どっちを向いていいか判らない:field 洲崎一彦


出典 Irish PUB field

ライター:field 洲崎一彦

さて、前回、私は、止まっていた頭が動き出した!と宣言しましたよね。うーん。この宣言をして1ヶ月ほど経つのですが、、、ホントに動き出したの?という疑問が出てきています笑。まあたしかに止まってはいないのですが、もうずっと以前にいろいろ考えたり迷ったりして、ある程度それなりに答えを出しているような事柄が今さらながらに次々と頭に浮かんで来るのです。こじつけて言うと、頭は動き出した。が、では、それを何に使うのか、つまり、何を考えるのか?という対象が目の前に無い、または、目の前のことは生々しくて考えたくないので、過去にもう答えを出したような問題を引きずり出して、動き出した頭をそこばっかりに使ってしまう、みたいな感じでしょうか。

私は、カフェを13年、アイリッシュパブを24年、計37年にわたって飲食店を営んで来ました。こうやって振り返ると確かに長い時間ですが、この37年という時間の中でこの社会も微妙ですが確実に変容してきました。そんな中で、私たちのような立場で常に念頭に置いておかねばならないのが、お客様を分け隔てなく平等に取り扱うという指針です。ここで言う、「分け隔てなく平等に」、という概念と内容はその時代時代の風潮や気分によって大きく左右されるものです。例えば、今で言うSDGsやLGBTなどというようなスローガンは30年前の社会には存在すらしていませんでした。しかし、私たちは、その時代その時代においての「分け隔てなく平等に」を常に意識して常に何らかの指標をたてて実行して来たつもりです。

永い年月の中で、そういう身のこなしは自然に身に着けていたつもりだったのです。しかし。

 
それは、ひとつに、セッションに代表される、当店で演奏される音楽の件。ここは、アイリッシュパブを作った動機が私がセッションをしたいから、というのがあるわけで、これを大っぴらに宣言していたこともあって、私がやりたいのだからいいじゃないか、という所がいつも話の着地点だったし、このように私が宣言している以上は誰も真っ向から異論ははさまない。ここですね。気になって来たのは。

誰も異論が挟めない構造にあるということは、私はここに居直り続けてしまい、時代や環境が変わって、事態が変わって来ても私自身はまったくそのことに気が付くことが出来ないということになるのではないですか。

大きくは、やはりコロナ禍です。一応、コロナ禍去って、2022年秋からfieldは定期セッションやライブ、各種パーティを全面的に復活させました。しかし、何か少し様相が違う。これは、コロナ前に戻るというような単純な話ではないぞと直感したのでした。それで、ここは、イチからアイリッシュパブをやり直すつもりで行かないかん!と、ふんどしを締め直すような強い意識を持ったのでした。

そして、復活後の当店は、いやに外国人観光客が目立つようになった。まあ確かに最近は近くの錦市場などに足を踏み入れると外国人観光客であふれていてまっすぐ歩けないほど、まわりから日本語が一切聞こえて来ないという様相なので、錦市場の延長線上の錦小路に位置する当店が例外であることはどう考えても不可能なのですが。。。。

時にはセッションがあります。また、ライブもあります。そういう時に居合わせる外国人観光客の皆さんは一様に音楽生演奏がとんでもなく嬉しい。どんなジャンルとか、上手いとか下手とか関係なくもう嬉しくて嬉しくてたまらない!という感じで音楽があればとっても嬉しいとっても嬉しいわけですね。

と、そんな、あるセッションの時でした。セッションメンバーが少なかったこともありますが、ひとりの見知らぬ青年がギターを持ってセッションエリアにずかずかっとやって来た。そして、彼は突然ギターをかき鳴らして大声で歌い始めた。私の世代なら皆知っているであろう古い歌。井上陽水の歌を絶唱し始めた。あ。。。あまりの予想外な展開に私もセッションメンバーも完全に目が点になってしまってストップモーション。が、客席を占めていた外国人観光客の皆さんがやんややんやの大喜び(皆さん当然井上陽水など知ってるわけがない)。彼が歌い終わるや盛大な拍手が起こりアンコールまで飛び出す空気。あ。。。ここで我に返った私は、深呼吸をして小さく拍手をしながら、まあまあと彼を制して、次はアイリッシュをやるからねと、ひとこと言ってから、アイリッシュセッションに戻った。すると、その彼はそのままそこに居座り、ノリノリでギターケースをパーカッションの様にドカドカ叩いて果敢に(乱暴に?)セッションに入って来る。これにもまた外人観光客の皆さんには嬉しい嬉しいで大盛り上がり。。。

