小澤征爾:field 洲崎一彦


出典 Irish PUB field

ライター:field 洲崎一彦

さて、最近ちょっと読む本がなくなってきたので古い本棚を物色していると、1977年に刊行されたとある対談本が見つかりこれを読み始めたのでした。世界的指揮者、小澤征爾氏と世界的数学者、広中平祐氏の対談で、もちろん、昔に読んだ本ですが内容はまったく覚えていません。小澤征爾氏が今年の初めにお亡くなりになったことはニュースにもなり記憶に新しいですが、広中平祐氏は海外の権威ある数学における賞を受賞したことで当時話題になり世間に名前が通っていたことはなんとなく覚えています。この対談の頃は、小澤征爾氏がボストン交響楽団の音楽監督として一世を風靡した時期だと思います。このお2人が、実はもっと若い頃からの友人で、お互いにアメリカに在住しつつそれぞれの仕事に邁進していたという時代のようです。そこに、日本からお2人の共通の知人であるプロデューサー役の人が加わって進行役を務め、小澤征爾氏の自宅で何日にもわたって対談を収録するというスタイルの対談本なのです。

私はクラッシック音楽にはそれほど馴染みがありませんが、若い時の友人の影響でつまみ食い的には聴いていた時期がありました。その友人が小澤征爾氏の熱烈なファンであったこともあって、まったく耳学問の受け売り的な感じで小澤征爾氏というのはもの凄い天才指揮者だ!というイメージだけが根強くあるわけです。では、小澤征爾氏の指揮が具体的にどんな所が凄いのか?と問われても実は専門的にはちんぷんかんぷんなわけですが、その友人だけではないです。いろいろな音楽家や著名人が彼を絶賛する様子を、永い年月に渡って、折に触れて見聞きして来たのもあって、彼はとにかく何が何でも凄いのだ!と、私は信じ込んでいるわけです。

この対談ですが、今読むとなかなか面白い。昔読んだ時にはあまり印象に残らなかったのだろうなと思うような細かい箇所にいちいち引っかかる。例えば、広中氏は数学の世界を語る、それを小澤氏が音楽の世界に読み替えて納得する。つまり、道を究めていくと結局は同じような哲学に落ち着いて行くのか、みたいな話が満ちあふれているわけです。

また、この対談の場所が小澤氏の自宅ということもあって、時折、奥様や子ども達が乱入してくる。小澤氏と彼らのやりとりももれずに収録されているので、当時の小澤家の雰囲気も非常にリアルに伝わってくる。そんな中で、小澤氏が明日は休みなので皆でナントカ遊園地に遊びに行って夜に対談の続きをしましょうなどと提案するのです。 

こうして、小澤征爾夫妻、2人のお子さん、お手伝いさん、小澤氏の友人、広中氏、プロデューサー氏の一行は翌日そのナントカ遊園地に出かけることになります。

その遊園地に入ったすぐの場所で、ディキシーランドの楽団が演奏をして出迎えてくれる。小澤氏は長男を肩車して、演奏はお世辞にもうまくないその楽団に熱中して、腹の底から楽しんで、リズムを取ったり笑い転げたりするのだと言うのです。以下、本書から引用すると、

それから約2時間半ぐらい、ハンバーガーを食べ、とうもろこしにかじりつき、風船売りから大きな風船を買い、射的に興じ、永い行列に並んで船に乗り込み、ライオンやキリンやそのほかもろもろの動物を船から見せるという、この遊園地独特の見ものを見たり、オウムの曲芸、イルカの曲芸、ウォータースキーの妙技にいたるまで、グループの先頭に立ってみなを適格にリードしながら、実はいちばん楽しんでいたのが、ほかならぬ小澤征爾その人であった。

さらに、このプロデューサー氏は続ける。

そして適当な時間がくると、小澤さんはみなを集合させ、再び車に乗ってトゥインピークへ向かうのだった。ぼくは限られた時間のなかで、オーケストラを集中させ、オーケストラの性能を最大限に高める小澤さんのリハーサルを見るときのカタルシスを味わったのである。オーケストラの楽員たちが、小澤さんのリハーサルが気持ちが良いといつも語っているのを、遊園地で遊びながら理解できたという気がしたのだ。

