クラン・コラはケルト音楽、北欧音楽に関する話題をお届けする国内でたったひとつのメールマガジンです。
毎月20日頃に読みもの号として各ライターからの寄稿文をお届けします。
この音楽にご興味のある方ならどなたでも寄稿できますので、お気軽にお問い合わせください。
クラン・コラ Cran Coille:ケルト・北欧音楽の森 Issue No.320
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Editor : hatao
January 2021
ケルトの笛屋さん発行
バウロン奏者ロルフ・ウェイゲルズ へのインタビュー メリッサ・ウェイト:村上亮子翻訳
https://celtnofue.com/blog/archives/7152
2020年のアイリッシュ・ミュージックの録音:大島 豊
今月は息抜きに昨年聴いて記憶に残ったアイリッシュ・ミュージックの録音を列挙して、責めをふさぎたい。
以下、だいたい初めて聴いた順。必ずしも2020年のリリースではなく、それ以前のものもある。
An Tara, Faha Rain
Andy Irvine, Old Dog Long Road, Vol. 1
Mozaik, The Long And The Short Of It
Martin Hayes & Brooklyn Rider, The Butterfly
Eleanor McEvoy, The Thomas Moore Project
Muireann Nic Amhlaoibh, Thar Toinn = Seaborne
Kevin Crawford, Colin Farrell & Patrick Doocey, Music And Mischief
Kris Drever, Ian Carr, Alan Kelly, Eamonn Coyne, Steph Geremia,
Staffan Lindfors, Sea Road Sessions
Liz Carroll, On The Off Beat
The Harr
Luke Deaton & Jayne Pomplas, My Mind Will Never Be Easy
Mary McPartlan, From Mountain To Mountain
The Gloaming, The Gloaming 3
?il?s Kennedy, So Ends This Day
いずれもCD、ストリーミング、配信等で入手、試聴が可能。したがって、説明はつけない。ただ Andy Irvine のアーカイヴ・ライヴ音源集はVol. 2 が最近出た。どちらも必携、必聴。
また、ストリーミング、配信オンリーとして
The Mark Radcliffe Folk Sessions
というシリーズが良かった。英国のラジオ放送にこういう番組があり、その録音がネット上で聴ける。好みのストリーミング・サーヴィスで検索すれば出てくるはず。筆者は Tidal で聴いている。
いずれも15分ほどに3、4曲をやっている。アイルランド、スコットランド、イングランド、ウェールズのフォーク・シーンからのセレクションで、ダーヴィッシュのようなベテランから、ここでしか聞いたことのない人たちまで、30本ほどが公開されている。それぞれのミュージシャンのサンプラーとしてもいいし、スタジオ・ライヴで、他とは違うヴァージョンや演奏が聴ける。
昨年はスタジオでの録音活動も激減したはずで、今年、新譜として出てくるのは少ないだろう。ライヴ配信、ライヴ音源のリリースは大いに増えると予想する。(ゆ)
セッションの役割:field 洲崎一彦
さて、今回は2021年最初の投稿になりますが。うーん。もうコロナのことはあまり言いたくないですね。。。
と、いうことで、前回12月の原稿で書いた「音楽を床の間に飾っていただけ」というのが、あまりにイメージに走りすぎてよく判らないというご指摘が無きにしも非ずだったので、ここにもう少し突っ込んでみたいと思います。
前々回11月の原稿では、
- セッションは再開できるだけですべて解決か?
- コロナ以前のセッションには何も問題がなかったのか?
- もし、このセッション休止の間にいろいろと考えをめぐらせておく必要があるのではないか?
という問題提議をしました。
これですね。床の間に飾ってあったセッションを、床の間が使えるようになるのを待って同じようにまた床の間に戻す。という事で果たして万事いいのか?そもそも、その同じ床の間に置いていいのか?
