一族らしく、バウロンを含む他の楽器にも手を出しています)。

現在、アンドリュー・オブライエンはアメリカのセントルイスに拠点を置き、オブライエン家の伝統を自らの音楽家一家とともに継承しています。

同じ音楽家として育ったにもかかわらず、アンドリューのフィドルの演奏スタイルは兄とは異なり、マーティン・ヘイズMartin Hayesの音楽、つまりメローでリリカルな演奏スタイルに大きな影響を受けています。

対照的に、トムの演奏スタイルは、偉大なトミー・ピープルズの足跡をたどるもので、ドネガル・フィドルの伝統に影響された、より激しい音楽スタイルとなっています。

トム・オブライエンは、ダブリンの中心街にある象徴的なパブ「フェリーマン」Ferryman Pubのオーナーとして最もよく知られています。90年代、フェリーマンはダブリン市内で質の高いトラッド音楽を提供する数少ないパブの一つで、ダブリンの一流ミュージシャンが足繁く通う最高品質のセッションで評判となりました。トムがバーの後ろでビールを注ぐ様子や、スツールに座ってバイオリンを弾く姿はよく見かけられました。

アンドリューとトムは、弟のドンハのソロアルバムに参加しているほか、オブライエン・ファミリーのバンド、アール・レイセディ(Ár Leithéidí)の一員としても知られています。

オブライエンファミリーバンド Ár Leithéidí

これだけの才能あるミュージシャンが一家にいたら、ファミリーバンドでも作ろうかな、と思うのはわかります。オブライエンはまさにそれを実行しました。

1974年、オブライエン一家はÁr Leithéidí(アイルランド語で「私たちのような」という意味)という名前で、最初で唯一のファミリーアルバム“The Ulster Outcry”をレコーディングしました。

ボタンアコーディオンのDinny、ホイッスルのDonncha(13歳)、イリアンパイプスのMick(12歳)、フィドルのThomas(10歳)、バウロンのAndrew(7歳)で、このアルバムはCo. LouthのMark McLaughlinのバーでライブ録音されました。(かわいそうに、ジョンはまだ幼すぎて参加できなかった)。

録音時の子供たちの年齢を考えると、『アルスター・アウトクライ』は時の試練に驚くほどよく耐えています。7歳の私はまだ靴ひもを結ぶのに必死で、曲の録音どころではなかったでしょうから、実にうらやましい限りです。フルートのDan Healy、フィドルのMaire GairbhíとFergie Mac Amhlaoibhをゲストに迎えたこのアルバムは、オブライエン印のおなじみのセッションチューンを中心に構成されています。

グループ名は、18世紀初頭のブラスケット諸島の生活について書かれたTomás Ó CriomhtháinのAn t-Oiléanachという古典アイルランド文学の一節からインスピレーションを得たものです。

Ó Criomhtháinは生涯(1856-1937)、ケリー州沖の大ブルスケット島で暮らしました。彼の回想録は、このユニークな島のコミュニティーについての物語であり、外の世界からはほとんど無視されていた彼らのライフスタイルは何世紀にもわたってほとんど変わっていません。しかし、彼はこのコミュニティが長続きしないことを認識しており、“Ní bheidh ár leithéidí arís ann”「私たちのような者はもう二度と現れないだろう」という象徴的な台詞でこの現実を嘆いています。

アイルランド音楽界を代表する一家にふさわしい言葉です。しかし、正確なものでないことを祈ります。O’Brienファミリーの音楽的遺産が長く続きますように。