この部分、私にはずりしと来たのでした。確かに、この時代から現在に至るまで小澤征爾氏は休むこと無くぐんぐん世界の小澤と呼ばれるほどの大指揮者に駆け上がって行くことは誰でも知っています。それはそれは、ものすごい音楽的天才であったのは確実なのです。が、この人間性というか決して音楽の技術とは呼べない部分。この部分にこの時点で着目しているプロデューサー氏の洞察力もまたすごい。 

オーケストラの指揮者は実際には何も楽器を直接は演奏しないわけです。目の前の楽団員たちの技術を最大限に引き出して最高の音楽を作るのが指揮者の役割ということを考えた時に、確かに人をひきつける人間性の重要さは当たり前に理解できることです。楽団員のひとりひとりが気持ち良く楽器を奏でられる状況を作るのもこれは大きな仕事ということになります。

が、それは、オーケストラの指揮者という半ば特殊な立場だからそう言えるのか?と考えた時に、いや、合奏が伴う音楽はどれも同じことが言えるのではないかと思い当たるのです。楽器を奏でるのは人間です。その人間が気持ちよく奏でられなかったら、その演奏も決して良いものにはならないのではないでしょうか。合奏相手を気持ち良くさせる人間性という問題。ここは、これまであまり注目されて来なかったように思います。

決して、音楽をやるものは人格者たれ、などと言う大上段からの訓辞を言いたいのではありません。小編成のバンドでは、そのメンバー1人1人の個性と組み合わせの妙というものもあるでしょう。全員が才能の塊であったビートルズはその活動の絶頂期に分裂してしまいました。永年彼らの活動を支えてきた辣腕マネージャーのブライアン・エプスタインが死去した後からメンバー間のバランスが崩れてきたと言う分析もあります。そんなひとりの人間がメンバー間の人間性のバランスを取っている場合もあるのです。

音楽は音楽性という問題以上に、それに携わる人間たちの色々なバランスが最もその音楽に影響を与えるという側面です。これは、普段あまり目を向けられない問題として、ちょっと注目したくなるお話ですよね。

そして、時あたかも私はちょうどとあるライターの方から、アイリッシュパブとは何ぞや?という取材を受けていました。この時に、アイリッシュセッションの事がどうしてもなかなか伝わらない。セッションと言うと、いわゆるジャズやブルースのミュージシャンが集まってアドリブのソロ回しをするような、つまりミュージシャン達のちょっとした遊び的なイメージという先入観がおありになるご様子。それで、まあそうなんやけど、ちょっとニュアンスが違うんやけどな。。。となってしまう。

そこで、私が思わず口走っていたのが、アイリッシュセッションはそれ自体がアイルランド音楽における活動の要であって、音楽を通じて人々が交流しコミュニケーションすることが第1の目的であるというものなのですよ、などと言ってしまった。まあ、違う見解の方もおられるでしょうから、このように言い切ってしまうのもなんだか乱暴ではあったのですが、まあ、こんな風に私は口走ってしまった。
 
ね。見事につながってしまったでしょう?この話題。アイルランド音楽こそ、人間性がもたらす音楽なのではないかという方向に!

しかし、昨今の1人で完成させてしまえるコンピューターを使った音楽や、この先もっとAIが発達すると、人間が介在しない音楽が成立して来る世の中になるのでしょう。そうなると、この人間性の妙という要素が出来上がった音楽にまったく反映されないということになりますね。そこで、では、そんな音楽が人々の心を打つことが可能なのでしょうか?

ここ、非常に難しく微妙な問題だと言えますね。われわれ年寄りはどうしても、こういうアナログな部分に心引かれてしまうものです。そのうちに、AIが指揮するオーケストラが世界を席巻しているような時代が来るかもしれないのに。

いやはや、われわれ年寄りでも、あっすごい美人!と思ってよく見ると、AIが合成した写真だという説明を見つけた時、ここでがっかりするかしないかが運命の分かれ道ですよね笑。(す)