【バックナンバー:クラン・コラ】Issue No.305

アイリッシュ・ミュージック、ケルティック・ミュージックを中心としたヨーロッパのルーツ音楽についての情報、記事、読物、レビューをお届けする月2回発行のメールマガジン「クラン・コラ」。

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クラン・コラ Cran Coille:ケルト・北欧音楽の森

アイリッシュ・ミュージック・メールマガジン 読み物編
Issue No.305
November 2019

現地レポート 新興市場中国のティン・ホイッスル事情 後編:ケルトの笛 hatao

【現地レポート後編】新興市場中国のティン・ホイッスル事情 

自分のための音楽2:field 洲崎一彦

先日、昔のパソコンのデータを整理していたら、2010年前後にやっていた「セッション練習会」の資料が出て来ました。そこには、まったく忘れていたのですが、この日はこんな事をやってこんなことを話したというような記録もまじっていて(毎回ではないのですが)、おいおい、自分はあの頃何を言ってたのかと急に不安になってそれらの一部を読んでみたのでした。

すると、今から考えると、私の考え方もほとんど整理されておらず、言葉足らずなことばかり吼えていたのだなと赤面の至りなのですが、一部はなかなか面白いことも話していたのです。

いわく、

「アイルランド音楽の根本はブルース(哀歌)である」

「生きる苦しみを歌ったもの、というよりは、その苦しみを乗り越えるためにこの音楽が必要だった」

「つまり、楽器を演奏するのは自分のためであって、誰かに聴かせるためではない」

「現に、少し前の時代には、アイルランドにはアイルランド音楽の職業音楽家は存在しなかった」

と、まあ、当時、私はこんな講話を垂れていたわけです。

また、えらそうな事を知った顔で吼えていたものです。今考えると、アイルランド音楽はこれが全て!という強い断言はちょっとどうかな?とも思うのですが、この辺りの事は、ここ最近のクランコラ誌上での私の話題にちょっと関係してくるぞと思いました。

数回の原稿で、私は、日本人演奏者は、特に初心者の人達はセッションなどで音を出すのにびびり過ぎているのではないか、というような事を書いたと思います。

ここですね。あくまで自分の為に演奏するのだ。人に聴いてもらう為ではない! とすると、びびる必要なんてどこにも無いのですね。ただ、このあたりの、びびるという心理的な側面は色々な要素が絡み合っていて、前にも書きましたが、それこそ、西洋と日本の文化の違いにも根ざしているもので、深入りすると、やたら込み入った考察になってしまう所なのですが、ここは、シンプルにただ、「人に聴かせるために演奏するのではない」「自分のために演奏するのだ」と考えるだけで何かすっと腑に落ちるものはないでしょうか?

結局、この事は、ジャズのルーツが黒人哀歌、つまり、虐げられていた黒人労働者のブルースに端を発していて、それが、現在のポップな流行音楽にまで繋がっていることを思うと、現在のポップスの元になっている音楽も、元々は自分の為に演奏していたものなのだということが言えますね。

これが、いつしか、聴いている人がチップなどのお金を払うというような事態が発生して来てですね、それが、商売として成立して行った果てに演奏会が行われ、ラジオが発明され、レコードが発明されて、音楽は巨大な商品になって行くわけですね。

人がそれを聴きたいという需要があって商品として確立されるわけですから、いつしか、音楽は自分の為に演奏するものではなくなってしまうのも仕方がありません。現在では、普段、耳にする音楽は、ほとんど全てが商品としての音楽なのですね。

今の時代は、皆さんそれに憧れて、それを模倣して、楽器の練習に励むのですから、知らず知らずのうちに、音楽という商品、の練習をしてしまっていることになります。

だから、特に演奏に自信が無い初心者の皆さんは、さあ、皆の前で1曲弾け!と言われた時に、自分の演奏には商品価値なんて無い!と、反射的に身構えてしまう。だったら、演奏しなければいいのですが。。。

そこは、恐らくこの音楽の持つ元々自分の為に演奏するという根源的なパワーみたいなものが演奏者の潜在意識に知らないうちに刻み込まれているとでも申しましょうか。そういう演奏欲というものもムラムラとわき起こる。そこに、人目を必要以上に気にする日本古来の集団意識が加味されて、彼は立ち往生してしまうのではないか。こういう事が起こっているのではないでしょうか。

対して、欧米の皆さんは、人目を気にしないという部分だけではなく、この、根源的な演奏欲と言った潜在意識が恐らく私達が考える以上に強力なのでしょう。この音楽の持つ根源的なパワーみたいなものをもっとダイレクトに受け取めている。そういう部分があるのではないかと思いました。

だから、私達日本社会に生きる音楽好き人間は、もうあまり、ややこしい事を考えるのはやめて、音楽は人のために演奏するのではなく自分のために演奏するのだ!この台詞だけをただただお題目のように朝晩唱えるのが近道かもしれません。これによって、どんな状況に立たされても、その時の自分を最大限に表現する音楽が演奏出来るのではないでしょうか?