という、そういうことをイメージしたお話と言えば少しは判りやすくなるでしょうか。
長らくセッションをお休みしていて思うことがあります。それは、ミュージシャンの皆さんの動向がさっぱり判らなくなったこと。私は個人ではSNSをやらないので本当に何も耳に入ってこなくなった。
これで、つくづく思うのが、セッションというものはアイルランド音楽をやる人間にとって最重要なコミュニティーであったということです。アイルランド音楽以外のジャンルで言えば、これはもうバンドが無くなる、オーケストラが無くなるというぐらいの意味合いを持っているのではないでしょうか。
確かに、アイルランド音楽のバンドも数多くあります。それは、そのバンドがたまたまアイルランド音楽を演奏するというだけであって、アイルランド音楽の世界にどっぷり浸かるためにはやはりセッションという集まりに参加する必要があるのではないか。
fieldセッション黎明期には、一部で、セッションかバンドか、という議論がありました。当時の私達はどちらかと言うとセッションの方を取ったわけです。取ったというのは結果論で、実はfieldセッション開始以前に存在したアイリッシュバンドはセッションが定着していくにつれて自然に消滅していったのですね。
これは、他のジャンルのバンドに見られるような、バンドは運命共同体という重いニュアンスを持った要素が、他にセッションという場を持つことによって薄まって行ったのではないかとも考えられます。
事、特に日本では、バンドにおける運命共同体的な雰囲気が、ふと気が付くと大きくなりすぎる傾向があるのではないかと思います。プロのバンドであれば、そこは、お仕事のための機能集団たりえるのはたやすいのですが、アマチュアの場合は、まずは音楽、から、まずは仲良し、の方向にすぐに行ってしまう。
これを思うと、アイルランド音楽においては、セッションの存在が、バンドから運命共同体のような重さを軽くしてくれていた。(軽い気分的な例をあげれば、バンドがなくなっても僕たちはセッションでは仲良しだもんね!。。みたいな笑)
と言うことは、セッションが存在出来ない今、アイルランド音楽の代表的コミュニティーが存在し得ないという状況なのですから、アイルランド音楽と言えども、積極的な活動をしようと思えばバンドを組むことになる。これは、どういう事かというと、普通にフォークやロックのバンドを組んで、たまたまアイルランド音楽を演奏するという雰囲気になります。
つまり、活動の場は、ライブハウスやライブカフェという所になって、他ジャンルのバンドと切磋琢磨して自分達の音楽を磨いていくという活動内容になります。
もちろん、現存するアイリッシュバンドの中にはすでにこのような活動をしている人達も多いでしょう。しかし、セッションが存在出来ない今となっては、この形が活動の中心及びすべてになるのです。
それはそれで本望だと思われる方も多数おられると思います。が、え?なんか面倒くさそう〜と思われた方もいらっしゃると思う。後者はある意味でセッションというものの存在に守られてきた人々かもしれません。
そうですね。アイルランド本国では、この国の文化としてセッションというものが時間をかけて育まれ現代にその姿を継承して来たわけです。が、私達の日本では、アイルランド音楽にはセッションという楽しみ方がある、とばかりにその形から取り入れた。素地となる社会や文化が違うのですから、やはりそれは表面的な形を模倣するだけになり、その形は異世界に浸透するにつれてまた別の意味を持ってしまうのは仕方がありません。
将来的にアイルランド音楽が日本においてどのような位置づけで存続し発展できるのか、という問題は、やはり、今回のお話しに大きく関わって来ると思います。それを考えると、アイルランド音楽も他のジャンルの音楽と同じ土俵でもまれて行く試練は必須だと言えます。ある意味この茨の道から私達を守ってくれていたのがセッションだったのですが、疲れを癒やし燃料を補給して再び最前線に送り出してくれる基地もまたセッションなのではないかと思うのです。
ただ、茨の道から守るだけではない、疲れを癒やす補給基地としてのセッションの役割とその場、このことを強く意識して将来のセッション再開に向けて意を新たにしたいと思う新年なのでした。
