歌の小径の散策・その6 The streets of Derry:おおしまゆたか

ライター:大島 豊

先のUK議会総選挙の結果、ノーザン・アイルランドではカトリック系のシン・フェインが第一党となり、ノーザン・アイルランド議会、同地方議会と合わせて「三冠」を達成した。より明瞭になったのはUKの一員であることに固執するユニオニストの退潮だ。ノーザン・アイルランドのプロテスタントでも、カトリック系住民との対等の立場での共存をあくまでも拒否する人の数は着実に減っている。アイルランド統一は水面下では既定路線のようにも見える。

先頃 Irish Times に出たデリィ出身の作家 Neil Hegarty のエッセイも、ノーザン・アイルランド消滅を時間の問題としていた。ヘガティによれば、ノーザン・アイルランドの中でもデリィはカトリックの街だった。対してベルファストはプロテスタントの街であり、ノーザン・アイルランドのリソースはベルファストに集中されてきたためにデリィでは教育も含めたインフラの整備が常に後回しにされている。デリィのこの状態にも終止符が打たれるのは遠くない、とヘガティは言う。

ヘガティの言い方には希望的観測がなくもないが、一方でこういう言明をすることで望ましい結果を呼びよせようという姿勢を見ることも可能だ。そして、少なくともノーザン・アイルランドの現在の形が臨終の瀬戸際にあることはまちがいないと、あたしにも思える。どういう形でかはわかるはずもないが、アイルランド統一は案外近いだろうと思う。

このエッセイを読んで思いだしたのが〈The streets of Derry〉だ。これには忘れがたい歌唱が二つある。一つはカラ・ディロンとポール・ブレディのデュエット。もう一つはボシィ・バンドでのトゥリーナ・ニ・ゴゥナル。

前者は《Transatlantic Sessions 3, Vol.1》収録。カラの旦那Seth・Lakeman(訂正:正しくは「Sam・Lakeman」でした)のピアノをバックに、カラとポールが声を合わせる。このシリーズに登場する組合せは他では見られないが、もっと見たい聴きたいものばかりで、これもその一つ。この2人ぐらいのスターになると、こういう形でないと共演はなかなかできないのかもしれない。

カラのむしろ幼く聞える声とポールと太い声の対照はたがいの一番耳に快い響きをひき出す。このヴァージョンは死刑を目前にした男の諦観と無念が強調される。

同じ状況でもボシィ・バンドの《Out Of The Wind, Into The Sun》でトゥリーナがうたう男はまだ望みを捨てていない。父親や姉も登場するこのヴァージョンに特異だが、これも、ぎりぎりの時間稼ぎをしているようでもある。パイプの間奏も含め、ボシィのヴァージョンには緊張感が漲る。

ここで縛り首にされようとしている若者はカトリックだ。さもなければその恋人がデリィと呼ぶはずはない。プロテスタントにとって、王にとってはロンドンデリィだ。

この若者は胸を張り、堂々とした姿で市中を引き回される。とすればおそらくはその罪とされたのは政治的行為のゆえだろう。しかし恋人はどうやってか王の赦免状を手に入れる。

が、本当に手に入れたのだろうか、という疑いが湧いてくるのは、いかんともしがたい。ひょっとして実は結果は違うのではないか。こうあって欲しかったという願望、夢なのではないか。アイルランド独立のために立った若者に、王の赦免状などというものが出るはずがないと誰もがわかっているからこそ、歌はここで断ちきられているのではないか。

とみてみると、これは同様に殺されていった若者たちへの鎮魂のうたにも聞えてくる。同時に、もし王が赦すならば、あなた方も相手を赦すか、という問いかけにも聞える。アイルランド全島の政治的、経済的統一は近いとしても、社会的、文化的な統一はまた別の話になる。そもそもその面での統一が望ましいのかどうか。またその面での統一の内実はどういうものなのか。

ヘガティの文章を読むかぎり、そしてこの歌を聴くかぎり、デリィに甦らせるべき過去はない。どん底に落ちこんだこの街には未来があるだけだ。(ゆ)