ここで、自分の演奏は自分のためにやっているのであって商品力など無い!と強く意識してしまうと、ライブハウスでチャージを取ったり投げ銭でお金をいただくような演奏って出来ないではないですか! という声も聞こえてくるかもしれません。

が、ここでの商品力は自分が決めるのではなくて、聴衆が決めるのですから。初心者の初々しい演奏を好きだという方もおられるだろうし、上手いヘタではなく何々君の演奏が好きだという方もおられるでしょう。ここは、まわりの皆さんの判断にゆだねてしまいましょう!

そうですね。何ちゅうか。楽器を弾くにおいて、良い意味での軽さというか無責任さというものにも注目してみる必要がありますね。

Colleen Raney——アメリカで伝統をうたう試み・その24:大島 豊

アメリカのケルト系シンガー、コリーン・レイニィの録音を聴くシリーズ。4枚めのアルバム《Here This Is Home》の第11回で最終回。最後のトラック〈Craigie Hill〉を聴く続き。

16. Cara Dillon, Transatlantic Sessions, Vol. 6, 2014, 5:08

カラ・ディロンがこちらでも唄っていたのを見逃していた。アレンジは同じだが、シンガーとしての成長が如実にわかる。ソロ・デビューでの若書きも魅力は失わないが、うたい手としてのこういう成熟には、驕ることなく、地道に努力重ねることが必要だ。アーティキュレーションや力をこめずに延ばすところ、フレーズの切れ目で低く小さくまとめるところ、わずかに音をはずすところ、など、細かいが重要なポイントを余裕をもって押える。恵まれた才能が真摯な努力を重ねて達した境地。ここが終着点であるはずはないが、一つのポイントではある。

17.Nita Conley Korn & Eileen Korn Estes, The Apple Tree Project,
2015, 5:16, MD, CD Baby

Nita Conley Korn は Nita Conley の名義で、アメリカの1980年代のアイリッシュ・バンド Celtic Thunder の初代ギタリスト&シンガー。ワシントン、D.C.をベースにしていたこのバンドは当時のアメリカで最も質の高い音楽をやっていた。Solas はその衣鉢を継いだと言ってもいい。Eileen Korn Estes の方は情報が見当らないが、名前からしておそらくはニタの娘だろう。

ニタ・コンリーはボストン郊外の生まれで、アイルランド系の両親、とりわけ母親からアイルランドの歌の伝統を受け継いだ。クラシック音楽の訓練を受け、スコットランドの伝統音楽も学んでいる。シンガーとしてはB級ではあるが、歌への愛と唄うことへの愛にあふれる。ハスキー・ヴォイスも幸いして、歌の好きなおばさんが大好きな歌を懸命に唄うのは、伝統歌のレゾン・デートルをあらためて訴えてくる。シンガーとしてはドロレスの叔母、セーラとリタのケーン姉妹、コークのティム・ライオンズ、それにパディ・タニーがお手本。ハマる歌をうたわせると無二の魅力を発揮するのも伝統らしい。この歌は、ちょっとずれる。

18.Almost Irish with Chris McMullan, Live In Concert, 2017, 4:51, Denmark

デンマークの4人兄弟のバンドにノーザン・アイルランド、タイローン州のストラバーン出身のパイパー、ホィッスル・プレーヤーが参加してのライヴ盤。5作めで最新作。

デンマーク南西部 Holsted 出身の兄弟は両親の影響でアイルランドやブリテンの伝統音楽に幼ない頃から親しみ、長じて音楽学校に進む。しかし、クラシックには行かずにアイリッシュ・ミュージックを演奏するバンドを組んだ。デンマークはおそらく大陸で最もアイリッシュ・ミュージックの演奏が盛んと言ってもいいだろう。ファンも多く、歴史もある。T!)nder のフェスティヴァルは1980年代からアイリッシュ・ミュージシャンが大挙して出演している。アイリッシュ・ミュージックが好きなことでは、ドイツ人も負けていないが、演奏となるとデンマークの方が一歩先を行っている。

クリス・マクマランとはそのドイツのフェスティヴァルでのセッションで出会い、意気投合してコラボするようになった。マクマランにはソロもある。

https://chrismcmullan.bandcamp.com/releases

リード・ヴォーカルは詞の各行の末尾をきっぱりと唄いきって、うたい放つスタイル。ヴァースの後半やコーラスではハーモニーをつける。そうするとクランシーズ〜ダブリナーズ・スタイルにも響くが、細部のアレンジと楽器演奏の腕はやはり現代のもの。ヨーロッパ大陸らしい洗練されたセンスもあって、アイルランドや北米とは一味違っている。この洗練されたセンスはクラシック音楽を生んだものでもある。一方でアイリッシュ・ミュージックは勢いよく演奏するのが身上と思っているところもあるらしく、ビートのカッティングなどはどちらかというと粗い。二つの相反する方向から生まれるアンビヴァレンツな効果はちょっと面白い。

