歌の小径の散策・その14 The well below the valley:おおしまゆたか

ライター:大島 豊

これまでこの連載でとりあげてきている歌はいずれも名が通ったもので、録音もたくさんある。では録音が少ない歌でいい歌はないのかと考えて〈The well below the valley〉を思いついた。そこで検索してみると、あらまあ、これまたずらりと出てくる。筆頭に Landless の録音が出てきたのには驚くとともに嬉しくなった。

とはいうものの、だ。この歌を「いい歌」あるいは「名曲」と呼ぶのはためらわれる。というのもこの歌は近親相姦を真向からうたっているからだ。ぼくらがこの歌を初めて聴いたのはこの歌をアルバム・タイトルにしたプランクシティの1973年のセカンドだった。アナログ盤A面のラストにクリスティ・ムーアのヴォーカルで収められている。そしてその後もしばらくはこれがこの歌の唯一の録音、少なくともぼくらの手に入るものとしては唯一だった。

1978年になって Topic Records から John Reilly の《The Bonny Green Tree》というアルバムが出る。ライリーはアイルランドのトラヴェラーで、1926年にリートリム州で生まれ、1970年にロスコモン州ボイルで亡くなった。その歌が残ったのは1969年に Tom Munnelly と D. K. Wilgus が録音したおかげだ。その録音からのセレクション14曲を収めたのが《The Bonny Green Tree》である。

トラヴェラーはアイルランドの放浪民で、本人たちはジプシー/ロマと同一視されることを拒むというが、その生活様式は共通している。定着民の伝統では失われた楽曲、とりわけ歌のレパートリィを伝えている点でもジプシー/ロマと共通する。

ライリーのアルバムも他ではなかなか聴けない歌が収められていて、〈The well below the valley〉もその1曲だった。この歌がアイルランドで伝統歌のうたい手、いわゆるソース・シンガーから録音されたのはこれが初めてである。歌の存在そのものはチャイルドのバラッド集第21番の1ヴァージョンとして知られていたが、マネリーによれば他のシンガーたちは、この歌を知っていても録音のために歌うのを皆拒んだそうだ。

クリスティ・ムーアはこのライリーの録音をレコードとして一般にリリースされる前に、何らかの形で聴いていたはずである。《The Bonny Green Tree》には〈The raggle taggle gypsy〉も、より原型に近い形で収められている。

歌詞の大元はキリスト教の聖書にも出てくるイエスとサマリア人の女の会話。説話として独立して伝えられたものらしい。巡礼の姿をとったイエスが谷間の井戸のほとりで1人の女性に水を一杯所望するが、女は断わる。イエスが、汝でも心より愛する相手には拒むまいと言うと、女は心より愛する相手なんかいないと答える。イエスは女が叔父、兄、父親との間に2人ずつの子どもをもうけているではないか、と指摘する。子どもはすべて地下に埋められている。その罪で地獄に落ちるぞとイエスが言い、女は神がお救いくださるだろうと願う。

マネリーも言うとおり、よくもこういう話が代々伝えられて現代まで残ってきたものと驚くが、一方で、実は近親相姦はそう珍しいものでもない、むしろ切実な問題の一つという事実の顕れでもあるだろう。アイルランドで時々、ニュースに出てきたりする。必ずしも相思相愛の関係というわけではなく、性的暴力、家庭内暴力を伴うこともある。あるいはむしろ、近親相姦という事象にあっては、相思相愛の関係は稀で、その大部分は何らかの暴力が伴う、一方的な関係なのではないか。そしてその結果を背負い、責任を追求されるのは常に女性の側だった。この歌にあっても、女性を妊娠させた父親、兄、叔父が地獄に落ちるとは言われない。

かつてのアイルランドではカトリック教会の専制のもと、妊娠中絶は認められていなかったから、強姦の結果の妊娠でも生まないわけにはいかなかった。相手が父親や兄や叔父でもその点は変わらない。むろんそういう子どもの成長は望まれず、生まれてすぐ地下に埋め込まれることになる。有名な〈The cruel mother〉に歌われている母親も、残酷な性質の持ち主というよりは、生んだ子を殺さないわけにはいかない事情があったのだろう。

プランクシティがこの歌をとりあげた動機は興味深いが、今、Devil’s Interval や、フランキー・アームストロング&マディ・プライアや、Pyewackett や、Mick West や、Pauline Scanlon や、Boiled in Lead や、その他、たくさんのうたい手がとりあげているのも、この歌の現代性、同時代性を示す。クリスティ・ムーアも歌いつづけ、ライヴ・アルバムに収めている。やはりムーアには先見の明があった。

今、オリジナルとしてこういう歌を作り、歌い、録音する者はまずいない。そんな歌は「ヒット」しない。バズらない。おそらく事情はいつの時代、どの地域でも同じで、こういう内容の歌が、同時代の歌として新たに作られることはなかったと思われる。こういう歌は伝承されてきたものとして、詠人不知の説話としてしか歌われず、語られてこなかった。一方で、こういう歌、話は必要ともされていた。そういう出来事を記録し、遠回しに告発するために、伝統歌を借りる。正面からは扱えない問題を搦め手から攻めるために、伝統という衣裳をまとう。これもまた伝統の働きであり、いつの時代、どこの地域でも伝統が必要である理由だ。

面白いのはアカペラ・コーラスや、アカペラに歌詞の無いバック・コーラスやバゥロン、ドローンなどを配する録音が多いことだ。クリスティ・ムーアもライヴではアカペラで始めて、途中から自身のバゥロンを入れる。そういう組立てを要求するものがこの歌にあるのだろう。

なお、Landoless のヴァージョンは他とは異なり、Liam Weldon が歌っているヴァージョン。ウェルドンはこれを外見は本物のジプシーよりジプシーらしいが、実際には単に住むところを奪われた人である女性から習ったとしている。ここでは近親相姦の話は出てこない。大元は同じイエスとサマリア女の話だが、複数の伝承があるのは当然だ。

また、イングランド版も伝わっているようで、パイワケットやフランキー・アームストロングたちが歌っているのは、歌詞はほぼ同じながらメロディが異なる。(ゆ)