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クラン・コラ Cran Coille:ケルト・北欧音楽の森 Issue No.331
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Editor : hatao
December 2021
ケルトの笛屋さん発行
ティン・ホイッスル:松井ゆみ子
一見、簡単そうに見える楽器ですが、さにあらず。
とはいえ、アイルランドらしい音色の笛は手軽に入手できますし、どこにでも持ち運びできる利点がありますし、ぜひともトライしていただきたい楽器です。チューンを覚えるのに適した楽器ですから、他の楽器を習っている方にもおススメしたいと思います。
小学生の頃にリコーダーが得意だったので、ティン・ホイッスルは「楽勝」なんて思っていたのですが、穴が少ない……。簡単な楽器なんて、ひとつもないんですよね〜。
パンデミックが始まる前、毎週月曜日の夕方から夜まで開催されるセシューンの練習会に通っていました。家をまるごと開放し、多いときは30人以上が参加。初級&中級と上級者の2クラス。初級&中級はこどもが多く、親も一緒に演奏しているのが印象的でした。アイルランドのセシューンの原形といえる光景です。
こどもたちの大半はティン・ホイッスルを学んでいました。小学校低学年から習って、ちゃんと続けたら上手くなるんだろうな〜。
まだカウンティ・キルデアに住んでいた時分、近所のパブでもときどきセシューンがあり、ホイッスル・プレイヤーが飛び入り。ダブリンからやってきたのだそう。えらく大きい男性で、小さなティン・ホイッスルがさらに小さく見えて微笑ましい。ダブリンから駆けつけるだけあって、演奏はかなり上手でした。
テレビのドキュメンタリー番組で、ホットハウス・フラワーズのギタリスト、フィアクナが、ホイッスルをポケットに入れてアラブの国を旅しながら地元の人たちと演奏するのを見たことがあります。かっこよかった。ポケットからさっと出せる楽器って、すごいですよね。
個人的に、ホイッスルの第一人者といったらマイコ・ラッセル(Micho Russell/ 1915~1994)。
カウンティ・クレアのドゥリーン(Dooline)出身で、母親が今コンサーティーナ、父親はシャンノースシンガー。パブでのセシューンの帰り道、車にはねられて亡くなったというのが衝撃でした。のちのち、クレアに住むマークの友人の父親が連れて行ってくれたパブから歩いて帰って来たときに、街灯もなく真っ暗な田舎道を歩くマイコの姿を思い浮かべていました。
多くのCDや映像が残っていますが「お!」と嬉しくなるのを見つけたのでご紹介いたしますね。共演しているのは、つい先ごろ鬼籍に入ってしまったアコーディオン奏者トニー・マクマホン。貴重な映像だと思います。
もうひとりはロウ・ホイッスルのコーマック・ブレナック。わたしの友人がギタリストで一緒にアルバムを作っていた時期があり、コンサートにもよく誘ってもらっていてラッキーでした。ロウ・ホイッスルの深みのある音色はとても好みで、今もコーマックの演奏は大好きです。彼のことはいずれまたゆっくり書きたいと思っています。
この原稿を書くにあたって、またホイッスルの練習を始めてみました。チューンは前よりたくさん覚えているのに、フィドルで習ったものをホイッスルに移行するのは、これまた簡単なことではなく。逆はありなのにね。スカボロー・フェアが案外いい課題曲なので、サリーガーデンと交互に吹いています。
振り出しではなかった?:field 洲崎一彦
さて、前回は私の中にあるある矛盾を吐露したのでした。つまり、趣味人口を広げるという一点で私はこれを趣味と仕事を両立させる大義名分にして来たのが、自分のどこかに、この密やかな趣味はそっと自分の殻の中で取っておきたいという気持ちがあって、それを自分でもそれを見ないようにしてずっとやって来たという矛盾を告白したのでした。
