アイリッシュ・ミュージック、ケルティック・ミュージックを中心としたヨーロッパのルーツ音楽についての情報、記事、読物、レビューをお届けする月2回発行のメールマガジン「クラン・コラ」。
当ブログにて、不定期にバックナンバーをお届けします!
クラン・コラ Cran Coille:アイルランド音楽の森 Issue No.257
- アイリッシュ・ミュージック・メールマガジン 読み物編
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Editor : 竹澤友理
October 2017
こんばんは!雨が続いていますね。
まるで梅雨みたいですが、風はすっかり冬の気配をさせているこの頃、いかがお過ごしでしょうか?編集者は体調を案の定崩し、崩しつつもライブに出たりなんだりしておりましたので、余計にこじらせております。みなさまお身体はご自愛くださいませ!
さて。クラン・コラ発刊から今月で1周年。いつものEditor’s Choiceのコーナーも拡張してみました。ライターの皆様、今月もご協力ありがとうございました。お楽しみいただけたら幸いです。(たけざわ)
ポップス or トラディショナル:field洲崎一彦<
先日のセッションでのこと。fieldセッションの黎明期のメンバーだったH氏がやって来た。他の参加者は皆若者達で、彼はとてもリラックスしたセッションを楽しんでくれた様子で、そんな中で彼が出したセットがすごく懐かしいチューンだった。15年以上前にfieldセッションで良く出た曲。思わず、懐かしいなあと彼が言って私も大きく相づちを打った。
結局、fieldセッションは今年で17年目になるのだが、やはり、その時その時でよく出る曲もあれば知らないうちにあまり出なくなる曲もある。ある意味、なんとなくその時の流行みたいな曲が出現してくる。
fieldセッションは特にホストが決まっていないから、セットを始める人は基本的に任意だ。だから、面白い曲を仕入れて来た人は、これは、誰も知らないかもしれないなと思っても、ええい!とやってしまう。そんな勇者が、その時その時で登場して来るのだ。
自分が出したチューンがその場の誰もが知らない場合は、ソロプレイになってしまう。ちょっと気まずい感じと緊張感が走る。それでも、めげずに何度も出していると、その内に、これを覚えてくれる人が出て来る。そんな輪が広がった時にそのチューンは定番チューンとして定着する。そうやってなんとなく、その時々の流行みたいなものが出てきてしまう。長い目で見ると、セッションはこういうふうに生き物のように動いている。
H氏は、何度もアイルランドに行ってる事情通である。この間もアイルランド周辺をうろうろしてきたそうだ。それで、アイルランドのパブのセッションでもこういうその時々の流行みたいなものがあるのか?とたずねてみた。
それは、やっぱりあるけれど、それよりも、何と言うか、ポップスとトラディショナルの違いがはっきりある、と彼は言う。この、ポップスとかトラディショナルという言い方は彼が考えた便宜上の呼称だということだが、つまり、ルナサやフルックなどのメジャーなバンドの曲ばかりをじゃんじゃんやるセッションには見向きもしない一群がいるのだと。彼らは彼らで、自分達のセッションを持っていて、その土地、土地の伝統を重んじた曲を淡々と楽しむスタイルなのだという。
前者をポップス、後者をトラディショナルと、H氏は便宜上そう呼ぶ。
そして、ポップスの人はトラディショナルのセッションには同じく見向きもしないと、こういうわけなのだと聞くと、彼ら同士は反目し合っているのかなと考えてしまうが、どうも、そうではなくて、違うジャンルの音楽として区切られているということらしい。
なるほどなと思う。今から20年近く昔というと、今のようにYouTubeもないし、曲を知る材料のメインはCDだった。一部のコアな人々は現地に足繁く通って曲を覚えて来たり輸入盤のLPやCDをむさぼるように入手していたのだと思うけれど、私たちには少し前の時代に流行したワールドミュージックの名残りでCD屋さんに残っているCDが最も身近な音源だった。ちなみに、私が初めて耳にしたアイリッシュダンスチューンはケヴィンバークのソロアルバムだったし、始めてアイリッシュのバンドを作って演奏したのはダーヴィッシュのコピーだった。だから、その流れで始めたセッションも当初はそういうバンドのCDに入っているセットをそのまま演奏したりするのが普通だった。
