わが音楽遍歴、または余はいかにして心配するのをやめてアイリッシュ・ミュージックを聴くようになったか・その29:大島豊(最終回)

ライター:大島 豊

SP盤の童謡やテレビまんがの主題歌に始まったぼくの音楽リスニングの遍歴は、現在、音楽流通のデフォルトとなっているストリーミングにまでたどりつきました。

昨年の夏、というと昨年は5月から10月まで夏でしたけれども、一般的な夏、7、8月頃から、ストリーミングで音楽を聴くことが目に見えて増えてきました。それまでもストリーミングで音楽を聴いてはいましたが、その割合、リスニング時間全体でストリーミングが占める割合はごく低い、たぶん1割以下だったでしょう。ストリーミングを利用するのは、まずレコードを買うかどうか判断するための試聴、あるいはさらにその前の、いったいどんな音楽をやっているのか知るための試聴がほとんどでした。例外的に集中して聴いたのは、4、5年前でしたか、ノーサンバーランドの名パイパー、キャスリン・ティッケルのライヴ動画にハマった時ぐらいです。この時は都合3日間ほど、彼女のライヴ・ビデオばかり YouTube で追いかけました。

ストリーミングでのリスニングが増えてきたのは、まず一つにはストリーミングの音質が従来に比べて格段に良くなってきたことがあります。Tidal や Apple Music はもちろんですが、YouTube でも 1080p などにすれば、前者のロスレスと一聴遜色の無い音で聴けるものがあります。またアップされている動画や録音の質そのものも、きちんとした機材と環境で耳のよいエンジニアが録ったものが増えてきたように思われます。そして、もう一つには今年の春に久しぶりに買いかえた iPad mini 第6世代のストリーミングの音質がひどく良いことに気がついたためです。

iPad mini は従来は読書用でした。ほぼ専門に電子本を読むためのギアとして使っていました。それが最新のOSも入らなくなり、バッテリーもへたりきったために、iPad mini の新世代が出たところで買い換えたわけです。ですから、はじめはこれもリスニングではなく、読書とウェブを見るためだけに使っていました。

新しい iPad mini と AirPods Pro 初代で聴くストリーミングの音がひどく良いことに気がついたのが、いつ、どの曲だったのかはもうわからないのですが、気がついてみると、この組合せで Tidal や Apple Music や YouTube や Bandcamp を聴いていることが格段に増えていました。

音が良いというのは、ぼくの場合、気持ちよく音楽に耳を傾けることができる質のもの、になります。音質を忘れ、音楽そのものに引きこまれ、没入できるレベルの音質です。つまり、どんな音楽か、確認する形をカジュアル・リスニングの一つとすれば、それとは別にもう一段階突込んで、楽曲や演奏の質、解釈のやり方を把握しようとする真剣なリスニングの場合ということです。音が良くなると、聞えてくるものも増えるのは、否定できません。それによって音楽全体の評価が逆転することもあります。

AirPods Pro を買った理由は、これがスタジオの音に一番近いとプロの録音エンジニアが言っていた、と愛用しているポータブル・ヘッドフォン・アンプの製作者から聞いたからです。その話を聞いて買ってほんの少しして第二世代が発表になりましたが、エンジニアが指していたのは初代なわけですし、今のところ、ぼくには充分な音質で、第二世代に買い換えようとは思いません。

AirPods Pro でも何の問題もないのですが、この「何の問題もない」というのはオーディオ・マニアにとっては鬼門です。つまりマニアはいつまでも同じ音ではつまらなくなってくるのです。たとえ、自分としては最高で、これ以上は不可能という音が得られたとしても、しばらくすると、もっと良くなるのではないか、と思ってしまいます。あるいはそう思ってしまうのがマニアである、と言えましょうか。

オーディオ・マニアと呼ばれる、または自認する人びとには2種類の傾向がある、とぼくは思っています。むろん、すべての二分法同様、すっぱりと二分されるわけではなく、おおまかにそう言うことができるということです。

一つは音楽をより良い音で聴きたいという志向。主な目的はあくまでも音楽を聴くことで、しかしどうせ聴くなら、より良い音で聴きたいと願うわけです。より良い音がどういうものかはまた議論がわかれるところですが、上に述べたように、より深く音楽に没頭できる音、音楽そのものに没入できる音と言えるでしょう。本来出ているはずの楽器の音が聞えないとか、ヴォーカルがやけに細く聞えるとかするのでは、没入はできません。理想的には、もともと入っている音をそのまま何も足さず、何も引かずに聴かせてくれることです。ですから、時には、ひどい録音の音源をそのひどい録音のままに再生することになります。そして、録音はひどいのだが、聞える音楽はすばらしいというのもそう珍しいことではありません。それでも、そのひどい録音はそのままに、音楽のすばらしいキモはちゃんと伝わるような再生をする。これが理想です。

もう一つの傾向は、とにかく良い音の再生につき進むものです。ですから再生の対象は音楽でなくともかまいません。列車やF1カーの通過音、鳥の鳴き声でもかまわないわけです。近年、増えているように見えるのは、特定のアーティストの特定の楽曲の特定の部分を満足のゆくように再生することを目指す人たちです。音楽を聴くよりも音、再生音の質の向上が目的である人たち。