前々回まで引っ張っていた、自分の音楽脳が停止してしまっているという吐露は、実はこの部分にも大きくかかわる話なのではないかと思うのです。何よりも、きっかけはコロナ禍で長い間仕事が正常に動かなくなったことにあるのですから。
つまり、ざっくりと言ってしまうと、趣味と仕事を両立させる必要がなくなったのですね。これで、私は根の深い矛盾を抱える必要がなくなったと。まあ、話の流れではこうなるのですが、実際はそんな簡単な事ではなかったということなのです。
何よりも、私は自分の中にあるこの矛盾を自覚していなかった。そこに、突然、私があらゆる無理をしつつこの矛盾を無視し続けるという日常生活が崩壊した。ひとつの大きな状況が突然変化したわけですが、私自身は慣性の法則と申しますか何と申しますか、まったく同じ日常感覚でそのまま過ごそうとしていたのです。頭では判っているけど身体に染みついたものはそう簡単に変化させられないというアレですね。
つまり、危ういバランスの上で私は長年趣味と仕事を両立させて来てしまったわけです。しかし、その必要がなくなったという状況の変化について行けずに、この危ういバランス感覚をその後も保ち続けるということになったのです。途中をすっ飛ばして言うと、その結果私は自分の音楽脳を停止させてしまわざるを得ない状態に陥った、とまあこういうわけなのではないかと思うのです。
趣味を仕事にやみくもに関連させるという無理は、知らない間に逆方向の流れを作ってしまって、こねくりまわした果てに、何か仕事に関連させなければ趣味が実行できないという方向に固まって行ったのではないかと思えるのです。実はこのことを如実に物語るエピソードが先日起こったのでした。
この夏の前あたりでしたか、私は自分の趣味である音楽を思考する部分、つまり音楽脳がまったく停止していることを自覚したのでした。それ以来、長年の自分の趣味である音楽をこの先も継続させて行く自信、あるいはまた、継続させる意思も萎えてしまっていることに気づきつつも、自分としては、これは非常に不思議なことが自分に起こっているという驚きがあって、その色々なエピソードをこのクランコラ誌上に吐露して来たのでした。
そこで、最近になって世の中のパンデミック緊張もやや薄れてきて、あらためて客観的に耳にするアイリッシュの生演奏やその雰囲気に接して、自分が以前とはまったく違った感覚を抱いた事などが非常に新鮮に感じられ、これは、自分の中にある音楽脳を一旦リセットさせて新しく音楽にアプローチする良い機会だったのではないかと、非常に自分勝手な解釈をしている今日この頃でした。
そこで、緊急事態その他は解除されたものの、あらたにオミクロン株の出現が警告され、アイリッシュパブという営業活動をどの程度コロナ以前に戻すか?
いや、まだまだ慎重に進めるべきなのかを迷いながら、この年末に突入したのでした。
当パブの目玉であるセッションに関しては、対面ではまだアクリル板を設置しなければならない飲食店として、やはり、マスクが出来ないホイッスルやフルートの存在に悩ましいものがあり、と言って、fieldがセッションを再開するにあたって、笛の人はご遠慮ください、などとは言いたくはありません。それで、当パブのセッション再開はまだ時期尚早だと考えました。
が、一方、ライブハウスへのガイドラインである、舞台から客席を何メートル離すだとか、舞台と客席の間にビニールカーテンを設置するだとかの方策の方が、当店ではセッションよりも遙かにハードルが低いのではないかとの意見もあり、では、年末の当パブの名物行事だったクリスマスパーティはどうしよう? とぎりぎりまで思案していたのでした。
従来のfieldのクリスマスパーティは、ライブステージを設置して、普段セッションに集まる演奏者に広く声をかけて出演を募り、毎回、3時間の間に8組から10組が出演するライブパーティが特徴だったのですが、ディスタンスには細心の注意を払って行うにしても、こちらから演奏者の皆さんに広く参集を呼びかけるというアクションにはまだ少々抵抗がありました。そこで、ここは、オープンマイクということにして、基本的にその場の飛び入り演奏という形で、集まっていただいたお客様にステージを開放するスタイルでの実施方向がまとまり、やっと方針が固まって、今この原稿を書いている12月19日の夜20時より2年ぶりのfieldクリスマスパーティを行うことに決定したのでした。