それを思い出すと、さしずめあの頃のfieldセッションは完全にポップスだったわけだ。
確かに、現在のセッションで、若者達にチューンを始めてもらうと、時折、え?そんな曲どこで覚えたの?というような珍しいチューンが飛び出すことがある。たずねてみると、YouTubeで知ったという。
そうなのだ、彼らはYouTubeでランダムに曲を聴いて自分が気に入ったものを弾くという、非常にシンプルな事をしているのだ。これは、でも、非常に純粋な行為ではないか。自分が気に入った曲をただ弾くのだから。
が、そこには、この曲はどこそこのセッションで誰々に教えてもらった、等というようなストーリーがその背景に全く存在しない。
そう考えると、たとえ、その曲がアイルランドのとある地方の一部のパブだけで演奏されているようなコアなものであったとしても、そこには、伝統というものの仕組みというかアプローチが存在しないわけで、気に入った曲を見つけたので弾いてみた、という、これもまた、姿勢としてはポップスであるという事もできる。
この10年くらいの流れではあるのだが、日本のアイリッシュファンも積極的にというか手軽にというかどんどんアイルランドに渡って現地の音楽を体験して来るようになった。そんな中で、やはり、現地の伝統音楽のあり方と日本でのあり方の違いに戸惑う人もいれば、日本の状況に失望さえする人達も出て来た。また、なんとなく、現地経験者とそうでない人達に、地下でうごめく暗黙の溝のようなものを垣間見る場面もある。
が、依然として我がfieldセッションもしかりで、今や日本国中でくりひろげられるセッションは、現地で言うところの、ポップスとトラディショナルが入り交じった闇鍋の如し、であるわけだ。
だから、いっそ、H氏が名付けた、ポップスとトラディショナルというジャンル分けを日本でも採用してはどうかと思うのである。違うジャンルのものとしてしまうのだ。なんとなく地下でうごめいているものを地上に出してしまう。
愛好者人数が多い地域では自然にこのジャンル毎に分かれたセッションが形成されるだろうし、愛好者人数が少ない地域ではお互いのジャンルの違いを尊重し合った平和なセッションが出来上がるのではないか。そんな事を妄想した。
ちなみに、現状のfieldセッションは、形としてはトラディショナルですが、姿勢としてはポップスかな、というような感じです。たぶん、現状では日本一敷居が低いセッションだと思いますよ。(す)
★Editor’s Choice1.ハンマーダルシマーでアイリッシュを弾く:Makoto Kitamuki
以前ここにコラムを書かれた矢吹さんのフィドルレッスンが終わった後、「北向さんもコラムを書いてみたら」と勧められ、その縁で一席ぶたせてもらうことになりました。先生の言うことにはサカラエマセン…。
さて、私はハンマーダルシマーでアイリッシュのダンスチューンをよく弾いていますが、多くの方にすれば、「ハンマーダルシマー?なにそれ美味しいの?」といった感じでしょう。ダルシマーについては多くの解説や動画がアップされているので詳細は割愛しますが、一つ言えることは、この楽器はアイリッシュ界では超マイナーな楽器です。ではなぜこの楽器を選んだのか?理由は簡単。誰でもすぐにきれいな音色が出せるからです。きっと読者の皆さんも、このエキゾチックな音色を聞けばすぐに魅了されることと思います。
アイリッシュミュージックという沼にハマり始めた頃はまだ情報が少なく、この楽器もアイリッシュミュージックでよく弾かれる楽器だと勘違いしていました。しかし勘違いも突き詰めれば面白いもので、今ではセッションに参加させてもらったり、越谷の知り合いのお店でセッションを運営したりしています。さらには5回にわたるアイルランド旅行、そして今年、アイルランド最大のフェス、Fleadh Cheoil(フラー=キョール)のコンペティションに出場させてもらいました。もちろんダルシマーは「その他部門」です。入賞こそかなわなかったものの、この音色がアイルランドで受け入れられたのは嬉しい限りでした。
