
ライター:大島 豊
そろそろ今月の原稿を仕上げるかなと思っていた矢先にドロレス・ケーンの訃報が飛びこんできた。あたしにとってアイルランドの伝統歌といえば何よりもまずドロレスの唄である。アイルランドの歌の存在とその美しさを教えてくれ、聴くたびに生きている歓びを与えてくれる存在である。ポゥドリギン・ニ・ウーラホーンやアイリス・ケネディやトゥリーナとマイレトのニ・ゴゥナル姉妹や、ポール・ブレディやアンディ・アーヴァインや Daoirí Farrell や、あるいはシネイド・オコナーなども含めて、アイルランドに優れたうたい手の星の数ほどいるなかで、他を圧してダントツに大きな存在である。
むろん覚悟はしていた。年をとるというのはこういうことでもある。人生を左右されたアーティストたちが一人ひとり世を去ってゆくのを見送り、遅かれ早かれ自分の番が来る。とはいえ、実際に死なれてみると、その衝撃は覚悟などという生易しいものでは到底歯が立つものではない。茫然として、何も手につかない。ドロレスの唄を聴く気にもなれない。いや、音楽を聴く気になれない。
念のために強調しておくが、ドロレスは「ケーン」である。「キーン」ではない。Keane という姓には二通りの読み方がある。チーフテンズのフィドラー Sean Keane やサッカーのレジェンド Roy Keane は「キーン」だが、ドロレスの一族は「ケーン」と読む。幼ないドロレスに唄を教え、伝えた叔母さんの姉妹 Sarah & Rita Keane の唯一のレコードのライナーにこの名前は “Kane” と読むと明記されている。わざわざ書いているところを見ると、アイルランドでも間違われることが多いのだろう。「キーン」と読まれるのを嫌って Kane と綴っている人たちもいるようだ。《In Memory Of Paddy Fahey》という傑作を出した Liz と Yvonne の The Kane Sisters も確かそうだ。
以下は今回用の原稿の下書きとして書いてあったものだ。仕上げる気力が湧かないままに、これでお茶を濁させていただきたい。こういう趣旨で次回から連載を始めるつもりだったが、ドロレスの訃報に接して、どうなるか、今はちょっとわからない。
前回の洲崎さんの記事であたしのことをしきりに「評論家」と呼ばれている。大人気ないと言われることを覚悟の上であえてひとこと言わせていただきたい。
というのもあたしの書いてきたものは「評論」に値するものではない、と自分では思っているからだ。評論または批評というのは、独自の視点で対象の作品から新たな価値を引出している作物、とあたしは思う。あたしが書いてきた、今も書いているものには独自の視点もないし、新たな価値を引出してもいない。早い話がすでにそこにあるものを紹介しているにすぎない。
紹介屋というのも必要ではあるにちがいない。まだ対象の「それ」の存在や魅力に気がついている人がそれほど多くない時には、誰かがこういう音楽がある、こういう人たちがいる、ということを紹介することは有用なことではある。今流行りのことばで言えば「推し」にあたるだろう。
あたしの場合、「推し」ですらなかった。少なくとも当初は。たまたまあたしは若い時にこういう音楽に出逢い、魂を奪われて、ひたすら聴いてきた。演ることは考えずに聴いてきた。その過程で付随して知ることもあった。前世紀の末、わが国でアイリッシュ・ミュージックを愛好する人たちが増えだしたとき、レコードの国内盤がリリースされたり、ミュージシャンが招聘されたりしはじめた時に、そのレコードやミュージシャンたちについて知っている人間はほんの一握りしかいなかった。あたしはたまたまその1人であり、たまたま文章を書くことにためらいを覚えない人間でもあった。そこで、頼まれるままに知っていることを書いた。そういう文章の書き方などわからないから、知っていることをずらずら並べただけだ。後になると、「推し」と今ならば呼ばれるような要素も入ってきて、多少は考えるようになったが、初めのうちは知識を披露できることが嬉しいままにたれ流していた。読む相手は自分と同じレベルの知識や関心があるものと決めてかかってもいた。
そういう文章でも、少しは役に立ったと言われるのはありがたいことではあるが、自分で認めている以上の価値があると言われると、どうにもはずかしくなってしまう。
書いて世に出たものは、書き手の思惑を離れ、独自の道を歩む。読み手がそれをどう捉えるかに書き手のコントロールは利かない。それはわかっている。つもりではある。それでもなお、あたしは価値を評価する者ではなく、ただ単に音楽が好きな人間、音楽を聴くのが好きな人間、ひとりの音楽ファンでしかない。
ただ、いい音楽は独占するものではない。独占してはつまらない。共有して、一緒に楽しんで初めて本当に楽しいものだ。生演奏、ライヴ、コンサートのありがたいところはそこである。中にはこんなレコードを他人に聴かせてたまるか、オレだけの宝にするのだ、と思えるものもある。それはそれで愉しいが、いい音楽は一緒に聴いて、いやあ、今日のは良かったねえ、とともに喜んでナンボのものだと、あたしは思う。そして、あの晩、field で起きたことはそれだった。あの場に共にいて、楽しんでくださった皆さまにあらためて御礼を申し上げる。そして、楽器を演奏もできず、唄もうたえないあたしは、文章で共有をはかる、という傾向はある。