そこで、突然の開放感を覚えたのがこのコロナ禍の中で入って来た数少ない新米スタッフ達だったのですね。普段はマスクをして接客し、アルコール消毒を促し、アクリル板が邪魔だというクレームに頭を下げ続けて日々仕事をしていた窮屈感しか知らない新人達ですから、こういうパーティの開催への反応は、それは充分に共感できるものです。
そして、佐藤店長を中心に若い新人2名がオープンマイクの出し物を企画して盛り上がっている光景が出現し、それは、私には実にほほえましいものだったのです。
が、その内容が、私は詳しくは知らないのですが、最近、競馬馬を美少女キャラクターに置き換えるという設定のゲームやらアニメが流行っているそうで、それの何やら「うまぴょい伝説」というテーマソングを演奏して、佐藤店長の隠し芸である実況アナウンスを交えながら、普段はK-POPのダンスサークルに所属する新人君が踊るという、まあ確かに開放感に満ちた楽しそうなものらしいのです。
そこで、突然、私は相談を受けることになります。「実は、演奏者がバイオリンとパーカッションしか居ないのですが、ギターで伴奏を弾いてもらえませんか?」
まあ1曲なら知らない曲でも何とかなるだろうと私は軽くこれを受けてしまうのですが、その曲をもらった瞬間に大後悔するのでした。最近のゲームの曲はこんなことになっているのか!
2分にも満たない短い曲の中で、テンポは変わる!コードはめまぐるしく転調する!
歌ともラップとも見分けのつかないメロディライン。はっきり言ってこんなものを久しぶりに持つギターで自分が演奏出来る気がしない!!というものでした。
が、ここから、私の頭の中はぐるぐると急回転し、アコースティックギターに付けるマグネット式ピックアップを交換し、ギターの弦を張り替え、曲を半分の速度で再生してとにかくコードを探っていく。気が付くと、毎日の仕事そっちのけで、ものすごい集中をしてしまっている自分がいたのです。そして、気が付いてみると、あ、音楽脳が働いている!という事実に気が付きました。
これです。こんなことでスイッチが入ったという驚愕の事実。本当にまったく興味の無い音楽なのですよ、これは……。
つまり、クリスマスパーティという言わば仕事に引っかけられたのですね。ここに引っかかって来ることで、私のエンジンが突然まわり出した。そして、前述の本末転倒を大いに自覚したというわけなのです。つまり、仕事に関連させられないと趣味であるはずの音楽が実行出来ない。
これは、自分にとっては恐ろしい事実です。趣味が趣味でなくなった瞬間です。しかし、身体がこのように反応したのですからもはやこれを否定することは出来ない。
また、かつてのセッション仲間のささやきが頭の中でリフレインします。
「スザキさんは本当はアイリッシュ音楽は好きじゃないでしょう?」
この事実を、如何に受け止めて行くか……。今、パーティの直前に。この思い事実がずしっとのしかかって来るのでした。
まあ、別に音楽が趣味でなくてもいいのですけどね。(す)
わが音楽遍歴、または余はいかにして心配するのをやめてアイリッシュ・ミュージックを聴くようになったか・その5:大島豊
60代も半ばになってふり返ってみると、人生の転機というか分岐点が見えてきます。ぼくにとって最初の分岐点になったのは中学で私立の中高一貫校に入ったことでした。東京・港区にある芝学園です。東京タワーの真下といっていい位置にあり、麻布西町の家からは歩いて片道30分。乗って通える都バスの路線もありましたが、時間的にはそう変わらない上に、バスは時間が読めなかったため、入学当初や、よほどの悪天候の時を除いて6年間歩いて通いました。いくつか試した後、東京タワーの文字通り真下、脚の間をくぐるルートが定番となりました。そこを通るのは朝の8時前後ですから、ビルも店も開いておらず、ほとんど人通りもありません。帰りも同じルートを辿るわけですが、当時はあまり賑わっていた記憶がありません。場末の感じでした。東京タワーには何度か昇っていますが、小学校までで、芝に通っていた間もそれ以後も、直下のビルに入ることはあっても、展望台に上がったことはありません。一方で、今でも歩くことが好きなのは、この6年間の徒歩通学のおかげと思っています。
