不本意ながら再びリズムの話:field 洲崎一彦

出典 Pixabay

ライター:field 洲崎一彦

先日ネットで、ニューヨークでドラマーをしている日本人ミュージシャンが面白いことを言ってるのを見つけました。いわく、
「日本で演奏している時は観客を含めてそのライブ会場にいるすべての人の中で自分が一番リズム感が良いと信じて演奏していましたが、ニューヨークに来てアメリカ人のバンドに参加して初めて観客の前で演奏した時は、観客たちの身体の動きが衝撃的で、このライブ会場にいるすべての人の中で自分が一番リズム感が悪い!と痛感しました」

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そして、彼はアメリカ人のミュージシャンが上手いのは判っていたけど、自分はドラマーとしてこんな観客を踊らせなければならないのか、と大きなプレッシャーを感じ、それからはがむしゃらに黒人音楽のリズムを研究したとのことでした。ここでは、彼はたぶんニューヨークのいわゆる黒人音楽要素の強い音楽とそれを楽しむ人々が共にとんでもないリズム感を持っていることと、日本ではこんな環境は考えられないということを言っているのだと思います。
そうですね。昔の私であれば、こんな話を目にすると、我が意を得たりとばかり、音楽とリズムについての持論を各所で吠えまくっていたことだと、思わず少し苦笑してしまうのでした。

今はもうあまり言及する人が少くなったかもしれませんが、かつて、私が音楽に興味を持ち始めた頃(まあだいたい1970年代)は、日本人はリズム感が悪い、というのが定説になっていました。日本にロックが入ってきた頃には、リズム感の悪い日本人にロックは出来るのか、まして日本語でロックが出来るはずがない、などと各評論家たちが音楽雑誌やラジオで喧々ごうごうの議論をしていたものです。

しかし、いつしか、そんな定説も気が付くとあまり聞こえなくなっていくのですが、それは、子供の頃からアメリカのポップスがTVから流れていたり、アメリカのホームドラマが週に何本もTV放映されているような環境に育った若者(そのころの自分たち)はそういう音楽はもう当たり前のものになっていて、戦後すぐの時代に比べたら、より自然にそれらに親しめようになって来たんだろうな、などと都合良く考えていたものでした。
そのうちに、そんな話題は忘却の彼方に追いやられ、私などは外来のロックミュージックにはまって、それらを真似たバンドを組んで大学の軽音楽部で遊び呆けていたわけですね。

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そして、そのまま年月を経て1990年初頭に、私はアイルランド音楽に出会うことになったのです。今とは違ってネットなどの情報が極めて乏しい中で、新しく出会う人々からの刺激だけが情報というような環境で、とにかくまずはのめりこむしかない。そして数年。偶然セッションに参加してくれたとあるアイルランド人フィドラーと一緒にセッションをした時に大きな衝撃を受けてしまいます。
これは。。。。今まで自分が思っていたアイルランド音楽とはまったく別のものだ!と。自分たちがやっていたのはまったくアイルランド音楽ではなかった!と。
ここでのショックをどう書き表したらいいのかといつも悩むのです。結局、以下に書くような模索の日々が始まるので記憶が逆になって、とにかくリズムが違ったのだ、と簡単に言ってしまうことが多いのですが、現場では何が違うのか本当に判らなかった。おりしも、このセッションに加わる直前まで、私たちはとある大学の学園祭のステージに呼ばれてアイルランド音楽を演奏して来た、その帰りだったわけで、明らかに、さっき自分たちが演奏してたものとまったく違う!と、ここだけがガーンと突き刺さったわけです。

そこからは、いったい何が違うのかを模索する日々が始まります。同じセッションを体験した数人の仲間と一緒にこれを模索する毎日でした。各人がそれぞれに、この音源のこういう部分がこうなってるのはどうよ?とか、いやいや、この動画を見てみると足の踏み方が逆やでとか、そんなことばかりやっていたわけですが、模索を続けるうちに各人の意見が食い違って行き、果ては、この集まりはバラバラになってしまいます笑。
確かに、この手の事柄は非常に微妙で難しい。この時ほど、同じ音源を聴いても、こんなにひとりひとり感じることが違うのかと毎日ため息をついていたものです。

しかし、その各人が共通して到達した見解は、リズムが違うのではないか、というとでした。が、それがどう違うのか、何が違うのか、という所からは完全に迷路で、ある人は、アイリッシュダンス(その頃はリバーダンスが日本で流行っていた頃です)の映像に合わせて弾くといい感じになる、とか、またある人は、コンピューターのDTMソフトに著名なアイルランド人プレイヤーの演奏を取り込んでその波形を分析してリズムのクセをつかもうとするなど、それぞれが、それぞれの工夫で模索を深掘りして行くのですが、私は途中から、あれ?という疑問にぶち当たり、模索の対象がアイルランド音楽からしばし脱線することになります。

