歌の小径の散策・その19 なぜ歌を聴くか:おおしまゆたか

ライター:大島 豊

今年も八ヶ岳のアイリッシュ・ミュージック・フェスティバルに行くことができた。この年になると、予定通りに行動できるか、いつも冷や冷やである。今年は講師の一人が豊田耕三さんだったので、常連の本誌編集長 hatao さん、地元の須貝知世さんと合わせてフルート三傑が揃い踏み、フルーティストにとっては天国にも思えたのではないだろうか。土曜夜のペンションひまわりでのセッションは hatao さんと豊田さんがホストだったせいか、参加者にフルートが多く、フィドルが二人だけだった。もっとも豊田さんは半分はアコーディオンを弾いていたし、須貝さんは従来のコンサティーナに加えて、今年はハープまで手を拡げてきた。本朝でもマルチの人が増えている印象だ。あたしなりの詳しい報告は「クラン・コラ・ブログ」に書く予定。

豊田さんにはその1週間ほど前、別企画のためにいろいろと話を聞く機会があった。傍で聞いているだけで、たいへん面白かったのだが、中に一つ、あたしにとっては衝撃的なことがあった。近年、大学のサークルを中心に、若い世代でアイリッシュ・ミュージックに親しむ人が急増しているそうだが、その人たちは楽器演奏とダンスを同時に始めるのだそうだ。これは豊田さんが始めた芸大のGケルトでの方針でもあって、ダンス・チューン演奏にダンス体験は不可欠という認識からだそうだ。そしてそうやって始めた人は、まず例外なく、ダンスにハマる。理由は簡単。楽器演奏は名人に対面で教わったとしても30分では愉しいレベルまでは行けない。ダンスは達人と一緒に踊ると、30分で愉しさを実感できる。かくて、ダンスの愉しさからアイリッシュ・ミュージックに入った人たちにとってのスター、お手本はタラ・ケイリ・バンドになるというのだ。

あたしの場合かれこれ半世紀前、とにかく聴くところから始めたわけで、したがってスターはボシィ・バンドだったし、今でもそうだ。これはあたしだけの話ではない。その後のアイリッシュ・ミュージックのバンドにとってボシィ・バンドはまず第一のお手本であり、エミュレートするべき星、バンドのひな型だった。ほぼ全てのバンドはボシィ・バンドのフォーマットを踏襲するか、そのヴァリエーションである。アルタンもダーヴィッシュも、その点では同じだ。プランクシティやデ・ダナンがお手本にならなかったのはなぜかはまた別の話。ひと言だけ触れておけば、プランクシティはアイリッシュ・ミュージックの伝統からは外れた形式だから。デ・ダナンはもう少し複雑なのだが、アレック・フィンのブズーキがやはりアイリッシュ・ミュージックの常道からは外れていたことがポイントとあたしは見ている。

ケイリ・バンドはずっと後になってその存在を知り、聴くようになったが、ケイリ・バンドは録音だけ聴いてその音楽のキモがわかるようなものではない。実際にその音楽で踊ってみなければわからないだろう。そういうチャンス、いやその前にそういうことをやってみたいと思う人間が本朝に現れるには世紀が替わるまで待たねばならなかった。したがって、Toyota Ceilidh Band の出現とその本国でのフラー参加は、わが国の音楽史上、実に画期的な出来事だったのだ。

それはそれでいい。形はどうあれ、アイリッシュ・ミュージックに親しみ、どんどん奥深く探求していく人たちが増えるのは嬉しいことである。では歌をどう扱うか、ということがあたしにとって大きな問題になってくるだけのことだ。

ダンスとともにアイリッシュ・ミュージックに入れば、歌に関心を持つ余地はそこにはまず無いとみなければならない。しかし、アイリッシュ・ミュージックはダンス・ミュージックだけででき上がっているわけではないのである。音楽はどんなものでも総体的な活動だ。そのある一面だけを切出して親しもうとすると、どうしても歪んでしまう。商品として流通し、受容されることが前提であるジャンル、クラシックやポップス、ロック、ジャズなどではある部分のみでも楽しんでも、そう外れたことにはならない。商品として作られるプロセスで、背後関係が整理されるからだ。それでも、やはり総体として受けとめた方がそこから汲みあげられる楽しみはより大きくなる。アイリッシュ・ミュージックのような伝統音楽にあっては、話は別だ。一部だけをとり出して愉しもうとする時生じる歪みは、致命的なものにもなりうる。