公立の中学であれば徒歩通学が大部分だったはずですが、私立では徒歩通学しているのは、他にはぼくよりももっと家が近い生徒がほんの数人で、ほとんどは電車で通っていました。当時の芝は商店や独立自営業の子弟が多かったようです。通学圏は都内23区がメインで、県をまたぐ者が少しというところだったでしょう。ぼくはその頃から友人であっても相手のプライヴェートな側面にはまったく関心が起きず、相手がどこに住んでいるかと訊ねた記憶がありません。けれども、友だちの家や野球をするための空地など、それまでの活動範囲がすべて子どもが歩いて行ける範囲に収まっていたところからすれば、次元が異なるほど世界が広がったことはわかりました。
家庭環境の違いも格段に多様になりました。小学校の同級生にも商店や医者の子弟はいましたが、半世紀前には東京のど真ん中であってもそれなりのローカル性が保たれていて、小学校が同じであれば、なんとなく気性や心性も共通するところがありました。逆に、相手が隣に住んでいても、通っている小学校が違うと異星人とまではいかなくとも、違う世界の住人と感じたものです。大人の脚で5分ほどのところに有栖川宮記念公園があり、当時のぼくの行動範囲の最も遠いところになっていました。ここはこの辺りでは一番広く、地形が変化に富み、川や池もあるので、複数の小学校に通う子どもたちの遊び場になっていましたが、各々のグループで遊んでいて、いりまじって遊ぶことは例外的なできごとでした。そういう環境に比べれば、これまた井の中の蛙がいきなり琵琶湖にでもほおりこまれたようなものです。当然、関心をもつ範囲、角度、あるいは趣味のジャンルなども多様になります。
今は知りませんが、当時の芝中・芝高は、基本的に卒業生は全員大学進学しましたし、「進学実績」でもかつてほどではなくても、いわゆる一流大学に数十人が合格しているという点では名門進学校の一角ではありましたが、中の雰囲気はいたってのんびりしたもので、捩り鉢巻きさせてぎゅうぎゅう絞るようなことはありませんでした。男子校で、職員にもほとんど女性はいませんでしたから、今の潮流からすれば反動以外の何者でもなかったですが、教師には結構個性的な人もいた、と今から見ると思えます。思い出すのは、すでにかなり高齢の英語の教師が『源氏物語』に精通していると言われていたことです。それが不思議でもありえないことでもないと感じられました。そういう中で、いわば趣味人と呼んでもいい同級生と知りあうようになりました。
前回、次は深夜放送について書くと予告したのですが、つらつら思い出したり、調べたりして、深夜放送を聞きだしたのは高校1年になってからと判明しました。ぼくの音楽遍歴の中では第2段階の始めになります。その前に第1段階として、ぼくはクラシックにどっぷりハマりこんだのでした。
中学ではバレーボール部に入りました。芝学園は運動系の部活動も結構盛んでした。グラウンドが狭いこともあって、野球の影がひどく薄いのもおそらく衝撃ではあったでしょう。当時は軟式テニス、卓球、剣道、柔道などが都内で強豪でした。バレーボールも強く、ぼくらは中学での9人制の最後の世代ですが、ぼくらが中学3年の時、夏の都大会でベスト4まで行きました。なんと、体育館が無いという、入学してからわかった衝撃の事実がありましたが、校庭の半分がコンクリート、半分が土という苦肉の策になる、その土の部分にあるコートで練習していました。土の部分は硬式野球部と1日交替の使用で、コートでの練習の無い日や雨の日は基礎体力と言って、筋力や持久力を鍛える練習をしていました。もっとも、春夏の中学の都大会会場も基本は屋外でしたから、そう無茶なことではなかったわけです。