と、まあ、こんな事がありました。確かにセッションに来ていたセッションメンバーは少なかったのですが、彼らはアイリッシュセッションを楽しみに来てくれたのですね。アイリッシュセッションとすれば、以上のような乱入者はちょっと困った存在です。が、この時の他のお客様たちはこんなに大嬉しい。この狭間にたたずむ、私というこの店の大将。

大きく言えば、アイリッシュパブのセッションは、パブのお客様へのサービスという側面が経営上の正論を担保しているわけです。店主の趣味でやってます、と居直れないこともないですが、あれやかましいんですけど、とクレームが入れば即中止する性格のもののはずです。確かに、私は永年この居直りの姿勢を半ば強引に貫いてきたわけですが。。。それでも、お客様から、あれ止めて欲しいと言われれば止めざるを得ないというスタンスはとっていたつもりでした。

ここで、、、セッションに来てくれているセッションメンバーの皆さんもお客様なのですよ。これ。よく考えて見ると、不特定多数への分け隔てないサービスを旨とする私たちの立場とすれば、非常に苦しい。昨今は、カスハラなどの言葉が出来て、店に理不尽な無理を強要する客の存在が問題になっている。これを受けて、店側は客を選ぶ権利があるという論調も出て来ています。しかし、風潮がこうなって来るとますます苦しい。

例えば、以上の様な場面で、セッションメンバーから、
「さあ、すーさん!どちらを選ぶか決めてください!」
などと、迫られたらどうする? 

言葉に出さなくても、彼らは心の中で、そう思ってるに違いない。。。。

まだ、口に出してくれた方が、「にやにや作戦」や「まあまあ作戦」が使えないでもないですが(まあ、過去にはこれらの作戦を使って来ました笑)、そう思ってるんやろなあと想像しただけで息が吸えなくなるじゃないですか。。。

そうです。これに似たことは、これまで、24年間セッションをしてきて無かったわけではありません。が、こんなにもはっきりと実は店内にいる過半数のお客様はこれを喜んでいるという光景。ここまでくっきりした光景はほとんど無かったと記憶しています。

思えば、当店をアイリッシュパブに変身させる前時代、ウチは今で言うカフェだった。そこで、私の趣味が高じてある時いきなりセッションを始めた。すると、コーヒーを飲んで談笑しているお客さまから、あれ、やかましいんですが放っておいていいんですか?と苦情が来たものでした。今ではほぼ都市伝説化していますが、だから、スザキは自分の店をアイリッシュパブにした!

なにせ、京都で最初に出来たアイリッシュパブだったわけでアイリッシュパブそのものがまだ珍しい。パブに鞍替えしてしまえば、いやあ、アイリッシュパブというのはこういう風に楽器を持って集まってくるお客様同士がセッションという生演奏をして楽しむもんなんですよぉ〜、やかましかったらご免なさいねぇ〜(にやにや)などと言っておれば通ったのです。

が、どうやら、今時の外国人観光客の皆さん、まあ特に欧米人の皆さんにとったら、どうやら、アイリッシュパブというのは、ジャンルに関係なく音楽の生演奏をがんがんやっているにぎやかな場所であるというようなイメージが普通らしいのですね。

これは、セッションでなくても思い当たる話でして、当店は通常のBGMがすべてアイルランド音楽なのですが、とある、欧米人観光客の方が、なんでこんな古くさい音楽ばかり流しているのだ!もっとにぎやかなロックを流せ!などと苦情を言って来たりするのです。

文化?って、あまり言いたくはないんですけど、最近やってくる外国人観光客の皆さんは言ってしまえば円安の恩恵で日本を目指す割合が高いのではないでしょうか。いわゆる旅慣れていない方々もけっこうおいでになる様子。もとより、郷に入れば郷に従えなどという和の精神などはみじんも期待できないわけで、彼らには自分が快適であることが一番だというのは判らないではありません。私たちのようなサービス業はそれを提供するのが当然だと硬く信じておられるのだと思います。

さてさて、今のこのご時世において、世界の観光都市京都におけるアイリッシュパブとしては、いったい、どっちを向いてどのようにやって行けば良いのか?

どなたか、良い考え方があればご助言いただきたい。良いアイデア、アドバイスを募集いいたします!

陰謀論ではないけれど、グローバル化は私は賛成したくないなあ。笑(す)