ライター:field 洲崎一彦
さて、最近、私、実に迷いが多い。迷える老人になっています。普通は人間歳をとるにつれズシっとした重みが出て来るものだと思っていたのですが、いやもう最近は重みなどどこにもありません笑。非常に迷うわけです。
特にここでは音楽が話題ですので、事、音楽にしても、いやはや、迷う迷う。。。
迷っていると、色々過去の体験などをランダムに思い出してしまったりして、これまたさらに迷うというような、そんな悪循環。
今回、思い出してしまったこと。それは、もう10年以上前のことになるかもしれません。私がその当時敬愛してやまなかったとあるアイルランド人フィドラーが当店でライブをしてくれた時のことです。それは、相棒にアイルランド人アコーディオン奏者を引き連れたデュオのユニットでした。演奏が始まると、私はぐんぐんそのステージに引き込まれていって、ちょっとしたトランス気分に浸っていた時です、曲の合間に、ちょうど隣に居た人が何か小さな声でつぶやくのです。その人は、クラシックのバイオリンをやっている人であるというのは知っていましたので、私も内心は、目の前のこの演奏にその人はどんな反応をするのだろうかというちょっとした興味を抱いてたこともあって、その小さなつぶやきははっきりと私の耳にとどきました。
彼はつぶやいた。「ヘタクソやな。。。。」
私は、高揚した気分がさーっと冷めて行くのを感じ、反射的に席を移動したものでした。
すっかり忘れていた話です。なんでこんな話を急に思い出してしまったのか。その時は、どっかで、ああ、さすがにクラシックバイオリンから見れば、アイリッシュフィドルの技術というものがそれほど大したことはない様に見えるのかな、ぐらいに、自分を納得させていたのだと思います。しかし、永年経って、こうやってふと頭をもたげる。私はどこかで納得していなかったのでしょう。
時あたかも、最近、私はこのクランコラ誌上で、「音楽は個人個人感じ方が違う、、、」という所から、hatao氏の「ダンス音楽は芸術たりえるのか?」という問題提議に触発されて、「芸術として感じるかどうかは、それを受け取る人次第」とか。「いやしかし、そこに何らかのインパクトがあるから何かが伝わるのではないか」というような話題を垂れ流してきたわけです。しかし、こういう話題にしても自分自身、そんなに確信を持って発言できているわけではないのですね。何かどっかにもやもやが残る。迷いまくっている。つまり、音楽の良い悪いって何やねん!? ということです。
そんな時に不意に上記のような話を思い出してしまう。
自分が良いと思う音楽を、他の人が同じように良いと思うとは限らない。こうやって文字に書くと、それはもう当たり前の事なのですが、何というか、ネットで散見する「それはあなたの感想でしょ?」のひとことで議論が崩壊してしまう、あの、何か不毛な感じに似た分断というか、寂しさをずしーんと感じてしまうわけです。
前々回だったか引用した、アニメオタク界の巨人、岡田斗司夫氏の言葉、
「勉強して面白がるのもアートだし、直感的に面白がるのもアートだ」
そうですね。勉強して面白くなるという要素。こっちの方は今まであまりこれまで意識して来てなかったかもしれません。すべての音楽愛好者が自分の感性と直感だけで音楽を楽しんでいるのかというと決してそうではないでしょう。
軽い部分では、ヒットしているから、とか、誰々が良いと言ったから、というのもあれば、その音楽の背景や歴史的な事象を知って、なるほど、と感じる場合もある。後者で何かひとつでも面白い!と感じることがあれば、もっと深く勉強してみようという気持ちにもなるでしょう。
が、ここで現在特有の問題が出て来る。
情報化社会だということです。人は能力や適性の差ではなくて、情報量と意識が高いか低いかでその人生が変わる、とでもいうべき信仰ににた風潮です。これは、私ら年寄りにしてみれば驚愕の発想です(能力や適性を無視する?!)。が、耳あたりが良い言説なので永い間うっかり聞き流していた。言外に潜むところの、人間は皆平等なのでその人生の差は意識の高さと努力の差によって生じる。耳あたりが実に良い。しかし、ごく最近では、いやちょっと違うぞという人達も現れたのでしょうね。親ガチャなどと称して、その個人の能力と適正にはまったく触れずに、今度は親のせいにする。これもまた、そうか、自分のせいではなかったのだという耳あたりの良い空気をかもし出す。
そうなると、次ぎに現れる心理は、例えば、これを音楽で言うと、世の中で良いと言われている音楽に対して、意識の高い私は同じように良いと感じなければならない。こうなる。
この世の中で、という部分が、大先生が、でも、大御所が、でも、憧れの先輩が、でも何でもいいのですが、これが神になってしまうと凄いことになってしまう。自分は意識の高い選ばれし人間なので救われないではおられない、ってこれ、キリスト教の予定説ですよね、まるで。
いや、決してキリスト教を揶揄しているのではありませんよ。本来日本社会にはこういう発想はなかったでしょうと、私たちにはこういう発想に対してどこか違和感がありませんか?と。
そして、こういう風に心理が進んで来ると、もうそこには、個人の感性などと言うものは奥底に封じられてしまうわけですね。それでいて、面接試験で「となりの人と同じです」という答えが未だに禁句であると。個性を尊重しようと、スローガンだけがむなしく残るこのご時世。いったい人間はどこに向かっているのでしょう。
少々、方向がずれていってしまいました。元に戻します。
つまり、本来自分独自の感じ方だけに依って楽しんでいれば良かったはずの、まあ趣味の世界ですから、音楽も、以上のような風潮によっていわゆる結果的に同調圧力に似たものが意識せずとも出来上がっていってしまうという要素が、この勉強して芸術を面白がるという世界には副作用として付きまとうのではないか。
そしてまた、コアなオタクはもうそこにもうすうす気づいている。つまり、孤立する。引きこもるという武器で自分の感性を防御する。なるほどですね。まったく。オタクが日本発祥なのもいたしかたないかもしれません。
あ。何を言いたかったのか。。。。
そうです。私はいろいろと迷ってしまうというお話しなのでした。が、直感では、やはり、自分の感性がたとえ人とは異質であったとしても、これは見失いたくない。。。ここに行き着くしかないわけですね。もんもん。
もんもんとしているウチに、いろいろ身体に不調が見つかったり、数日前にはインフルエンザに罹患してしまいました。やはり、迷いの日々は不健康なのですね。とほほ(す)。