キレイにまとまったんちゃうかな?キレイ過ぎて胡散臭いなんで言わんといてね笑。(す)
音楽メディアの進歩と鑑賞体験の変化:hatao
私がこれまで生きた約40年間は、音楽メディアの発展の時代だった。私が子供の頃、父親はレコードでジャズやビートルズを鑑賞し、それはやがて大きなオープンリールに、そして小型のラジカセに変わった。小学生の頃にCDが登場し、そのクリアな音質と曲の頭出しができる便利さに驚いた。高校生の頃にはカセットテープのウォークマンを手に入れて、いつも外で音楽を聴いていた。兄はディスク・チェンジャー付きのCDコンポを両親に買ってもらい自慢げだった。
私がアイルランド音楽を学び始めた大学1年生のころにMDを手に入れた。何度重ねても音質が劣化せず、好きな曲の頭出しができるMDがすっかり気に入った私は、何百枚ものMDのコレクションを作った。MDはライブをこっそり録音するのにも便利だった。
私は家のCDはすべてMDに移して、登下校時や授業の合間にウォークマンMDでひたすら聴いていた。そんな姿を見て友人に「本当に音楽が好きだなあ」と呆れられたくらいだ。まだ音楽家でなかった自分にとって、音楽を聴くのは楽しみであり、学びでもあった。
当時はちょっとしたケルト・ブームだった。ミュージック・プラントなどが紹介するヨーロッパの伝統音楽のCDを店頭でも買えるようになった。CDの中身が良いかどうかは買って聴いてみないとわからないから、なけなしのお金でCDを買うのは賭けだったが、それでも新しい音楽が与えてくれる新鮮な感動を求めて店に通うのは、ワクワクする時間だった。輸入盤の日本語解説を読むのも楽しかった。
当時は音楽に飢えていて、CDを友達と貸しあって気に入ったCDは何度も聴いて体に染み込ませていったものだった。
2000年代にYouTubeが登場してからは、音楽との出会い方が劇的に変わった。初期のYouTubeはまだ今のようなミュージック・ビデオとしての楽しみ方は少なかったけれど、CDでは手に入りにくいトラッド音楽を映像付きで見られる点は画期的だった。今ではどんなジャンルでもレッスン・ビデオや専門家の解説が大量に見られるので、何かを学びたい時や知りたい時には、Googleで調べるよりもYouTubeで調べるほうが多いのではないだろうか。
2010年代はダウンロード・サービスが身近になってきた。私はアメリカのeMusicというダウンロード・サービスを長い間愛用していた。毎月$50を支払いサブスクリプションして1曲約1$で好きな曲をダウンロードするサービスで、トラッド系の音源が充実していたので、毎月の更新日が楽しみで仕方がなかった。
データ配信サービスが登場するまでは、ヨーロッパから高いEMS送料を支払ってCDを取り寄せていたのだが、eMusicを利用すれば、送料もかからず即座に聴きたい曲だけを買って楽しめるようになった。私はCDを買っても結局はmp3に変換してポータブル再生機とイヤフォンで聴くから、音質はまったく気にならなかった。そうして手に入る限りのトラッドの音源をダウンロードしまくった。
楽器店を経営するようになって、店の仕入れと称して好きなだけCDが買えるようになった。これは本当に幸せだった。昔は聴きたいCDがたくさんあってもお金が足りなかったから、思う存分音楽を集めて聴くことを夢見ていたのだ。
私は几帳面でコレクター気質だから、CDもデータも手に入った音源はすべてHDDに整理していて、すぐに聴きたい音源が探し出せるようになっている。もちろん、CDから取り込んだ音楽であればジャケットをすべてスキャンして保管しているので、資料的な価値も高い。これがレッスンや練習や教本の執筆に非常に役に立った。この習慣を20年近く続けているので、音楽は何百ギガもの膨大なコレクションになった。おそらく、自宅で最もお金をかけたのは、楽器ではなくこのHDDだろう。火事になって最初に持ち出すものを選ぶとしたら、このHDDかもしれないと本気で考えることがある。
ところが、ここ数年でこのコレクションにアクセスすることがめっきり少なくなった。ストリーミング・サービスが登場したからだ。