実はハンマーダルシマー、アイルランドでもほとんど知られていない楽器です。特に音楽をやっていない人達で、これを知っている人にはほとんど会いませんでした。そんな楽器ではありますが、実はダルシマーは昔のセッションにも使われて「いた」という記録があります。しかし楽器が大きすぎて狭いパブでは場所をとること、持ち運びが大変なこと、速いテンポのセッションではついていくのが難しいこと、そして楽器の大きさの割に音が小さいことが考えられます。以前ある集まりで私の演奏の録音を聴いた時、ティンホイッスルにかき消されていたのには苦笑しました。なるほど、アイルランドで廃れた理由がわかります。しかし、ダルシマーがアイルランドで全く弾かれていないわけではありません。北アイルランド、Co. Antrimには奏者が何人かいるそうです。今年の旅では、そんな奏者の妹(姉?)さんのお世話になりました。
これからもこのダルシマーを担いでいろいろなセッションに参加するつもりでいます。もし運悪く私に出くわしましたら、これも運の尽きと思って一緒に遊んでくれると嬉しいです。たまにはイレギュラーな楽器と遊ぶのも悪くないですよ。また、北越谷の「おーるどタイム」という喫茶店でも毎月最終金曜日(プレミアムフライデー?何でしたっけ?)の夜にセッションをしています。ぜひ遊びにいらして来てください。
★Editor’s Choice2.アイリッシュとの出会い:曽武川のえる
はじめまして!
わたしは横浜に住む曽武川のえる と申します
今 17歳です
わたしがフィドルを始めたきっかけは 母の持っているCDからでした
それはアイルランドのロックバンド WaterBoysのFisherman’sBluesという曲でした
この曲の最初に楽しげなバイオリンが入っているのです
幼稚園に入る前でしたので それがフィドルだということもわからず 気に入って何度も何度も聴いていました
母もロック一筋でしたので アイリッシュもフィドルも知りませんでした
「ずいぶん元気のいいバイオリンだね」と母と言ってたのを覚えています
わたしが通っていたのはシュタイナー学園という少し変わった教育をしている学校でした
習い事は5年生から先生から勧められてチェロかバイオリンを選ぶのですが わたしは先生からチェロを薦められましたが どうしてもFisherman’sBluesの最初のバイオリンが忘れられず、その頃また丁度良くあのバイオリンはアイリッシュ音楽のフィドルだということもわかったので 迷わず わたしはフィドルを始めることにしたのです
まずインターネットでフィドルを教えてくれる先生探しからでした
バイオリンの先生はアチコチたくさん居るようでしたが フィドルとなると なかなか家の近くには 居ませんでした
インターネットで探して一番最初に見つけたのが 当時、中野に住んでいた ジム・エディガー先生でした
ジム先生に連絡を取って初心者からでも教えていただけるか 聞いてみましたら ジム先生も初心者から教えるのは初めてですが やってみましょう!とおっしゃってくださいました
わたしは楽譜を読むのが苦手なので ジム先生に弾いてもらった録音を聞きながら真似をする いわゆる耳コピーという方法で教えてもらいました
思えば横浜から中野まで 毎週 よく通っていたと思いますが それほどフィドルにのめり込みました
家の事情から 中野に通うのが困難になり 大渕愛子先生に教えてもらうようになりました
愛子先生には 楽譜の書き方を教えてもらいました
イロイロな意味でわたしの憧れの先生です
愛子先生から卒業だと言われたときは 嬉しさより寂しさが大きかったです
でも 何か質問や解らないことがあれば いつでも言っておいでと 言われています
まだまだ 師匠達には追いつけませんがこれからも みんなが幸せになるような演奏者を目指して 頑張ります!
