ライター:大島豊
前回ぼくが借りた萩原朔太郎の同じ詩を掲げて、洲之内徹が
「昔はよかった。朔太郎の頃にはフランスは遠かったのだ。いまは、その気になれば一日でパリへ行ってしまう。まりちゃんがパリで『気まぐれ美術館』を読んで、早く歯医者へ行きなさいと手紙で言ってくる。遠いところなんかなくなってしまった」
と書いていました。1980年代初めの頃です。まりちゃんとは洲之内がやっていた現代画廊出発のときに手伝ってくれた女性でこの時はパリの有名な料理人オリヴェ氏の夫人。「気まぐれ美術館」は洲之内が『芸術新潮』に10年以上連載した美術エッセイで、新潮社から5冊の単行本になっています。上記の一文はその3冊目『セザンヌの塗り残し』収録最後の一篇「現代エキゾティズム考——旅へ」末尾近くにあります。
言われてみれば、確かに遙かなアイルランドからもその頃にはレコードが入ってきていたわけです。当時、アイリッシュ・ミュージックのレコードのリリースは年に数十タイトルぐらいで、ほぼその全てが輸入されていた、と後にわかりました。レコードは空輸されていたので、出るのとほぼ同時にぼくらは聴くことができていました。森鴎外がヨーロッパの動きを3ヶ月遅れで「椋鳥通信」に書いていたのに比べれば、世界が格段に狭くなっていたことは確かではあります。
そもそもアイルランドにそういう音楽がある、伝統音楽として現在も生きているとわかったわけです。そしてその音楽は伝統音楽としてぴんぴんしているだけでなく、アメリカのポピュラー音楽、ひいては世界中のポピュラー音楽の成立にも大きな役割を果たしていることも、だんだんわかってきたわけですが、それにはもう少し時間がかかります。
そうして聴いたレコードの中で、音楽産地としてのアイルランドに眼を向けさせてくれた3枚のうちの2枚目が Mary Black のソロ・ファースト・アルバム《Mary Black》1983 でした。
メアリ・ブラックはこんにち、アイリッシュ・ミュージックに親しんでいる人たちにとってはあまり知られてはいないかもしれません。伝統音楽よりはポピュラー・ミュージックの領域で活動してきているからです。ですが、わが国でアイリッシュ・ミュージックが愛好されるようになる土台を据えた点では無視できない存在です。
まず、1990年から連年来日しています。1990年代はメアリ・ブラックとチーフテンズが競うようにして、短い間隔で繰り返し来日して、アイルランドの音楽を生で体験させてくれました。2000年代以降、アイリッシュ・ミュージックがわが国でも受け入れられ、さらには愛好されるようになった土台の一つがここにあります。
さらに、この来日の日本側の実務を担当したのが、当初はキング・レコードにいた野崎洋子氏で、彼女はメアリをきっかけにアイルランドのミュージシャンたちと信頼関係を築き、ルナサ、フルック、シャロン・シャノン、ドーナル・ラニィ、アルタンなどの来日公演を支えることになります。こうした現地の最前衛、「ホンモノ」のライヴに接することが、アイリッシュ・ミュージックをこの列島に根づかせるのに果たした役割は、どんなに大きく評価してもしすぎることはありません。
メアリが世に出るのは General Humbert というバンドのリード・ヴォーカルでした。このバンドは伝統音楽のダンス・チューンと歌を演奏するアコースティック・アンサンブルで、2枚のアルバムがあります。バンド自身は愛すべきB級というところでしたが、伝統歌をうたうメアリのヴォーカルは際立っていました。このバンドでのメアリの録音は後に《Collected》に収録されます。
ちなみにバンド名は18世紀末のウルフ・トーンの反乱の際、これを支援するため、革命政権下のフランスが派遣した部隊の指揮官の名前です。英語読みでは「ジェネラル・ハンバート」ですが、本来はウンベールです。ウルフ・トーンについては、司馬遼太郎が『街道をゆく』のアイルランド篇で吉田松陰になぞらえています。司馬はかれから名前をとったバンド Wolf Tones のライヴを見て、わが国に「ショーインズ」というバンドがありうるかと夢想しています。
メアリはバンド解散後、クリスティ・ムーアがホストを勤めるRTEテレビの音楽番組にゲストとして出て、イングランドの伝統歌〈Anachie Gordon〉を歌い、一躍注目されます。そして Declan Sinnott というパートナーを得て、シンガーとして飛躍します。デクラン・シノットはアイルランド最初の伝統音楽ベースのロック・バンド Horslips の創設メンバーの一人であるギタリストで、メアリの片腕となってからは特製のロングネックのアコースティック・ギターをメイン楽器としました。その後、クリスティ・ムーアなどとも仕事をしています。プロデューサーとしても優秀で、アコースティック・アンサンブルによる、抑制の効いた、壺を押えたアレンジを産みだして、メアリの歌をひきたて、成功を導きました。