私は数あるストリーミング・サービスの中からAmazon Music Unlimitedに登録しているのだが、音源の充実ぶりが半端ではない。新譜が出るスピードが速いし、過去の廃盤も見つかる。11月頃から未聴音源を整理したくてプレイリストを作り始めたが、やがてそれは数千曲にもなり、トラッド音楽ファンの役に立てばと自分の持っている音源も加えて公開した。ジャンル別・楽器別に整理されているので、ぜひ利用してほしい。
https://celtnofue.com/play/playlist.html
最近はこの膨大な量のプレイリストから、気分に合わせてランダムに聴くことが多くなった。
ストリーミング・サービスは自分の音楽の聴き方を大きく変えた。以前はパソコンを起動して聴きたい音楽のデータをiTunesでスマホに移して聴いていた。一度スマホに入れると飽きるまで数ヶ月間は入れっぱなしだったから、一枚一枚が印象に残った。しかし、ストリーミング・サービスを利用してからは手当り次第に次々と別の音源を聴くようになり、ほとんどが印象に残らないばかりか、むしろ曲数が多すぎて聴きたい曲を探すのにも苦労するようになった。
ストリーミング・サービスの登場によって起きた変化がもう一つある。それは、私が聴くのは流行がなく古びることのない伝統音楽なので、新譜だろうと古い音源だろうと良い音楽は良く、新譜を聴く意欲が減ってしまったことだ。
いや、正直に告白すると音楽を聴くことそのものへの意欲が低くなったのかもしれない。
お腹をすかせていた人間が、いきなりバイキング・レストランに放り込まれたような状態なのだ。どれもこれもおいしそうで目移りしてしまい、もうお腹いっぱいなのに食欲だけは尽きず、心から美味しいと感じないままに口に運んでいるようなものだ。昔のように限りある手元の音楽を大切に聴いていた頃の鑑賞体験のほうが一曲一曲をしっかり味わっていたなと感傷的な気持ちになる。
今や音楽はほとんど水や空気のようになってしまった。昔は海外から個人輸入をしてまでCDを手に入れて聴くことに情熱を燃やしていたのに、最近はめったにCDを買うことも聴くことがなくなってしまった。今後は伝統音楽シーンでもCDは衰退すると予見して、仕入れはせずにどんどん売り切ってしまうつもりだ。
一人の消費者としての自分がこのように大量の音楽に圧倒されているのに、音楽家として音楽をさらに生みリスナーに提供してゆくことに少々矛盾や不安を感じていることも事実だ。
こういった技術革新に加えて、今はコロナウィルスの世界的な流行が原因で、音楽のあり方に再び大きな変化が起きていると感じている。
音源として音楽を聴くことのコストが歴史的にかつてないほど安くなった現在、ただ音を聴くだけではない新しい鑑賞体験が求められている。
コロナウィルスが終息してもリアルタイムのオンライン・コンサートは当たり前になるだろうし、さらには5G通信を使った劣化のない音質で、VRゴーグルを使ったリアルなコンサートに価値が生まれてくると予感している。
エジソンの蝋管に音楽が記録された120年前から、音楽は情報になる運命であった。しかし、これから起きる変化は「情報」よりも「体験」に価値を置くようになるのだろう。そのような便利な未来が楽しみであるとともに、1枚の作品に深い愛着を持って何十回も聴いた時代を生きてよかったとも感じている。
編集後記
2021年もクラン・コラをどうぞよろしくお願いします。
いつも原稿が不足しがちな本誌に、寄稿してやっても良いぞという愛読者の方はぜひご連絡ください。
ケルト音楽に関係することで、他のメディアでは読めないもの、読者が興味を持ちそうな話題を執筆ください。
頻度については、一度にまとめてお送りくださっても構いませんし、 毎月の連載形式でも結構です。
ご応募に際しては、
- CDレビュー
- 日本人演奏家の紹介
- 音楽家や職人へのインタビュー
- 音楽旅行記
などの話題で1000文字程度までで一本記事をお書きください。
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