アルバム全体ではアイルランドよりもテンポを落として、丁寧に演奏する。プランクシティそのままの〈Raggle Taggle Gypsy Tabhair Dom Do Lambh〉も意外に面白い。〈Skibbereen〉は通常の半分ほどのテンポで、この歌はこんなに良かったかと思わせる。

Lukas Nielsen: Vocal, Fiddle, Mandolin
Rasmus Nielsen: Vocal, Cittern, Bouzouki, 5 str. Banjo
Alexander Nielsen: Vocal, Whistles, Guitar
Jacob Nielsen: Guitars, Concertina, Bones
Chris McMullan: uillean pipes, whistle

19.Colleen Raney, 2013, 5:22

アイルランドやブリテンのうたい手の歌は、感傷を排しながら、あっけらかんとドライなわけでもなく、聴きようによってはあまりにクールで「ねーんげん」的ではないと聞える。

うたい手がその存在を主張しない。アメリカのうたい手は突き放しながら、どうしても感情がこもってしまうところがある。否応なく個性が出ざるをえない。それがうまく出ると、良い感じの割合で感傷が溶きこまれて、すなおに耳になじむ。その点、コリーンの歌唱はあくまでもアメリカンの歌唱でありながら、アメリカの他のシンガーとは一線を画して、感傷も感情も皆無と言えるまでに抑制が効いている。アメリカンとしては限りなく硬質で、そう簡単に耳になじんでくれない。それはヨーロッパとアメリカの中間というよりは、アメリカ人として伝統歌を唄うことをとことん尽きつめた、究極のアメリカンにぼくには聞える。むろんこれが唯一の究極ではなく、例えば Connie Dover は別の方向で究極だ。ただし、コリーンの向かうところは孤高の道ではある。二度や三度聴いたくらいでは、その歌の真価はたぶんわからない。状況や環境を変えて、何度も聴いているうちに、ふとハマる時が来るのを待つ、というのが、最も適切なアプローチだろう。

これまでの彼女のアルバムでは Colm MacC!)rthaigh との共作 Cuan が最も成功しているのはそのためでもあるだろう。最新作はあえて伝統歌を除いて、同時代のオリジナル曲をとりあげて、新たな境地を開いている。それについては次回から聴いてゆくが、アメリカ人でありながら、エモーショナルにならずにどこまで歌の感情をそのまま伝えられるかにこだわるこの姿勢は、最新作でついに実を結んだ。

間奏はフィドルとアコーディオンがメロディをほぼなぞる。

後にフィドルとアコーディオンでリール。ユニゾンだがフィドルはオクターヴ低い。ヴィオラかと思うほど。このフィドラーは Anam にも一時参加し、ハーモニカの Mick Kinsella とデュオを組み、また Emer Mayock、Donal Shiggins、Lasairfh!)ona N!) Chonaola と The Listners というバンドをやっている。この名前のアコーディオン奏者はたくさんいて、判断がつかない。

Colleen Raney: vocals
Aidan Brennan: bouzouki, guitar
Johnny B. Connolly: accordion
Steve Larkin: fiddle
Trevor Hutchinson: bass
Dave Hingerty: drums, percussion

この曲の録音としてはやはりディック・ゴーハンが傑出しているが、名曲名演を生むの諺の通り、どうしようもないレベルのものは無い。というよりも、どれも独自の聴き所を備えている。カーラ・ディロンやオールド・ダンス・スクール、ローズ・ロクラン、スーザン・マキュオンあたりは、一聴なるほどと感じ入ることができよう。あとは好みだが、好みというものも案外にころころ変わるものだ。コリーンの歌唱はその中でもやはり際立っている。ではあるが、その個性の強烈なことはわかりにくい。それだけに、一度気に入れば、おそらくずっと気に入ったままだろう。

アルバム全体が向かう方向はコリーンが目指す方向と必ずしも一致していない。どちらかといえば伝統歌よりもオリジナル曲の方がうまくいっているように思える。この流れが次作で花を開くことになる。ひょっとすると、伝統歌を唄うときには、どこかに余分な力が入ってしまうのか。伝統歌に備わる慣性に拮抗しようとする姿勢になってしまうのか。真向から抵抗しようというよりは、歌の流れの方向を変えようとする。あるいはうたい手がこちらに向かっていると思う方向が、本来の流れからはわずかにずれているのか。〈The Cruel Brother〉に代表されるように、試みとしては面白く、かなりのレベルにまで達しているのだが、本当に良いものになる一線にほんの少し届かない。

これを失敗と呼ぶのは酷ではあるだろう。失敗しているとしても水準の高いところで失敗しているので、場合によって、聴き方によって、別の様相を見せる可能性はある。とはいえ、ここでの体験があって、次のアルバムでの突破がなしえたことも確かだ。