アイリッシュ・ミュージックの100枚・その5:おおしまゆたか

ライター:大島 豊

006. Paul Brady, Welcome Here Kind Stranger;
前々回で触れたマーティン・ヘイズが初めて来日した時、鎌倉に住んでいる音楽ライターM氏の自宅でマーティンとデニスを歓迎して鍋パーティーをするから来い、という誘いを受け、喜んで飛んで行った。鍋そのものをつついた記憶はまったく無いのだが、マーティンとは親しく言葉をかわすチャンスを得た。どういう風の吹回しでそうなったのか、前後はまったく覚えていないが、話題がアイルランド伝統歌のうたい手の話になった。あるいは Darach Ó Catháin について何か訊ねたのかもしれない。そしてマーティンが伝統歌のシンガーとして現役でナンバー・ワンはこの人だと言って譲らなかったのがポール・ブレディである。あたしが Tim Dennehy とか、Jimmy Crowley とか、Len Graham とか、ドロレスの弟の Sean Keane とか、Tim Lyons とか、思いつくままにいろいろ名前を挙げても、みんないいシンガーだが、ブレディにはかなわないと言うのである。そして、あたしもまた結局それにはうなずかざるをえなかった。

これはそのブレディのソロ・ファーストである。むろんこの前にアンディ・アーヴァインとの共作があり、シンガー、ポール・ブレディの姿はすでに確固たるものだが、アンディとの共作はやはり互いに共鳴しているところがある。これは初めてのソロとして、いわば混じり気なしのブレディだ。そしてその長いキャリアにリリースしてきた数多いアルバムの中の頂点でもある。

トミィ・ピープルズのフィドルにマンドリンで合わせるダンス・チューンのトラックも含めて、選曲にもアレンジにも、そして歌唱にもまったく隙がない。歌詞の行末で歌いぬける声のゆらぎ、ギターの細かな挿入音にいたるまで、聴きとって味わうことができる。後にブレディの看板になる〈The Lakes of Ponchartrain〉はやはりすばらしいが、アナログ盤ではB面3曲目、無伴奏で唄われる〈Young Edmunds in the Lowlands Low〉の歌唱には、何度聴いても聴くたびに背筋が寒くなる。

ブレディはこのアルバムを発表した時、すでにベテランである。ジョンストンズのメンバーとして、また伝統音楽のギタリストとして、キャリアを積んできていた。ギタリストとしてミホール・オ・ドーナルと並ぶ双璧だった。マット・モロイ、トミィ・ピープルズとのトリオのアルバムはいずれ「百枚」でとりあげることになるだろう。トミィ・ピープルズの最初のソロ、Andy McGann とのアルバムはストリーミングで聴ける。

かれはアイリッシュ・ミュージック出身のミュージシャンとして、おそらく商業的に最も成功した存在と言える。その成功は主に伝統音楽以外の分野でのものだが、一方で伝統歌のうたい手としても認められていることは、マーティン・ヘイズの評価だけでなく、昨年、トミィ・ピープルズ、ドーナル・ラニィに続く伝統音楽畑からの3人目として Aosdána に選ばれたことにも現れている。ここがブレディのアーティストとして面白いところだ。売れたというのはあくまでも結果であって、売れたこと自体はかれの地位、シンガーとしての地位、ソングライターとしての地位、ミュージシャンとしての地位を上げることに直接は結びつかない。ミュージシャンとして優れていると誰もが認めることがまず第一で、売れたことは副次的な意味しかもたない。先月のミオール氏の記事にもあるように、アイリッシュ・ミュージックはコマーシャリズムにはどうしても乗らないところがある。アイリッシュ・ミュージックの魅力と生命力の源泉もそこにあるので、商業的成功に左右されないブレディの生き方は伝統音楽に己の出自を認めているが故と見える。