★Editor’s Choice3.僕にとってのケルト音楽:高橋 創
僕は2010年から今年の6月末まで約7年間アイルランドで過ごしてきたけれど、周りであまりケルトという言葉は聞かない。僕もケルト音楽ということをあまり意識したことはないのだけれど、そんなに単語にこだわる必要はないと思うし、アイルランド音楽に関わらず、僕にとって音楽をすることは、体験することとその体験の記憶を再現することだ。つまり僕にとってのアイルランド音楽は、直接僕がアイルランドとその他訪れた地で体験したことすべてと感じる。
それは友人といっしょに7年前のあの日古いアイリッシュミュージックの音源を聴いたこと。それはもう二度と行かないかもしれない場所で、もう二度と会わないかもしれない人たちが集まってセッションをしたあの夜。何百人もの前でステージで演奏したこと。一人で寒い部屋で凍えながら珈琲を飲んだ日。毎晩のように友達とクラブに行って踊っていたこと。一人で長距離バスに揺られた数え切れない日々。酔っ払った友達と夜サイクリングに行ったこと。落ち込んだ友人の話を聞いたり、僕の話を聞いてもらったりした時間。それはあの時ステージで感じた興奮。
音楽をジャンルで説明したり、技術を言葉で説明することは可能だけれど、本質はその説明の中にないことがほとんどだと思う。技術や知識は体験から得られるもので、僕にとっては体験して感じたことにだけに意味がある。技術や知識、もっと言って伝統ということを特別に意識するということはあまりない。むしろ自然に古い音源に耳を傾けて細部まで聞き込んだり、友達と音楽について語り合ったり、一人で曲を練習してみたり、いいプレイヤーから教えてもらったり、いろんなところに旅をしたり。それら全てが体験として僕の中にあり、そういうこと全てが作用してそこに音を出すこと、それが僕にとっての「音楽」だ。だからこれからも、人生の体験とともに僕の「音楽」は変わり続ける存在で、尽きない魅力を感じずにはいられない。
僕は今年から日本で時間を過ごすことが多くなるのだけれど、僕が音楽をするときにその感覚はずっと大切にしていきたい。演奏するのはアイリッシュミュージックかもしれないし、別のものかもしれないけれど。今までアイリッシュミュージックでは表現しきれなかった微妙な気持ちや、焼き鮭を食べたくなる感覚なんかから出てくる音を出してみたい。アイリッシュミュージックはいろんな人の思いや生活そのものだと思うし、僕も自分の体験や生活から生まれる音を大切にしていきたい。そのことを僕に教えてくれたのがアイリッシュミュージック。
Guest Writer : モーセン・アミニと、コンサーティーナのお話など:吉田文夫
ユーチューブ等の動画で注目されている方も多いかと思いますが、スコットランドの若きアングロ・コンサーティーナ奏者モーセン・アミニ(Mohsen Amini)の演奏は、この楽器のイメージを変えてしまうのでは、と思えるくらいのインパクトがありますので、ミーハー的にご紹介させて頂きます。2016年にBBC Radio Scotland Young Traditional Musicianに選ばれた彼の関わってわっているバンドは、やはり数々の賞に輝いたTaliskをメインに、Imar,、Fourth Moon等々、また各バンドからの抜粋メンバーを従えてのソロ活動も展開中です。Talisk、Imar、の2バンドはアルバムも出ています。彼のコンサーティーナ演奏を聴くと、アイルランド伝統音楽の奏法が基本にある事が良く解りますが、一つ一つの技巧的なレベルがとても高くて先ず驚かされます。なお且つ、現代の先鋭的な作曲家達から強く影響を受けた、という自身の音楽的指向からもうかがえる通り、アドリブ的な展開やアレンジメントも斬新で、聴けば聴くほど引き込まれます。もちろん彼だけでなく、各バンドのメンバーも非常に魅力的な面々で、中でも、よりアイリッシュ的な編成のバンドImarは、5人全員がグラスゴー在住ながら、2人のマン島出身者と、一人はアイルランド人(イリアン・パイプス)、モーセン自身もイラン系スコットランド人、というユニークな取り合わせで、特に注目されています。マン島の音楽とアイルランドのコーク周辺の音楽にはルーツ的な繋がりが深いとの事で、スライドやポルカを好んでレパートリーにしている点も面白いです。