ぼくは前者に属すると自認しています。そしてマニアの常として新しもの好きです。最近ではスティック型の DAC/アンプをあさりだしました。スマホやタブレットに USB などで繋ぐ小型の棒状または板状の形をした装置です。比較的小さなボディの中に DAC とヘッドフォン用アンプが入っていて、ソースで再生する音源の音質をはるかに良くする、とされるものです。これも3年ほど前から出はじめ、はじめはごく単純で安価なものだったものが、昨年あたりからぐっと高機能、高性能になり、価格も飛躍的に高いものが相次いで発売されています。

そういうものを iPad mini につないでみると、AirPods Pro とはまったく違う音の良さを味わうことができます。また、様々なヘッドフォン、イヤフォンで聴くこともできます。さらにはラインアウトで別のヘッドフォン・アンプにつないで聴くということもします。

ストリーミングで不満のない音で聴くことができるなら、レコードやファイルを持っていて、DAP の中に入っている音源でも、ストリーミングにあればそちらで聴くようになりました。たとえごくわずかでもアーティストへの還元があるという大義名分もあります。

それ以上に、検索してすぐに聴けるという利便性はならぶものがありません。何らかのソース、本や雑誌、ネット上の情報の断片、友人との会話やSNSなどで名前を目にし、この人たちはいったいどんな音楽をやっているのだろうと思っても、従来なら、かれらが出しているレコードなどがないか調べ、探し、ブツを購入してプレーヤーにのせたり、入れたりしなければなりませんでした。それが、まっすぐに音源に手が届き、その場で聴ける。いまやストリーミング・サーヴィスには、まずたいていのものがあります。レコードが稀少盤で、中古市場でとんでもない値段がついている音源でも、ストリーミングなら定額で聴けます。およそ、音楽を聴くことに関して、これほど恵まれた時代は未だかつてありませんでした。

むろん、デジタル化されていないアナログ録音はまだまだ山のようにありますが、そのデジタル化は別の話です。

音楽を聴こうとした時、その前段階を飛び越して聴くことそのものに集中できる。その点で今は空前の時代です。音楽やミュージシャンについての蘊蓄を貯めこむよりも、まず音楽そのものを聴くことが何より大事なのは論を待ちません。

ただし、です、音楽にしても、あるいは書物や映画やドキュメンタリーにしても、作品だけが何もないところに浮かんでいるわけではありません。作者の何者なるかをはじめとして、作品にまつわる付帯情報を一切遮断して評価しようとする手法もありますが、それはやはり手法の一つであって、いつもそれが有効というわけでもないことも明らかになりました。

とりわけアイリッシュ・ミュージックのような伝統音楽にとって、少なくとも曲の由来や出自、誰からどのように伝えられたか、は楽曲の一部です。演奏されている音だけで音楽が成り立っているわけではありません。今のところストリーミングはそうした付帯情報を音楽から剝ぎ取ります。すると鳴っている音は音楽への入り口にすぎなくなります。CDやLPや、あるいは付帯情報付きのダウンロードの形のレコード、アルバムを買いつづける理由の一つは、付帯情報を知るためです。

アルバムというフォーマットが備える性質ないし性格には、付帯情報以外の要素もからんできます。今の音楽の最先端の一つであるヒップホップのアーティストたちもアルバム製作を志向するのはそのためです。ちなみにアイルランドにもヒップホップのシーンはあり、その中には伝統音楽に源泉を仰ぎ、また積極的にこれを取り入れている人たちもいます。

ここが今ぼくが立っているところです。ストリーミングの恩恵をありがたく受けながら、アルバムというアナログ時代に成立したフォーマットのメリットも評価する。

情報のデジタル化によって、様々な変化の速度は速くなっています。一方、人間自身の変化の速度はそう変わっていないようです。すると変わっていくモノやコトの変化の周期が短かくなります。つまり、変わったはずのものが、少し前の姿形を示す、あるいは少し前のもの、変化の前のものが新しいもの、新鮮なものと感じられるのです。アナログ・レコードの復活に続いて、CDにも復活の動きがあるというのは、その一例でしょう。

たぶん変化というのは、そうやって進んでいくのでしょう。変わったつもりが、一周して同じところにもどっている。とはいえ、一周して以前とまったく同じところにもどったわけではなく、車輪が一周すれば着地するところは一周分進んでいます。

そうした変化が音楽の上にどのような形を結ぶか、あるいは結ばないか、をこれからも追いかけ、愉しんでいこうと思っています。

この連載も当初の目論見を超えて、ずいぶん長くなってしまいました。ひとまず、ここで終りとします。

次の連載もやるようにと、hatao 編集長から言われています。今回の結論がアルバムという形の再評価になったので、今度はそのアルバムというものの実際に分け入るのもおもしろいかもしれません。いずれにしても、少し休憩をいただいて、どんなことが書けるか、考えてみます。(ゆ)