アイリッシュ・ミュージックは異文化だ。我々とはまったく異質の感性、思考法の産物だ。その一部なりとも自分のものにしようとするなら、相手に対するリスペクトが必要になる。そしてリスペクトとは、自分が面白いと感じるところだけをつまみ食いすることではなく、相手をなるべく全体として、そっくりそのまま受け止めようと努めることである。

もちろんアイルランドのような比較的狭い地域のものであっても、伝統音楽の総体はとんでもなく大きい。アルタンのマレード・ニ・ウィニーがいみじくも言ったように、音楽はそれを生み、また日々生んでいる人間よりも遙かに大きなものだ。それを全部、まるまる呑みこもうと言うのではない。そんなことは不可能だ。そうではなく、音楽、とりわけ伝統音楽は、目の前にあるものだけで完結できるものではないこと、それはあくまでも総体の一部であって、背後に把握するのが難しいほど大きく拡がっていることを常に忘れずにいよう、というのである。そして可能なかぎり、親しんでいる部分を広げていこう、というのである。そうすることで、既に親しんでいる部分により深く親しむことも可能になる。あえて言えば、そうしなければ、歪みは拡大し、いずれはまったく別のものになる。自分としてはアイリッシュ・ミュージックの真髄に近づき、その一部なりとも実践しているつもりでいても、実際には似ても似つかぬものになっている危険性すらある。

これがいわばアナログ的なアプローチであることは承知の上だ。生まれた時からスマホに親しみ、インターネットにつながっているデジタル世代にとって、ひどく遠回りで、非効率で、面倒くさく感じられるだろう。自分にとって関心があるもの、面白いと感じられるものに脇目もふらず真直ぐに突込んでいって、何が悪いか。

悪いことは何もない。ただ、突込んでゆくその対象はそれだけが独立してあるわけではない。ずっと大きなものの一部としてそこに見えているにすぎない。見えているその切り口は、あなたにとっては輝いてみえるかもしれないが、それだけがとりわけ突出して優れているわけでも、本質的に他よりも面白いわけでもない。そのことを忘れてくれるな。忘れると、後々、苦い思いをする危険性があるよ。なぜならば、人間の活動、文化もその一部である人間の活動は本質的にアナログだからだ。とりわけ音楽はアナログだからだ。実際に肉体を使っておこなわれるものだからだ。

AI に頼んでアイリッシュ・ミュージックを見事に演奏させることは可能だろう。それで満足できる、あるいは充分な場合もあるだろう。それもまた音楽の愉しみ方の一つになっていくだろう。しかし、音楽はそれだけですんでしまうようなものではない。AI にアイリッシュ・ミュージックを演奏させるのは、音楽の新たな愉しみ方の一つにはなるが、人間の音楽活動に入れ替わるものではない。

そこで歌である。歌はアイリッシュ・ミュージックの不可欠の一部である。ダンス・ミュージックと並んで、いわばもう半分を担う。歌があってこそのアイリッシュ・ミュージックなのだ。ダンサーは皆歌を聴いている。ケイリ・バンドのメンバーも皆歌を聴いている。それは各々のダンスに、演奏に、各々に影響をおよぼす。

見方を変えよう。もし、ダンス・チューンの演奏に、ダンスに、何かが足らない。あるいは、本場の演奏やダンスにどうしても追いつけないと感じるならば、あなたはたぶん歌を聴いていないのだ。充分に聴いてはいないのだ。

一方で、ダンスとケイリ・バンドからアイリッシュ・ミュージックに親しんでいる人に歌を聴いてもらうには、それなりの工夫もまた必要だ。どうやればいいか、五里霧中というのが正直なところである。(ゆ)