【バックナンバー:クラン・コラ】Issue No.294

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クラン・コラ Cran Coille:ケルト・北欧音楽の森 Issue No.294

アイリッシュ・ミュージック・メールマガジン 読み物編
May 2019

私とケルト音楽 恩田裕之さん前編:天野朋美

【私とケルト音楽】第一回:ラジオ番組パーソナリティ 恩田裕之さん 前編

hatao & nami “Silver Line” レビュー:大島 豊

アメリカのケルト系シンガー、コリーン・レイニィの録音を聴くシリーズ。4枚めのアルバム《Here This Is Home》の第7回。

09.The Cruel Brother05:34
チャイルド11番、Roud 26番の古いバラッド。いわゆるマーダー・バラッドの一つ。ある王家の姫を旅の騎士が見初め、求婚する。姫は父王、母女王、姉アン、兄ジョンの承認を得るようにという。騎士は両親と姉の承認はとりつけるが、兄にことわるのを忘れる。婚礼の日、兄は花嫁を馬に騎せ、刺殺する。花嫁は死ぬ間際、両親と姉に遺品をのこすが、兄には死刑台と縛り首の縄を残す。

伝承の「残酷」バラッドのタイトルには mother、sister、brother、あるいは
また sea capteain や ship’s carpenter はあるが、father は無い。歌詞の内容には cruel father というフレーズは出てくるが、歌のタイトルにはみあたらない。

起源はどうやらスコットランドで、スコットランドのシンガーが多くとりあげる。

Archie Fisher, The Man With A Rhyme, 1976
スコットランド伝統歌謡の長老格の絶頂期の滋味あふれる歌唱。ちょっと喉を 絞っているように聞えるが、歌唱自体はごく自然で、暖かい声で坦々と唄われる と、悲劇性が高まる。左右にギターを配するシンプルな組み立て。”Hech, hey’ and the lily gay” という2行めのリフレインで最後の “gay” を高く、強調するのが、物語が進むにつれて不気味さを増す。現代におけるバラッド歌唱のお手本。

Battlefield Band, Battlefield Band, 1977
モダン・スコティッシュ・ミュージックの幕を開いたバンドの地元デビュー作(なぜかデビュー作はフランス盤)。リード・ヴォーカルはジェイミィ・マクメネミィ。かれは後にブルターニュに渡り、Kornog に参加。左にブライアン・マクニール、右アラン・リードのコーラス。リード・ヴォーカルに軽くリバーヴをかけている。始めはアラン・リードのオルガンをバックにゆったりと入り、やがて、右にジョン・ガハガンのホィッスル、真ん中右にマクメネミィのポルチュギース・ギター、左にマクニールのブズーキが入る。半ばで、ブズーキとポルチュギース・ギターが緊迫感とテンポを高める。メロディはスコットランドの”The Jolly Beggar”。

プランクシティがモデルであるのは明らかだが、マクメネミィとマクニールの、芯の太い、一種突き放す歌唱がスコットランドらしい、温もりと荒涼感の同居する世界を生み出す。

Bobby Watt, C’est Watt, 1994
カナダのシンガー。下のディック・ゴーハンに近いヴァージョンを、エレキ・ベース、ボンゴなどのパーカッション、エレキ・ギターのエフェクトも使って展開する。シンガーとしては一級の人だが、歌唱だけではゴーハンに及ばないことを自覚して、バックのアレンジで歌を支えようとした意図は成功している。

Dick Gaughan, Prentice Piece, 2002
スコットランド伝統歌謡界の「キング」畢生の歌唱。バラッドを唄ってここまで迫力満点にできるのはこの人くらいか。後続への影響絶大。自身のシンプル極まるギター一本がバック。基本的にはアーチー・フィッシャー版だが、メロディとリフレインはかなり変えている。

Tempest, Shapeshiter, 2003
アメリカのケルティック・ロック・バンドの2004年のライヴ版。フィドル、エレキ・ギター、マンドリン、男声リード・シンガーと女声のコーラスを中心としてプログレ的組曲に仕立てている。途中、関係ないメロディを次々に放り込む。後半、歌が終ってからはダンス・チューンやそれのレゲエ的解釈も入れる。

このバンドはオスロ生まれの Lief Sorbye がサンフランシスコに移り、The Incredible String Band にヒントを得て、1990年頃に結成。

Martin Simpson, Kind Letters, 2005
イングランドの大ベテランのシンガー/ギタリスト。ゴーハン版をやや速めのテンポで標準英語で唄う。ギターはこの人らしく、複雑なことを軽々と聞かせる。3分の1くらいからフィドルが左に加わる。さらにギターとフィドルに電気が通って、バラッドの偶数行コーラスの代わりをする。