スコットランドは元々伝統音楽の盛んな地域である事に加えて、近年、伝統音楽を学ぶ若者たちを集めて、専門的な教育を施す機関が増えつつあります。優れたガーリック・シンガーである、Rachel Walker, Julia Fowlisや、やはり若手で活躍中のBarluathというバンドのメンバー等、多くの卒業生達を輩出しているグラスゴーのRSAMD (芸術専門学校)を始め、スカイ島に近いPloktonという地の高校では、寮も完備した設備を整えて、全国から腕に自信のある生徒たちを集めて、プロを目指す若者たちを指導するという試みが10年以上前から続けられています。つい先頃、この高校の卒業記念アルバム(?)的CDが発売されましたが、なかなか素晴らしい内容でしたので「ケルトリップラジオ」でも少し紹介させて頂きました。そんな彼らが必修的に演奏するのはアイルランド音楽で、自国スコットランドの音楽だけを、という人は少数派の様です(ハイランド・パイプは除く)。グラスゴーで生まれ育ったモーセン・アミニも、周りのアイリッシュを好む仲間達と共に演奏を重ねるうちに、本場アイルランドでの、フラキョールを始めとした数々のコンペティションで、頭角を現す存在になっていったと思われます。
アイルランド伝統音楽界では、CCEの長年に渡る活動に依って、かなり前からエリート的な演奏家を量産していて、こういった傾向や、コンペティション自体にも賛否両論はありますが、特に若い演奏者のモチベーションを高めている事は間違いないと思います。UK、北アメリカは言うに及ばず、ここ日本にもCCEジャパン東京支部が出来て、最近では先述のフラキョールも普及しつつあります。この6月にはそれに関連したFeile Tokyoという体験型のイベントが開かれ、講師として参加されていたコンサーティーナ奏者ノエル・ケニー氏によると、ダブリンの音楽一家で育った彼が子供の頃(1960〜70年代)、周りにコンサーティーナを弾く者はあまりいなかったそうで、自分が、フィドルやフルートではなくコンサーティーナを選択したのは、クレア等、西海岸のレジェンド的プレイヤーの演奏に感激したからとの事でした。また伝統音楽界全体も、彼の様な音楽一家に育った人達以外には、あまり見向きもされていなかったのが、1970年代にPlanxty, Bothy Band等が現れてから、一般の、特に若者達の注目を集める事になり、状況が大きく変わったという事を語られていました。その後CCEの活動も相まって、アイルランド音楽のブームが全世界的に静かに広がって行き、今日の隆盛に繋がっていったと言えるのでしょう。ノエルさんは、クレアのミルタウン・マルベイで、1973年から続けられているウィリー・クランシー・サマー・スクールを始めとした、夏場に開催されるイベント時の様子を捉えて「当時はバウロンを抱えている若者が目立ったが、今は皆がコンサーティーナを抱えて歩いている」とも表現されていました。
モーセン・アミニに話を戻しますと、伝統音楽が上手さだけを競う音楽でない事は充分承知しているつもりですが、これまでも各時代に、それぞれの楽器(歌を含む)の達人たちのパフォーマンスに依って育まれて来た事も事実だと思いますので、先述のノエルさんが少年時代に、先人のヒーロー的コンサーティーナ奏者達の演奏に感銘した様に、モーセン・アミニも新時代のレジェンドとなって、世界各地で新たな演奏者達を増やす存在になると想像すると楽しくなります。
Mohsen Amini HP:https://www.mohsenamini.com/
ざっくり学ぶケルトの国の歴史(6)ウェールズの誤算、スコッツの意地:上岡 淳平
時は1200年ぐらいのお話、ノルマン人がイングランドを支配していた時代、彼らはそれまでなんとなくフワッとしていたウェールズの領土にも目を付けた。