メアリの音楽は伝統歌も含むフォーク・ミュージックを基礎としたポピュラー・ミュージックで、アイルランド出身のソングライターたちの歌を積極的にとりあげ、アメリカのメインストリームとは一線を画したアイルランド流のポピュラー音楽の世界を築きます。メアリ・ブラックにアメリカで最も近い立ち位置の人を探せば、エミルー・ハリスを筆者としてはあげたい。スコットランドでは似た位置の人に Barbara Dickson がいます。
ファースト・アルバムはメアリの出発点が伝統音楽にあることを確認して、以後のアルバムとは一線を画します。収録曲は半分が伝統歌、半分が現代のオリジナルで、現代曲はジョン・セバスチャン、カーラ・ボノフ、ビリー・ホリディ、そしてアイルランドのシンガー・ソング・ライターとして大成する Mick Hanly の曲です。とはいえ、ぼくが40年前のリリース当時に聴いた途端に惚れこみ、この歌い手は追いかけようと思ったのは伝統歌の方で、とりわけアナログではB面冒頭を占める〈Anachie Gordon〉でした。
若い娘が言い交わした相手、Anachie Gordon との仲を引裂かれ、両親に無理矢理金持ちの男と結婚させられたため、婚礼の日に哀しみのあまり死んでしまう、ちょうどそこへ航海から戻ってきたアナキーも、恋人の冷たい唇にキスして息絶える、という物語はバラッドの典型ではあります。けれども、ほどよく起伏のついた美しいメロディと、生ギターを中心に、あくまでストイックなフィドルを配したアレンジ、そして何よりも、ソプラノながら舞いあがるよりは聴く者にまっすぐ向かってくるようなメアリの声とくっきりとした輪郭の歌唱は、この歌を時空を超えて胸に響くものにしています。
もともとはイングランドの優れたシンガー/ギタリスト Nic Jones の持ち歌で、曲のアレンジもジョーンズの手になるものですが、メアリのヴァージョンは決定的で、この歌をほとんどアイルランドのものにしてしまい、その後、アイルランドのシンガーたちが数多くカヴァーすることになります。
メアリ・ブラックの音楽は筆者にとって理想の一つを具体的に聞かせてくれました。伝統音楽はどこのものであっても、それを生んでいる土地と人の匂いをまとっています。その匂いは好きになってしまうとたまらなく愛しいもので、それが無くては始まらないものです。一方で、たとえば納豆やクサヤの匂いのように、時と場合によっては受けいれられない人もいます。この匂いを生んでいるのは、様々な要素のからみ合いで、簡単に薄めたり、消したりできるものではありません。ところが、メアリの歌はこの匂いが強くないのです。消えてしまうわけではなく、匂いはしっかりあるままに、嫌な成分を抜いてある。それも何かを足して、伝統音楽特有の味と匂いと溶けあわせて薄めるのではない。これはフェアポート・コンヴェンション以来の従来の手法です。そうではなく、伝統音楽の美しい部分、誰もが「旨い」と感じる要素だけをとり出して、提示します。
一度されてみれば、コロンブスの卵的なところもありますが、たとえ思いついたとしても、実現は難しく、メアリ・ブラックというシンガーとデクラン・シノットというギタリスト/プロデューサーの資質と努力の賜物でしょう。モーラ・オコンネルやエリノア・シャンリーなど、メアリの後を追うシンガーたちが続きます。ドロレス・ケーンもこの手法を試み、シネイド・オコナーも採用しました。
メアリ・ブラックの音楽は伝統音楽がとりうる形の多様性を示すとともに、アイルランドの音楽性がとりうる形の多様性をも示します。この多様性は、たとえばチーフテンズが提示した多様性とは性格を異にします。チーフテンズの多様性が水平方向への拡散とすれば、メアリ・ブラックが示したのは垂直方向への展開です。
メアリ・ブラックの音楽とは対照的に、自分たちの出自にある伝統をナマのまま、いわば思いきり「くさい」ままに、剥出しで聴かせ、かつ稀にみるみずみずしい音楽を聴かせてくれたのが、Mairead Ni Mhaonaigh & Frankie Kennedy のやはりファースト・アルバム《Ceol Aduaidh》でした。以下次号。(ゆ)