歌の小径の散策・その12 Spanish Lady:おおしまゆたか

ライター:大島 豊

バン川はアイルランド島北東部、現在のノーザン・アイルランドを流れるものとしては最長の川だ。全島では5位。ノーザン・アイルランド南東部に発してほぼまっすぐに北流し、デリィ州で大西洋に注ぐ。真ん中でふくらみ、アイルランド島最大の湖ネー湖を形成している。名前はアイルランド語で An Bhanna、女神の意。この渓谷は、最後の氷期が終り、最初にアイルランド島に渡ってきた人間たちが定住したところと言われる。

その川の畔を舞台にしたこの歌は、明らかにアイルランド産でありながら、なぜかイングランドで人気がある。アイルランドのミュージシャンの録音として目立つのは Len Graham と、The Voice Squad によるものくらいだ。グレアムはデリィ州のシンガー、ヴォイス・スクォドはラウズ州のシンガーを各々ソースとするが、歌詞はほとんど同じ。ヴォイス・スクォドのヴァージョンはその後、イングランドのミュージシャンたちのソースとなる。

ヴォイス・スクォド以前のイングランド人たちのヴァージョンはラストが異なる。若者は稼いだ金を消尽して、独りさびしく荒野をさまよう。レン・グレアム以降のアイルランド版では、若者は首尾よく、想いをかけた女性と結婚してハッピー・エンド。このあたり、二つの文化圏の基本的性格が顕われていると見るのは早とちりであろうか。

レン・グレアムはアントリム出身で、ノーザン・アイルランドのみならず、アイルランド全体でも伝統音楽の男声シンガーのトップだ。ミュージシャンとしてのみならず、研究者としても大きな業績がある。もっともあたしとしてはもっぱらかれの歌唱に惚れこんでいるので、研究者としては歌につけるライナーの恩恵を受けているぐらいだ。

ヴォイス・スクォドは Gerry Cullen、Phil Callery、 Fran McPhail の3人からなるアカペラ・コーラス・グループで、1987年の《Many’s The Foolish Youth》から2014年の《Concerning of Three Young Men》まで4枚のアルバムがある。男声にかぎらず、伝統歌謡のアカペラ・コーラス・グループはアイルランドでは珍しい。アヌーナの音楽は伝統音楽の範疇からははずれるとあたしは見ている。だから価値が落ちるとかいうことではなく、別のものだ。クラナドも似たところがある。もっともクラナドはかれらの意識としては伝統音楽をやっているつもりなのかもしれない。たとえそうであったとしても、あたしにはそうは聴こえないだけのことである。

よりソースに近い録音としては、Topic Records から出ている The Voice of the People のシリーズの1枚《Good People, Take Warning》に Joseph Higgins による歌唱が収められている。1953年にデリィ州で Peter Kennedy が録音したもの。ハッピー・エンドのヴァージョン。こういう歌唱を聴くと、メロディに備わる緊張感がより生々しく感じられる。想いをかけた女性をわがものにできるか、わからない緊張感。そこからすれば、アンハッピー・エンドで終るのが筋ではあるだろう。一方で、アンハッピーな結末は当然予想されることで、当然予想される事態とは逆のことが起きる結末にしたくなる性格もアイルランドの人びとには潜んでいる。天邪鬼なのだ。アイリッシュのユーモアはたいていそこから生まれる。

ひょっとするとこの歌のハッピー・エンドもアイルランド流のジョークの1つで、事の真相からはほど遠いということもありえる。むろん、事の真相がどうかは歌にとってもうたい手にとっても、どうでもいいことではある。

例によってストリーミングであれこれ聴いた中で耳に残ったのはまずジョン・ドイル。マイク・マクゴールドリック、ジョン・マカスカーとのトリオのアルバム《The Wishing Tree》収録。肩の力を抜いて、軽く、しかししっとりと歌う。マクゴールドリックはフルートを吹いている。アンハッピー・エンド版。ドイルはギタリストとしてのイメージが強いかもしれないが、シンガーとして第一級であると、つくづく思う。

Dave Curly が Mick Broderick との連名で出した《A Brand New Day》収録の版も歌唱の質では負けていない。こんな人いたのかと検索すると、Slide のメンバーだった。ゴールウェイ州はコロフィン出身。この人の歌はもっと聴きたい。このアルバムはオリジナル、トラディショナル混合のレパートリィを坦々と歌っていて、歌のアルバムとして理想の形。

イングランドの若手アカペラ・コーラス・グループ The Wilderness Yet は新しいせいかイングランド勢ながらハッピー・エンド。《What Holds The World Together》収録。女声1人、男声二人のトリオで、ここでは女声がメインのメロディ、男声が上と下にそれぞれつける。このトリオの録音はどれもすばらしい。同じ編成のかつての名グループ The Young Tradition の衣鉢を立派に継いでいる。

スコットランドのシリー・ウィザードの名作《Kiss The Tears Away》収録の版も必聴。アンディ・M・スチュワートはこういう歌を歌わせたら、右に出る者はいない。伴奏はギター2本とホィッスル。

カナダの The Dardanelles のメンバー Matthew Byrne もソロのファースト《Ballads》で歌っている。テンポ設定が絶妙で、実にいい。

歌詞にはヴァージョン違いがあるが、メロディはどれもほとんど同じなのは、それだけこのメロディが魅力的であるのだろう。そのせいか、インストルメンタルとして演奏している録音もいくつもある。中ではマーティン・シンプソンのギター・ソロが飛びぬけている。リピートごとにアレンジを変える精妙極まる演奏には息を呑む。ギター・ソロは他にもあって、どれも悪くない。

面白いのは Atlantis Trio の演奏。《Anima Mundi》収録で、シタール、タブラ、ピアノという編成。ベースになっているのはジャズで、ここでもピアノとシタールが各々にソロをとるのが聴かせる。初見参だが、追っかけたくなる。

なお〈Banks of the Bann〉で検索すると、〈Willie Archer on the banks of the Bann〉という歌もひっかかる。この歌も〈Banks of the Bann〉として録音されていることがある。Sean Cannon が傑作《Erin The Green》で歌っているのもこちら。これはこれですばらしい歌唱。

同じ〈Willie Archer〉の方だが、その存在をまったく知らず、驚いたのがMarianne Green という人の歌。《Dear Irish Boy》というアルバムはなぜかアンディ・アーヴァインが全面的にバックアップし、プロデュースもやっている。本人はデンマークの人。もう一度なぜかデンマークはアイルランドやブリテンの伝統歌をうまく歌う人が出てくる。この人もやや突き放して、あっけらかんと言ってもいい感覚の歌唱だが、そこがいい。少し巻き舌にも聞える声のせいか。

というおまけまでついて、ひとつの歌の録音を追いかけるのはやはり面白い。川の畔で起きることをテーマにした歌をもう少し探してみたくなる。他の川、たとえばシャノンにそういう歌はあるか。おお、そうだ、〈Blackwater side〉があるではないか。あの Blackwater はウェクスフォドにある川とされている。では、次回はこの有名な歌を聴いてみよう。(ゆ)