どうも政治的にまとまることに抵抗があるウェールズ人たちは、特に「ウェールズを独立王国に!」ということには力を注がなかったけれど、イングランド側からの攻撃があると即座に反抗。
そんな時勢の中で、ウェールズを統合しようとする人たちもちょくちょく現れた。でもお国柄なのか、それほどうまくはいかなかった。
それに国境付近では、絶え間なくイングランドが攻めてきて、力のない村々はあっさり降伏。勢いに乗ってイングランドが攻め入ると、逆に奥地では頑強な村がたくさんあったのでイングランド軍を敗走させることに成功。そんな一進一退の攻防が続いていたんだけれど、その混乱に乗じて、サクサクっとそれら全ての村を支配下に置くことに成功したおじさんが現れた。
攻め入るイングランドには徹底抗戦し、逃げる敵も容赦なく斬り捨てる!さらに数多くのお城の建設や戦術訓練、ウェールズ教会の整備など、国の中から大改革を行った。
果たしてウェールズ統一を目前にしながら、おじさんが死去。(あら)跡を継ぐ息子が、残念なことにカリスマ性もリーダー資質も全く持っておらず、あえなく失墜。(あらあら)
それでも、さらにその息子の代には、再度復興に力を入れた。
ここで、ウェールズの独立がある程度認められたもんだから、ちょっと天狗になった三代目。
度重なるイングランドからの要請をことごとく拒否。そんな態度がイングランドの怒りを買い、後に手痛いしっぺ返しを食らう羽目になってしまう…
イングランドの方はというと、がんばってみたり、権力争いで自滅してみたりしながら、いつも通りごにょごにょやっていた。そんな中で王様になったエドワード1世くんは、なかなかの強烈キャラで、手始めに外国人を全員追っぱらってしまった。(フランス激おこ)
そしてこのところ反抗的な態度をとっていたウェールズを敵と定め、その親玉を殺害。サクッととイングランドの一部としてしまった。その親玉がレヴェリンといい、今でもウェールズ独立運動の際、祭り上げられている人物なんだって。
さぁ、エディは勢いに乗って北の問題児にも同じ手をつかった。もちろんスコットランドだ。そして同じく親玉のウィリアム・ウォレスをひっ捕らえて、またしても殺してしまった。(映画「ブレイブハート」の時代ですね)それでもなお、粘るスコットランドを完全に打ち負かすことはできなかった。
ちなみにアイルランドとイングランドの間の海に浮かぶ、同じくケルト人が多く暮らすマン島もこの頃イングランドに統合されてしまう。
エドワードが3世を数えるまでの間に、スコットランドはイングランドを攻撃、歴史的な勝利を収めた。その後も、地道な独立への抵抗をつづけ、1328年にはついに独立を果たした。
イングランドがスコットランドに負けたのには理由があって、この世代の王様たちが全員戦争が好きすぎて、宿敵おフランスとの百年戦争に熱中、北は手薄になっていたんだね。
で、運の悪いことに、そんな戦争の真っ只中でとんでもない病気「黒死病(ペスト)」が流行りはじめ、国民の大半が死んでしまった。そして黒死病は、スコットランド、そしてアイルランドへと感染を広めていった。
ちなみにアイルランド島では元々その地に住んでいたアイルランド系ケルト人は、散々いじめられて田舎に追いやられていたのであまり被害を受けなかった。
逆に、都心部に集まっていたイングランド人やノルマン人(fromフランス)たちは大きな被害を受け、一時期、英語圏がかなり縮小したと言われている。
まぁ、そんなことがあったら当然、兵士の補充も効かなくなり戦争は劣勢に。(ジャンヌのダルク姐さんのお話)
ウェールズとマン島がイングランドに併合されたり、インフルエンザが流行ったりした1330年ごろのケルトなお話をしたところで、続きはまた次回。
連載:欧州伝統音楽の旅 第三章 伝統楽器をもっと身近にしたい! 楽器店が開店します。:hatao
クラン・コラの読者の皆さん、こんにちは。笛のhataoです。このメルマガの読者の方の中には実際に自分でも楽器を演奏する方も数多くいらっしゃることと思います。皆さんは、どのように今の楽器を手に入れましたか? 今回、私は学生時代以来、久しぶりにヨーロッパを70日間長期旅行し7か国を回りましたが、その最大の目的は、各国の楽器工房・楽器店を訪ねることでした。これまで音楽についての旅行記をお送りしてきましたが、今回のエピソードはヨーロッパの楽器工房のお話です。
