歌の小径の散策・その7 A Stor Mo Chroi:おおしまゆたか

ライター:大島 豊

まず前回の訂正をしなくてはならない。カラ・ディロンの旦那は Sam Lakeman である。Seth ではない。Sean、Sam、Seth の Lakeman Brothers のうちの次男坊だ。ショーンは Kathryn Roberts とアルバムを作り、セスはソロで活動している。まことにどうも失礼しました。申し訳ありません。

ちなみに兄弟の父親 Geoff Lakeman も優れたシンガー、コンサティーナ奏者でアルバム《After All These Years》2017がある。ストリーミングで聴ける。

現在の形のノーザン・アイルランドの消滅がアイルランド島統一に直結するとは限らない。むしろ、そうはならない可能性の方が高いだろう。すなわちノーザン・アイルランドが独立する可能性はある。たとえばマン島やジブラルタルのように、外交、防衛をウェストミンスターに任せる以外は独立の政府をもつ形が考えられる。ただ、現在の共和国と国境を接していること、そして住民の半数以上が共和国との統一を望むだろうことは、マン島やジブラルタルとは異なる。ノーザン・アイルランドがUKにとって戦略的に重要な移置にあるわけでもない。ノーザン・アイルランドを持っていることはノーザン・アイルランド以外のUK、すなわちブリテン島のイングランド、スコットランド、ウェールズにとって何のメリットも無い。つまりは、ノーザン・アイルランド独立があるとすれば、ノーザン・アイルランド消滅をユニオニストが受入れるのに時間的な猶予を与えるためのものとなろうし、そう長くもないだろう。

閑話休題。

今月初め、山梨県北杜市で開かれた八ヶ岳アイリッシュ音楽フェスティバルに昨年に続いて行ってきた。その報告はブログに挙げるが、そこで聴いた本誌発行人の hatao さんの演奏があまりに良かったので、今回はその曲をとりあげる。hatao さんは歌は歌わず、フルートによる演奏だった。この曲は歌ではあるが、スロー・エアとしてメロディだけでもよく演奏される。ここでは歌としてとりあげる。

タイトルはアイルランド語で「わが魂の宝」という意味。この宝はまずは故郷アイルランドをさすが、物理的な島、土地というよりは、記憶とそれに伴う感情の抽象的な意味合いの方が強い。「ふるさとは遠きにありて想うもの」とは詩人のことばだが、ことの真相を言いあてて妙だ。そこにいないことが価値を生むので、実際に帰ってみれば、あるいは離れないでいれば、欠点ばかりが目について、また出ていきたくなることの方が多い。東日本大震災の後、被災地で生まれ育った土地への愛着を語る人が多かったのは、大震災によってそれ以前のふるさとが消えたからという要因が大きいように見える。

我々列島人にとって、移民は明治期のハワイやカリフォルニア、ブラジルへのものがせいぜいで、20世紀半ば以降、大規模な移民、とりわけ出ていく移民は経験が無い。しかし、これからも無いとは言いきれない。温暖化の進行や大地震による災害によって、列島に住めなくなる可能性はより高くなるだろう。あるいは国内での大規模な住民の移動が起きることもありえる。例えば九州などで夏の最高気温が40℃に達することが常態になった場合、人はそこにいつまでいられるか。

この歌はアイルランド語のタイトルで呼ばれ、この他にも歌詞の中にアイルランド語のフレーズが使われているにもかかわらず、全篇アイルランド語で歌っている録音が見つからない。Iarla Ó Lionáird や Roisin Elsafty のような人たちも英語で歌っている。

歌詞の内容そのものは故郷への憧れ、帰郷への渇望を歌うものだが、アメリカ人の一部は最終連の内容から、故郷に残された恋人からのラヴ・ソングと解釈している節もある。

録音は多数あり、アメリカ人によるものも少なくない。というより、ストリーミングで聴けるものはほとんどがアメリカンによるもの。それも女性シンガーが圧倒的であるのも面白い。とすると、移民していった恋人への呼びかけという解釈も十分成り立つ。

もう一つ面白いのは無伴奏歌唱が多いことだ。アメリカ人でも無伴奏で歌う。スタイルはフォーク、クラシック、ロック、様々だが無伴奏なのである。伴奏をつけてもアンビエントな背景やドローン的、または音数少なく、歌に合せるもので、等拍のビートに歌をのせるものはごく少ない。この歌は伴奏をつけたくなくなるようなのだが、なぜかは今すぐはわからない。メロディの構造だろうか。つまり、このメロディはある音をどれくらい長く伸ばすか、あるいは短かく切るか、アクセントをどこに置くか、などをうたい手が自由に決めたくなる性格を備えているのか。

したがってどの歌唱も力演である。無伴奏歌唱はうたい手の実力、歌に対する理解の程度が剥出しになる。下手なうたい手にはできない。どれもじっと耳を傾けるに値する。こういう有名な曲の録音を数十本も聴けば、箸にも棒にもかからないものが一定の割合で必ずある。それがこの歌の場合、極端に少ない。まずほとんどの録音は各々に工夫がこらされ、アレンジも念入り、そしてうたい手は各々に心の底から歌っている。

そうした中であたしのココロとカラダに最も切実に響いてきたのは最も古いものに属する録音、セーラとリタのケーン姉妹 Sarah & Rita Keane の歌だ。ドロレス・ケーンの叔母にあたり、ドロレスにとって歌の源泉、師匠でもあった二人である。この二人はアイルランドの伝統には珍しく、ハーモニーで歌ったことで知られ、アルバム《Once I Loved》が1枚ある。この一族の Keane はキーンではなく、ケーンと読むべきであることは、このアルバムのライナーで知った。

二人の歌唱も無伴奏だ。そしてかなりゆったりと歌われる。歌唱そのものには感情がこめられていない。慣れないと冷たいと思われるかもしれないくらい、坦々と歌う。ところが聴いているうちに、表面的に感情の現れない歌唱の奥に、故郷への強烈な飢餓感が感じられてくる。その故郷はもう二度と再び帰ることのないところだ。「遠きにありて想う」しかない相手。だからこそ一層、飢餓感が募る。箍をはずしてしまえば、自分の気が狂うほどの渇望が、二人のまるで穏かな、波風など立ちようのないともみえる歌唱からかげろうのようにたちのぼる。これに比べると、アメリカの女たちの歌唱はほとんど呑気なものに聞えてくる。彼女たちの歌とて、センチメンタルな要素など、薬にしたくも無いくらいだが、それがまだまだ甘いと感じられてしまう。つまるところ、アメリカ人にとって、失われた故郷は想像力の問題になる。アイルランド人にとって移民した先からふり返る故郷は、無理矢理ひきはがされた自分の一部だ。

この曲をインストルメンタルとして演奏している録音もまた多い。そしてそれにもすぐれた演奏が多い。駄目な演奏というのが無いのも不思議なほどだ。この曲には歌う人、奏する人をして最善を尽くさせる魔法が宿っているのかもしれない。(ゆ)