強豪の一角ですから練習はかなりハードでいわゆる「月月火水木金金」。つまり、年中無休。休みは定期試験前1週間と試験期間中、それに年末年始のみ。中間や期末試験が終った日の午後から練習再開です。春夏冬の休みでは午前または午後どちらかで3〜4時間。屋外ですから、夏は炎天下、冬は寒風の中、よくやっていたものと、今は思いますが、それなりに楽しんでいたのでしょう。中学の間は辞めたいとも思いませんでした。自分でも驚くほど気が変わったのは高校に上がって少ししてからです。とにかく、自分の時間が欲しくなったのでした。細かいことはもう忘れましたが、高校1年の秋に辞めました。それと入れ換わるようにして、クラシックを手当たり次第に聴きだしたのです。
きっかけは『SFマガジン』の読者投稿欄に載った一通の手紙でした。SFMと以下略称します、を読むようになったのはこの年の夏、二学期が始まって間も無くです。同級生でたがいに本好きと認めていた友人のもとへ、他のクラスの生徒がSFMやアメリカのSF雑誌を数冊もってきていたのです。この件については前にブログに書きましたので、細かい話はそちらをどうぞ。
http://blog.livedoor.jp/yosoys/archives/54942703.html
そのSFMの読者投稿欄「てれぽーと」に、SFファンが聞くべき音楽について紹介する一文が載ったのです。当時、SFファンが聞く音楽としてはまずプログレということにされていました。が、その手紙の書き手はピンク・フロイド、キング・クリムゾン、ムーディ・ブルースの御三家は皆さんご存知とさらりとかたづけて、その次にホルストの『惑星』をとりあげていました。
今のこの曲の人気はご存知の通りですが、その当時、1970年頃には知る人ぞ知る、というよりは知る人も知らないくらい、埋もれた存在でした。ちょうど時を同じくして出た『レコード芸術』付録の「作曲家別クラシック・レコード総目録」にも載っていたのはわずかに2種。そのうちのの1枚、サー・エードリアン・ボールト指揮、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団、アンブロージア合唱団によるものを手に入れたのです。買ったのは秋葉原にあった石丸電気レコード・センターです。
1980年代にタワー・レコードや WAVE の進出で業界地図が引っくり返る前、秋葉原に複数あった石丸電気のレコード販売部門は、レコード・ファンの聖地でした。輸入盤ばかりを集めた店舗もあり、ここに無いレコードは国内では手に入らない、と言われました。実際にはその頃のこづかいではなかなか買えませんでしたが、何度も通ったものです。むろん、自分で見つけたわけではなく、石丸電気に最初に連れていってくれたのは、すぐ隣の、親戚でもある少し上のお兄さんでした。
ボールトは当時すでに英指揮界の長老で、他にはヴォーン・ウィリアムスの交響曲のどれかを聞いたことがあると思いますが、その後ほとんど名前を聞いたことはありません。『惑星』のライナー・ノートの中では、後に声価のとみに上がるジョン・バルビローリがボールトに続く者として並べられていたりしました。
とまれ『惑星』をくりかえし聴くことで、クラシックへの関心が生まれたわけですから、その後、人気が出るのも当然かもしれません。それぞれの楽章に各惑星の名前がつけられ、それぞれの「性格」を音楽に編みこんでいるのも、わかりやすい。言いかえれば、聞いて、なるほどと思えます。それらの「性格」は科学的事実に基いたものではなく、占星術や神話、伝説によるもので、背後に物語があるのも鑑賞を促進します。つまり、たとえばベートーヴェンの交響曲にともすればなすりつけられるような、芸術作品というとりすましたレッテルではなく、むしろエンタテインメントと呼んでもいい。音楽を聞くことで、まさに、1篇のサイエンス・フィクションあるいはファンタジーを読むように、太陽系一周観光旅行をした気分を味わえます。