ある時、昔好きだったイギリスのロックバンドのCDを聴いていた時のことです。あれ?こんな曲やったか?!若い頃はその曲をコピーして自分でも演奏したことがある曲です。それがほとんど違う曲にきこえる。思わず、ギターを出して来てもうほぼ忘れているフレーズを思い出し思い出し一緒になぞって弾いてみる。あ。違う。私はかつて違うことを弾いていた。つまりコピーと言ってもちゃんとマネが出来ていなかった!という驚愕の事実に気が付くのです。

まさに、あああああ、というショックですね。新しく始めたアイルランド音楽のリズムが判らないはまだしも。。。昔ひととおり通り過ぎたはずのロック漬けの日々はいったい何だったのか!
これは、アイルランド音楽のリズムのナゾの迷路にはまりこんでいるうちに、自分の耳が変わってしまったのだと、そう考えるしかない事態でした。

そこで、私は、自分の過去に通り過ぎてきた音楽をあらためて聴き直してみるという方向に興味が移ります。昔何げなく使っていた言葉、4ビート、8ビート、16ビート。タテノリ、ヨコノリ。ハシル、モタル。ノリがある、ノリがない。等など、ちゃんとした意味も知らずに雰囲気で使っていた用語の数々。リズムに関する用語の数々。そういう用語の本当の意味は何だったのか。その昔、音楽雑誌で読み聞きした記憶にある記事の記録がないかネットで探したり。あれはこういう意味やったのかな?これはああいう意味やったのかな?みたいな。。。

そんな時に、アフリカ系アイルランド人のM君がやって来ます。彼は英語教師の職を得て日本に来ていた若者で、当セッションにやって来たのですが、アイルランド音楽を主にやる人ではなくて、本来は鍵盤楽器でアメリカンソウル音楽(彼の言うところのジャズ)を弾き語りする人でした。そして、彼が当時私がやっていたセッション練習会に来てくれるようになります。
私は上記のような事をああでもないこうでもないと考えていた頃ですから、練習会に来てくれてた若者達にその時ちょうど「タテノリ、ヨコノリ」の説明をしていました。すると、皆さんなかなか「ヨコノリ」の意味を分かってくれない。が、しかし、M君が逆に「タテノリ」の意味が分からないと言い出します。

そりゃM君はアフリカの血が入っているのだからリズム感はばりばりに優れているに違いない、と思われるかもしれませんが、はたして、
「ヨコノリ」が判る=リズム感が良い
「ヨコノリ」が判らない=リズム感が悪い
なのでしょうか。
いやはや、厳密に何をリズム感というのかは難しいですが、例えばM君の歌の伴奏をした時のこと、彼は歌の1番と2番のあいだの間が待てずに早く歌い出してしまうような所のある人なのです。これって、カラオケで気持ち良さそうに歌ってるおっさんが、2番の出だしが待てないよくあるあるじゃないですか。これ、リズム感で言えば、良いということにはならないでしょう???

そして、また時期は違うのですが、デンマークのフィドル&ギターデュオ、ハウゴー&ホイロップが京都公演の後にウチに寄ってくれた時のことです。そこにはシェットランドのフィドラーズビドのフィドラー、クリス・スタウトもいた。われわれアイ研のメンバーたちもいた。そこで、日本の曲をやってくれといわれて、何故かデンマークでは「もみじ」が有名だという。そこで、アイ研の1人がフィドルで「もみじ」のメロディーを奏で、もう1人がギターで伴奏しはじめた。そこで、ギターのホイロップさんも伴奏に入ろうとギターを構えるのだが、一向に入れない。私はじっとその様子をうかがっていたのですが、何度か入ろうとして首をかしげているのです。そして、彼はおもむろに身体を左右に細かく揺すりだして、それは明らかに3連符のリズムを取っている。そして、さっとギターを弾き始めて「もみじ」に参加したのです。すると、今度はその瞬間に曲の雰囲気がぱっと変わり、アイ研のギタリストの手が止まってしまう。フィドラーも音を外したりなんかしてしまう。こんな光景が目の前に繰り広げられたのです。何がおこっていたのだ?!なのです。