このアルバムはブリテンのビッグ・バラッドをはじめとする伝統歌ばかりをとりあげ、アイリッシュの当時の若手トップ・クラスのミュージシャンたちを起用した異色作。

Maeve MacKinnon, Don’t Sing Love Songs, 2007
スコットランドのシンガー。アーチー・フィッシャー版。コリーンはこの録音でこの歌に出会った由。リリカルなギターをメインに、ダブル・ベース、2本のフィドルがしっとりした色つけをする伴奏で、一見軽やかに、ややポップにも響く歌唱だが、粘りがあり、押えるところはきちんと押えて、これはベストの歌唱の一つ。

Colleen Raney
ギター、さらにピアノとダブル・ベース、最後にはドラムスも入るバックはむしろビートを強調する。ピアノの間奏も含めて、アレンジは明るく、メロディも明るいが、歌唱そのものはやはり抑えた色調。メイヴ・マキノンのヴァージョンに倣い、歌唱は粘りがあり、その上にこの人の特徴の一つでもある、歌詞を丁寧に唄うので、歌詞を知らないとあっけらかんと聞き逃しそうになる。こういう悲劇のバラッドは悲劇的に唄ってはリアリティに欠けてしまう。いかに力を抜く か、抜く一方で押えるべきところをいかに押えるかに、シンガーの工夫が出る。 コリーンはぎりぎりのバランスをとっている。

以下、次号。(ゆ)

hatao & nami “Silver Line” レビュー:大島 豊

2014年6月、このアルバムのレコ発に飛び入りしたトシバウロンによれば、デュオとしては6年前にすでに始めていたそうです。実際、2007-12-20 の日付の Butter Dogs のライヴでは、後半 Namidori 名義の演奏が収められ、どちらのトラックにも互いのメンバーが参加しています。さらに2011年の hatao のソロ・アルバム《縁》では、全篇にわたって上原奈未名義のピアノ、ハープシコード、ハープがフィーチュアされていました。このソロはドレクスキップをはじめ、ノーサンブリアン・パイプ、シタールやフラメンコ・ギター、さらにはヒップホップ流の打ち込みなど、幅広いジャンル、スタイルの音楽家を招いた饗宴盤ですが、上原のピアノは一見かけ離れた音楽を巧妙につなぐ一方で、正面でメインのメロディを担当したり、愉しい変奏を展開したりして、陰の主役と言うべき存在でした。

そうした「前兆」にもかかわらず、二人の名義のアルバムが出た時、どういうわけか意表を突かれた想いが消えませんでした。この組合せが不似合いというと強過ぎますが、楽器のとりあわせはともかく、この二人が対等のデュオを組むのが、どこか不思議でしかたがないと感じられたのでした。

おそらくそれは筆者がふだん二人のライヴに接しておらず、それぞれの録音だけを聴いてイメージを組み立てていたせいでありましょう。hatao のライヴは遙か昔に Butter Dogs として2度ほど見ただけで、nami にいたっては、上記のデュオでのライヴが生に接する初めての機会でした。

そのイメージは、このアルバムのリリース当時の紹介でも書いたことですが、hatao の方はストイックにフルートを極めてゆく、ほとんど求道家に近いものでした。まだ今のように笛なら何でもござれの多様さは見えず、ホィッスルやロウ・ホイッスルを混ぜるくらいで、楽器としてのフルートの可能性をとことん追求すると見えていました。nami の方は ほぼ Shanachie の録音だけを通してのもので、hatao とは対照的に型にはまらず、音楽を面白くするためなら掟破りも平気、伝統音楽とはそこで遊ぶための遊園地、と見えていました。Shanachie が前年に出した《Ljus》で、北欧の伝統歌をものの見事に日本語化してみせた離れ業に、そうしたイメージが一層強化されてもいました。

このデュオはこれまで3枚アルバムを出していますが、このファーストからは後の2枚はやや距離があります。今後、二人がどのような音楽を展開してゆくかはわかりませんが、後の2枚の傾向が続くとすれば、これはなかなか貴重な成果です。hatao の流れからいえば、これは前作のソロ《縁》で実験したことを咀嚼吸収して、自らの音楽として織りなおしたものと言えましょう。nami の方では、バンドではなく、デュオでやることによる自由度の高さと、一方で相手との対話を余儀なくされる制約という相反する環境を使いこなすところに新たな「遊び」を探っていると言ってみましょう。

まず、レパートリィの面、つまり素材としてはケルトの枠をはずし、ノルディックや東欧に範囲を広げ、さらには各々のオリジナルも積極的に採用しています。後の2枚の素材がどんどんノルディックに傾いてゆくことから見ると、素材の幅が最も広くなっています。伝統曲またはそれに近いものと二人のオリジナルがほぼ半分ずつ。

楽器編成では、nami のメインはピアノで、オルガンやシンセサイザーも使い、ハープはまだ一部で、新鮮な印象です。また、フィドル、ヴィオラ、チェロ、ダブル・ベース、それにパーカッションの共演陣も、大きく音楽を膨らませる方向で参加しています。後の2枚では、サポートは最小限に絞り、できるだけ二人だけで音楽を組み立てるようになります。