私は演奏やレッスンの傍ら、「ケルトの笛屋さん」という楽器通販店を経営しており、来月11月21日に、京都で実店舗を開くことになりました。これまではティン・ホイッスルやアイリッシュ・フルートなどの管楽器を専門的に取り扱ってきましたが、店舗では総合的なケルト伝統音楽のショップとして、あらゆる種類の楽器とCDや本を取り扱う予定です。
私は笛の知識には自信があったのですが、弦楽器・蛇腹楽器・打楽器についてはまったくの素人です。そこで、現地に飛んで、あちらの演奏者がどのような楽器を使っているのかをリサーチし、できれば楽器店や工房を訪れて仕入れの糸口をつかみたいというのが旅の大きな目的でした。また、楽器店の陳列方法やインテリアにも興味がありました。
アイルランドでは、日本でも有名なMiltown Malbayのウィリークランシー・サマースクールに行きました。ここではアイルランド各地から楽器店がいくつも出店します。ここでMcNeelaという新しい楽器メーカー/小売店の社長にお話しを聞くことができました。エニスでは有名なCusty’sに立ち寄り、Johnさんから親切にも仕入れ先や価格や売れ筋の商品などの具体的なお話をしていただきました。ダブリンの楽器メーカー/小売店Waltonでも、社長にお会いして仕入れの約束を取り付けました。どのオーナーもとても親切に相談に乗ってくださいました。
これらの楽器店に共通しているのは、安い価格帯の楽器は中国で生産したものを取り寄せているとのことでした。複数台仕入れるなら、自分のロゴを付けて製造してくれるのだそうです。ですから、WaltonもMcNeelaも、オリジナル商品のように見えて、実際は同じ中国の工場という可能性もあります。
もちろん、アイルランドやヨーロッパ大陸には個人工房の楽器製作者も数多くありますが、仕入れが安定せず価格も高いため、小売店でたくさん販売するには向かないとのことでした。それに、楽器の需要は子供が一番多く、親が最初からそこまで高額な楽器を買い与えられないので、まずは3〜5万円くらいの楽器で様子を見て、子供に適正がある場合はハイエンドの楽器にステップアップするケースが多いのだそうです。確かに、コンサーティーナは安物の楽器を使っている子どもが多かったようです。
その後、ドイツのハンブルグにある、民族楽器の通販店Folk friendsをたずねました。ここでは、私と同い年の社長がアポなし訪問にもかかわらず熱烈に歓迎してくださり、夕食までごちそうになってしまいました。この会社でもやはり中国やパキスタン製の楽器を取り扱っていますが、この会社の良い部分は、そういった楽器を一度改良してから販売していることです。
というのも中国やパキスタン製の楽器はフレットが狂っていたり、弦高が弾きにくかったり、ハープのレバーが悪かったりするため、そのままではドイツ人の高い要求にはこたえられないのだそうです。そこで、楽器職人を3人常時雇って、輸入した楽器に手を加えて販売するのだそうです。
私の店でも、アイルランドに倣って中国製の楽器を取り扱おうかと考えていましたが、品質には不安がありました。そこでバンジョー、マンドリン、ブズーキはこの会社で一度調整したものを輸入することに決定しました。バウロンは個人工房から直接輸入する方向で考えています。アコーディオンとコンサーティーナ、ハープやハンマーダルシマーは現在まだ仕入れ先を探していますが、本格的な安心できるメーカーのものを取り扱う予定です。11月21日に開店する予定ですが、最初からすべての商品が揃っていなくても良く、それよりも間違いのないものを販売したいと思い、じっくり探しています。
さて以下にお店の宣伝をさせて頂きます。
これまで笛を中心にインターネットで販売をしてきた「ケルトの笛屋さん」のショールーム/お店が「ケルトの笛屋さん field店」として京都の中心部、烏丸錦通りに11月21日(僕の誕生日)に出現します!