ここで私は考えた。日本人はリズム感が「悪い」のではなくて、日本人はリズム感が「違う」のではないか。アメリカのジャズとアイルランド音楽のリールは一見して違うリズム感です。が、日本人のリズム感との違いに比べれば、もはやそれらは同じ種族といってもいいくらいに、日本人のリズム感だけが突出して違う。
ここではあえてリズム感と言ってますが、リズム感が違えば音楽そのものの感覚もすべてが変わると言っていいでしょう。それぐらい違う。なのに、世間では音楽に国境は無いとばかりに耳あたりの良いストーリーが巷にはあふれているのは何故なのでしょうか。現に、私たちは遠い国の民族音楽に親しみその演奏までしているのだから、確かに音楽に国境はないのか。表面的には確かにそうなのですね。

当時の私はここまで来て、ものすごい危機感を感じたのでした。頼むからみんなこれに気づいてくれ!と。音楽に国境はあるぞ!と。私たちは、アイルランド音楽もそうですが、ロックでもいいジャズでもいいポップスでもいい。ぜんぶ、外国由来の音楽ではないですか!それなら、このことに気づかないとその音楽など到底演奏できないではないですか!と。今から思うとものすごい危機感でした。今みんなが気づかないと人類滅亡してしまう!ぐらいの危機感を持っていました。いきおい、私の語調もきつくなる。旧クランコラ誌上をはじめ、周囲にこの毒を吐き散らかしていました。

振り向いてくれる人はごく少数でした。これに共感してくれないと私は誰とも一緒に音楽ができないじゃあないか!と、真剣に思い詰めた頃もありました。しばし楽器にも触れず、当セッションにも2年ほど参加しない時期もありました。

私自身はこのような煩悶の中で、昔に親しんでいたロックの聞こえ方も変わった。それはジャンルを問わずでしたね。例えば、今はあまり聴きませんがクラシック音楽なんかも、昔の日本のフォークなどもその聞こえ方が変わりました。昔に親しんだよりもより面白く感じるようになった。もしかしたら、音楽感が変わると音楽全般の面白さが広がる。こんな実感です。そして、それに反比例して一緒に音楽を演奏したり語ったりする音楽友達がどんどん少なくなって行きます。ややもすると、あなたの音楽の楽しみ方は間違ってる!とまで言ったつもりはないものの、そのように受け取られたかもしれない場面が今思い出しても多々あるのですから、そりゃ友達減りますよね。まったく冷や汗が出ます笑。

しかし、日本人の音楽感は日本人の音楽感としてそのまま外来の音楽を受け入れてきた歴史ももはや実績だと思うのです。それが正しいか間違ってるかではなくて、例えば、私たちはニューヨークの観客のように身体を揺すらなくても、それは楽しんでいない証ではありません。じっとしてても楽しんでいるのです。そうでしょう?逆に言えばじっと座ってても楽しめるのです。ニューヨーカーから見ればこれは超能力かもしれません。

正誤ではなく違うということです。

恐らく逆に外国人には想像も及ばない楽しみを音楽に見いだしている可能性もあります。それが証拠に、日本の音楽シーンは一大産業として繁栄しています、つまり国内需要を充分満たしている。また、音楽感の違いがプラスに転じる現象。古くはYMOからBABY METALまで、あるいは、欧米で静かなブームになっているらしい日本の70年代ポップスしかり。外国では日本の音楽感の異質は多分にエキゾチックに受け止められるのかもしれない気配がぼちぼち出現しているわけです。
ただ、外国人から見ればこの「違い」はリズム感が「違う」というふうには見えないのかもしれないと思う所もあります。

J-POP大好きのアメリカ人ヘビメタギタリスト、マーティ・フリードマンは、日本の楽曲(パフュームの「ポリリズム」)の変拍子の使い方に舌を巻いて、日本人のリズム感は超人的にすばらしい!と絶賛している記事を読んだことがあります。が、この曲は、私から見るとただ「ポリリズム」という言葉が5音なので、それに合わせたメロディがついただけですよってマーティさんに言いたい。私たちは、あなたたちのように、3、4、で自然に身体が躍動するというようなことが無いので、4、でも5、でも、そこにメロディがはまっていれば何でも一緒なんですわ笑、と。

そして、今はもう私は以前のような病的な危機感は感じなくなりました。音楽の楽しみ方は人それぞれなのです。というか、音楽はどの要素に着目しようと多用に楽しいのです。これで充分なのではないか。

冒頭のニューヨークのドラマー氏いわく。それから彼はニューヨーカーのリズム感を獲得すべく邁進奮闘し、今ではそれをほぼ理解したとのこと。しかし、ニューヨークの音楽仲間は増えたけれど日本人の音楽仲間は減る一方だと。。。
これ。なかなか身につまされるお話しですね。

私はこれからは、友達作りに勤しんでいこうと心に誓うのです笑。(す)