しかし、ここから物語性ではなく、それを語る音楽そのものに関心が向かったのは、あるいは一種の素質、そういう傾向が多少とももともとあったのではないか、と思えます。たとえば、作曲や楽器演奏、歌唱の才能のような明瞭なものではなくても、音楽に反応する、共鳴する傾向です。音楽を聞くことを好み、やがて、定期的に音楽を聞かないとおちつかなくなり、ついには音楽を聞くことにアイデンティティを見出す、そういう傾向でもあります。
クラシックを聴きまくるには環境の良さもありました。レコードは高くておいそれとは買えません。聞く媒体はもっぱらラジオ、FM放送です。先にも書いたように、ぼくの生家の2階からは東京タワーの上半分が見えました。ここは NHK FM の源です。2階の六畳間では、室内にT字型アンテナを張るだけで、まことにきれいに受信できました。FM東京の方はやや遠くなり、ノイズが入ることがありました。
当時のFM放送では、クラシックをかける番組がたくさんありました。とりわけ記憶に残っているのは NHK FM の「ホーム・コンサート」です。平日午後の2時間枠で、アナウンサーが曲名、作曲者名、演奏者名を述べるだけで、あとはひたすら音楽が流れるという、ぼくから見れば夢のような番組でした。2時間枠なので、マーラーやブルックナーの交響曲のような長い曲も、そう頻繁ではないにしても、普通にかかりました。選曲はバロックから20世紀初頭、ストラヴィンスキー、バルトークあたりまでだったと思います。
ぼく自身が聞くものとしては、とにかく手当たり次第でした。右も左もわからないまま、時代も地域もすっとばして、FMでクラシックがかかる番組はかたっぱしから聞く形です。結果、1年半ほどで、古楽から現代音楽まで、これという作品は一通り聞くということになりました。
それだけ聞いていれば、おのずから好みも出てきます。カラヤンは嫌いで、カール・ベームが好き、とか、マーラーはワルターに限るとか、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスよりもリムスキー・コルサコフ、プロコフィエフ、あるいはシベリウス、グリーグ、ヤナーチェック、コダーイ、バルトークを好む、という具合です。バッハは好きな曲もあるけれど、モーツァルトは軽薄だから素通りする。ヘンデルはその頃はほとんど聞いていません。声楽はベルカントがどうにも好みに合わず、歌が入るものは避けていたからかもしれません。後の趣味とは逆ですが、器楽曲、それも大編成のものが一番好きでした。
1970年頃といえば、世はロックの全盛時です。周りも音楽が好きという人間が聞いているのはほとんどがロック。という中でも、ぼくはそちらにはまったく見向きもせず、ひたすらクラシックを聞いていました。世の中の流行とは無関係に音楽を聞くというのは、以後、ぼくのスタイルになります。
そうした中へ別の音楽が入りこんできます。一つは深夜放送。もう一つがプログレでした。以下次号。(ゆ)
フォルクローレとアイルランド音楽 ー 私が歩んだ分かれ道:hatao
編集後記
原稿が不足しがちな本誌に、寄稿してやっても良いぞという愛読者の方はぜひご連絡ください。
ケルト音楽に関係する話題、例えばライブ&CDレビュー、日本人演奏家の紹介、音楽家や職人へのインタビュー、
音楽旅行記などで、1000文字程度までで一本記事をお書きください。
頻度については、一度にまとめてお送りくださっても構いませんし、
毎月の連載形式でも結構です。
ご相談の上で、「ケルトの笛屋さん」に掲載させていただく場合は、1文字あたり0.5円で買い取りいたします。
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クラン・コラ:アイルランド音楽の森(月1回刊)
発行元:ケルトの笛屋さん
Editor :hatao
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