「すべての道はローマに通ず」
とても有名な言葉で、これは世界各地の道がローマ帝国に通じていたことを表現しています。また、そのご時世、そもそもそんなちゃんとした道路なんてものがなかった時代に、ローマ街道ネットワークを超拡大させたことも、そう言われる所以だったりするのです。(今も多くの観光名所になっています)
さて、ここらで一度「道路が存在しない、人が道を作るという発想のない時代」を想像(妄想)してみてください。
そこには自然の大地や山河が広がっていて、その中の歩きやすいところを人が好んで歩いています。そしてそのルートが、なんとなく「ここを通るのが良さそうねストリート」になるわけです。つまり、そういった時代に、現代の考えるようなまっすぐの道路を敷く、というアイデアはなかったんですね。
そんな中、「いやいや、どこか行くなら最短距離が一番じゃね?」と、自然の凹凸なんてなんのその、まっすぐの道を敷きまくっていた民族がいたんです。
そう、それがケルトさんです。
これは比較的最近の発見(調査結果)なのですが、ローマが世界各地に敷き巡らせた幹線道路・支線の中に、「この道路の行き当たる先ってローマ関係ないよね?」「道の一部をこの地域に持って来てもローマ(当時)的にメリットないじゃん」といった所がちらほら見られたことから、調査をされたんだとか。
そして調べていくと、ローマの敷設した道と、その昔ケルトの人たちが入植し交易していた場所が一致することから、元々あった道路網をローマ帝国が利用していたことがわかった、という流れになっています。
ちなみに、それならケルト製の道路も残ってるんじゃない?と期待してしまいましたが、ケルトのみなさんは木で道路をこしらえていたので、早々に朽ち果ててなくなってしまったんだそうです。
ちなみに紀元前うん百年、文字も持たず、「蛮族」とからかわれてたケルトさんに、なんでそんな測量・建設技術があったのか、これは現在でも格好の研究テーマになっています。(現在の有力候補は、自然、特に太陽の位置やらをうまく使って作ったんじゃない?説だそうです)そして、こういった研究が解明されるにつれ、魔法だ生贄だというイメージのあった古代ケルトの人たちの、結構なインテリ集団っぽい側面が明らかになっている今日この頃です。
ちなみに、アイルランドや英国などの湿地帯や沼地など、木が朽ち果てない環境の場所から、いくつかの「当時の道路」が見つかっています。(アイルランドのCorlea Trackwayというところが有名です)
と、今回は「頑張って敷いた道の上に、道を敷かれた」お話でした。