ビルの2階はアイリッシュ・パブ、3階はスタジオと楽器店、なんと4階は偶然にもB&Bで1階はうどん屋さん。このビルだけで音楽合宿ができますね。
お店ではアイルランド音楽の楽器を中心に、笛だけではなく弦・打・蛇腹楽器のほか書籍やCDも取り扱います。将来的にはケルトだけではなく、ヨーロッパの伝統音楽を広く紹介するお店にしたいと考えています。このお店を通じて、より多くの方がヨーロッパ伝統音楽の楽しさを身近に感じてくだされば幸いです。
ヨーロッパで見た楽器店のワクワク感を感じられる素敵なお店にしたいと思っています。当面はセッションがある火曜日・土曜日と日曜日の午後から夜の営業となります。ぜひ、お立ち寄りください。
編集後記:竹澤 友理
まずは、最後までお読みいただきありがとうございます。編集の竹澤です。早いもので、クラン・コラが復刊して1年が経ちました。
昨年末から企画を継続しているEditor’s Choiceのコーナーですが、今月は復刊1周年を意識して、若手は10代からお声をかけさせていただました。レギュラーライターの古参の皆様、そして嬉しくもご自身から寄稿をいただきました吉田さまをゲストライターに迎え、結果として様々な世代や活動地域、目指す方向性と個性の入り交じる、伝統音楽界隈に特有のモザイク感が良い意味で誌面に表現できたかと思っております。
ただ、今回毎月させていただいている原稿のリマインドができず、この1周年の記念の月にクラン・コラ生みの親であるおおしまさんの記事を掲載できなかったこと、編集竹澤ひとりの落ち度でございます。この場をお借りしておおしまさんはじめ読者のみなさまにお詫び申し上げます。
今後とも地味ではありますが色々と工夫してより読み応えのある誌面を目指してゆくつもりですので、ご興味持たれた方はどしどし竹澤までご寄稿・ご連絡くださいませ!その際ひとりで編集している都合上、返信が遅いことが多々ありますのでご理解いただければと思います。
また来月もおたのしみに!(たけざわ)
クラン・コラ:アイルランド音楽の森(月2回刊)
★クラン・コラでは読者の皆さまから寄稿を募集します。ケルト音楽やヨーロッパの伝承音楽について、書きたいテーマでお寄せ下さい。詳しくは編集部までご連絡ください。
- クラン・コラ:アイルランド音楽の森(月2回刊)
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発行元:ケルトの笛屋さん
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「クラン・コラ」とは
日本のケルト音楽普及に尽力されたライターのおおしまゆたか氏と、京都でアイリッシュ・パブ feildを経営する洲崎一彦氏が編集し発行されていた、国内におけるケルト音楽の情報を網羅したメールマガジン「クラン・コラ」。
2011年に一度休刊しましたが、5年の沈黙を経て2016年に復刊!
編集・発行をケルトの笛屋さんが引き継ぎ毎月2回のペースで発行中です!
メールマガジンの内容
毎月2回、10日・20日に発行しています。
10日発行のPart 1は「情報編」として、発行日近くに行われる国内のケルト音楽ライブ情報をぎっしりと掲載!また、コンサート、ライブ情報の掲載依頼も随時募集しています。
20日発行のPart 2「読み物編」では、アイリッシュやケルト音楽・文化にまつわる話題お届けしています。クラン・コラの創刊者のおおしまゆたか氏、洲崎一彦氏をはじめ、さまざまな連載陣(店長含む)やゲストライターによる濃密で読み応えのあるメルマガとなっています!
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