このアルバムには「裏」の、または「コンパニオン・アルバム」と言ってもいいものがある。2001年に出た《The (Missing) Liberty Tapes》だ。1978年07月21日に、The Liberty Hall で行なわれた、このアルバムのレコ発ライヴを収めたもの。長い間行方不明になっていたテープが発見されてリリースされた。フィドルはトミィ・ピープルズの替わりにパディ・グラッキンだが、ドーナル・ラニィ、ノエル・ヒル、アンディ・アーヴァインはいるし、マット・モロイとリアム・オ・フリンも参加している。スタジオ盤との歌唱、演奏の違いを探すのも良し、当時のこうした人たちのライヴ録音そのものも貴重だ。今のブレディはこういう歌唱をしない。あるいはできない。アンディ・アーヴァインとの共演盤、スタジオ盤、そしてライヴ盤は巧まずしてできた三部作としても聴ける。アイリッシュ・ミュージックがコマーシャリズムに最も接近し、そうすることでおそらく他の方法では不可能だったろう高みに到達した成果がそこにはある。

007. Mick O’Brien & Caoimhín Ó Raghallaigh, Kitty Lie Over;
The Gloaming のメンバーである Caoimhín Ó Raghallaigh はアイリッシュ・ミュージックで現在最も活動的なミュージシャンの一人だ。基本はフィドラーだが、The Gloaming ではハーダンガー・ダモーレという創作楽器を操り、バンドに特有のカラーを付けている。伝統には無いはずなのだが、その音は伝統音楽の確固とした要素のひとつであったとしてもおかしくはないと感じさせる。この人の録音には現代において伝統音楽を演奏することの根源的な意味を問いなおす姿勢が見える。伝統には元々無いはずのものを持ちこんで、伝統そのものを一度相対化した上でなおかつそれでも演奏するに値する楽曲と様式を探る。一方でかれは非常に幅広い音楽をやっていて、クラシックの現代音楽に属するものまである。The Gloaming もオ・ライアラにとっては、伝統音楽相対化の実験の一つとも思われてくる。

これはそのオ・ライアラのアイリッシュ・ミュージック演奏者としての出発点であり、21世紀におけるアイリッシュ・ミュージック演奏の最高の姿の一つを聴かせる。これだけの演奏ができる音楽家がやるからこそ、相対化が意味をもってくる。パイプとフィドルのデュオということでは、Ronan Browne & Peter O’Loughlin のアルバムに通じる。パイプはどちらもフラット・ピッチ。聴比べてみれば、いろいろと発見があるだろう。基本はパイプとフィドルのユニゾンで、ホィッスル2本、ホィッスルとフィドルのトラックもある。

あたしがこれを良いと思うのは速すぎることの無い絶妙のテンポがまず一つ。そのテンポに乗って流れてゆく楽器の音の安定感が一つ。そして、演奏はもちろんだが、その上に選曲から組合せ、トラックの並べ方にまでユーモアが底にあること。ととにかく理屈をつけてみたものの、しかし、良い録音とダメな録音は聴けば明瞭にわかるものだ。どこが違うのか説明しろと言われるとどうにも困るが、違いは誰の耳にも否応なくわかるはずと思えるくらい鮮明だ。初めて聴いて、録音が良いか悪いか、即座にわからないのは、聴く量が足りていないのである。このアルバムも最初のトラックを聴けばわかるし、聴きかえすたびにますます良くなる。

ミック・オブライエンは1961年ダブリン生まれ。レオ・ロゥサム門下、13歳でデビュー・アルバムを出し、様々なミュージシャンと共演し、放送に出演し、ヨーロッパ大陸をツアーし、1996年《May Morning Dew》を出す。これも傑作だ。2023年には the Gradam Ceoil TG4 Awards の最優秀ミュージシャン賞を受賞している。

二人は8年後、再びデュオのアルバム《Deadly Buzz》を出す。これも本作に勝るとも劣らない、むしろ凌ごうかという出来だ。合わせて聴かれることを薦める。(ゆ)