以上は実はこれから書こうとしていることのマクラでもある。ここ2、3年、漠然と考えてはいたのだが、自分の年齡も考慮に入れて、やはり書けるうちに書いておこうという気になった。hatao 編集長にも打診してみて、そういうものが読みたいとの答えだったので、思いきって始めてみる。すなわち、「アイリッシュ・ミュージックの100枚」または「100枚のレコードでアイリッシュ・ミュージックに親しむ」。
このストリーミング、動画全盛の時代に、レコードというものがどこまで価値があるのか、これまたずっと疑問ではあった。とはいえ、ストリーミングにのってくる音源はアルバム単位がほとんどだ。シングルもあるけれども、まずたいていはアルバム単位でアップロードされている。1枚40分前後のアルバムというのは、作り手にとっても、聴き手にとっても、使い勝手のたいへんに良いものであるらしい。
加えて、グレイトフル・デッドのような例外はあるにしても、ミュージシャンにとって「作品」とは1枚のアルバム、アナログ盤というのが相場のようでもある。クラシックでは作曲家にとってと、演奏者にとってでは「作品」の意味がずれるけれども、リリースされるのはやはりアルバム単位が圧倒的だ。あるミュージシャンがどんな音楽をやっているのか、そしてその演奏の質、選曲のセンス、作る曲のキャラクターを把握するには、まずはアルバムを1枚通して聴いてみるのがとるべき手続きだろう。
であるならば、アイリッシュ・ミュージックとはどういうものか知りたければ、まずはこの100枚のアルバムを聴いてみることから始めてはいかが、というのも意味があるのではないか。これからアイリッシュ・ミュージックを聴いてみようという人にとってだけでなく、すでに散々聴いたり演ったりしているが、この辺であらためて基本にたち帰ってみたいという人にとっても、指針の一つになりはしないか、という目論見もある。ひょっとすると、こんなのもあったのか、という発見の契機になるやもしれない。
もう一つ、初めに断っておきたいことがある。アイリッシュ・ミュージックはわれわれにとって異文化であることをあらためて認識しよう、というのが趣旨でもある。アイリッシュ・ミュージックに多少とも似たものは、わが国の文化伝統には皆無だ。明治以降、半ば強制的に移入されたヨーロッパ古典音楽、つまりクラシックにも、前世紀に様々な形で導入された主にアメリカ産のポピュラー音楽にも、似たものはまるで無い。淵源をたどればアイリッシュ・ミュージックまで行きつくものはあったにしても、それが指摘され、知られるようになるのは、前世紀も最末期から今世紀の初めにかけてである。20世紀も最後の四半世紀になるまで、アイリッシュ・ミュージックなる音楽は、わが国の住人にとっては存在しなかった。
アイリッシュ・ミュージックは親しみやすいとか、懐かしいとか、敷居が低いとか、のイメージが先行してしまっている。他のジャンル、たとえば戦後に本格的に入ってきて広く普及したジャズもまた異文化だが、あちらの場合、商品つまりレコードにする過程で抽象化、普遍化がされている。根柢にある文化が違う人間にも訴求できるように作られている。端的に言えば黒人文化を知らない白人たちにも訴えることができるように作られている。
アイリッシュ・ミュージックにはそうした抽象化、普遍化はまったく無い。レコードを作る場合にも、文化の異なる人間、たとえばイングランド人が聴くことを想定していない。ましてやユーラシア大陸の反対側の住人が聴いたり、親しんだりすることなど、まったく想像の外にある。ジャズがよって立っている文化の層よりも、アイリッシュ・ミュージックは一段深い層に立っている。そしてその層では、すなわち食べ物や生活習慣や社会構造や文化のあり方として現れる層では、我々のそれとはあまりに違いすぎる。まさに世界の対極だ。そんなに簡単にわかったり、好き嫌いが言えるものではない。
このことを忘れないようにするために、この100枚を聴く。同時にその異質な音楽と自分はどの程度つきあえるのか、相性をはかるために聴くこともできる。どっぷり頭まで漬かるのか、ごく表面的なところをなでるだけで満足するか、判断するには100枚ぐらいは聴く必要があるだろう。このどちらかの態度が望ましく、どちらかがまずい、などということはない。どちらもありだし、その間のグラデーションのどこでもありだ。音楽はアイリッシュ・ミュージックだけではないし、音楽だけがこの世のすべてでもない。
ストリーミングがありがたいのは、この100枚を聴くために、100枚のレコードを買う必要はもはや無いことである。100枚はストリーミング・サービスでごく普通に聴けるものから選ぶ予定だ。ストリーミングでは参加ミュージシャンなどのデータはわからないことが多いが、今はそれもネット上でいくらでも調べられる。まずは音を、音楽を聴くことが肝心だ。基本は Apple Music にあるものになる。あたしが Mac ユーザーだから、そして様々な理由から Spotify は使いたくないからだ。Apple Music にあって、他のサービスに無いものはほとんどないというのがあたしの観測だ。したがって、Apple Music で聴けるものから選んでおけば、他のサービスで聴くのに支障はないだろう。Bandcamp は使う可能性が大きいが、これは1、2回は誰でもタダで聴ける。何回も聴こうとすると音源を買ってくれと言われるが、それはまた別の話。そんなに何度も聴きたいのであれば、買うべきだろう。(ゆ)