アレンジでも共演する楽器を積極的に使い、カラフルな音を重ねてゆく方向です。プログラミングによる打ち込みやシンセサイザーのような、電子音も音の表情やテクスチャをより多様にし、変化に富む効果を生んでいます。しかもアコースティックな楽器の音とごく自然にからんでもいます。後の2枚では、電子音の使用はほとんど無くなり、生楽器の音のシンプルな組合せが中心になります。

ここでの電子音の使い方に匹敵するものは、国産舶来を問わず、ヨーロッパのルーツ系の録音ではほとんどありません。この方面では惜しくも亡くなったスコットランドの Martyn Bennet が筆頭と言っていいと思いますが、彼は例外的な存在で、たとえば hatao のソロ《縁》での〈The Way East〉のように、成果を上げているのは外部、つまり電子音をメインに使って音楽を創っている人びととのコラボレーションがほとんどです。それに対して本作での電子音はルーツ・ミュージックをその表現の主なメディアとしているミュージシャンが自ら作っている。楽曲全体の見通しにおいて、電子音楽を創るのではなく、ルーツ・ミュージックを創るにあたって、電子音を使うことが望ましいとまず判断し、その上でではどういうサウンドをどのように入れてゆくかを考えています。

自然には存在しない音、あるいは存在はしても録音に使うことの難しい音をプログラミングなどによって電子的に生み出して利用することは、我々にとっては同時代の音楽の一部です。好むと好まざるとに関らず、音楽として耳に入らざるをえません。こういうものは心の底に蓄積されて、知らず知らずのうちに我々の感性の一部になります。電子音を耳にすると、反射的にそこに同時代性を感じるようになるわけです。音楽を生み出す側にとっても、従来利用できなかった音が利用できるのは創造性を刺戟されるでしょう。

このアルバムでの電子音の使用はもちろんもっと複雑な作用です。基本的には新しいシチュエーションを生み出す、音楽を新鮮なものにするところから出発していると思われますが、複数の狙いの中にはより遠い射程をもったものもあります。例えば〈Time Flow〉に現れる、湧き水が出るような、あるいは大きな泡が水面に浮かぶような、ぽわんという音。ビートないしリズムと呼ぶには大きすぎますが、一定の間隔で聞えるこの音は、一見楽曲とは無関係に聞えますが、その実楽曲をより広いフィールドにつないで、いわば自然界全体の中に拡大しています。タイトルにある「流れる時」の具体的な表象でもあります。

この曲では他にも様々な響きを持つ電子音の短かい断片やフレーズが鏤められ、重ねられています。その各々が上記のぽわんと同様に、それ自体聴いて愉しいだけでなく、全体としてある情景を生んでもいます。モザイクの一つひとつの断片が独自の美しさを持ちながら、全体としては全く別の情景を映しだすのに似ています。ただ、ここで浮かび上がる情景は固定されてはおらず、常に流動し、変幻しています。アニメ『イェロー・サブマリン』の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンズ」のシーンで空に浮かんだルーシーの姿は変わらぬまま、その内部が変幻してゆくのにも通じます。この曲の生みだす情景はもっとずっと複雑で、捉えがたい。聴くたびにまた異なった様相を見せてもくれます。無から有を生じさせる電子音だけでなく、深いリヴァーヴをかけたピアノ、そしてこちらも幾重にも重ねられた各種の笛の音からも、時の流れを外から眺めたとすれば見えるだろう幻想的情景が浮かびます。

各々はシンプルなフレーズや音を重ねて、複雑で奥行の深い情景を生み出すのは Shanachie が活用する手法でもあります。この手法は録音でこそ威力を発揮しますが、同じことをライヴでやるのはまず不可能です。後期ビートルズはそこにのめりこんで、ライヴをやめてしまいましたが、hatao と nami にとっては音楽活動の中心はあくまでもライヴでしょう。この後のアルバムでこうした手法が減ってゆくのは、ライヴで同じ効果を再現したり、さらに発展させることができないためかもしれません。

一方で、この曲は録音作品としてひとつの究極と言ってもよいと思います。これを味わうにはできるだけ性能と品質の良いシステムが求められます。システムの質が上がるほどに、新たな相が顕われてきます。そして何度聴いても面白い。聞き慣れたはずのフレーズやメロディや、あるいは音の断片が、聴く度に、はっと驚くほど新鮮に聞えます。これはルーツ・ミュージック、伝統音楽の原理とは対極にある、とも言えるでしょう。にもかかわらず、目指すところはルーツ・ミュージック、伝統音楽の目指すところに重なります。これは矛盾かもしれません。だとすれば、それは豊饒を生み出す矛盾です。

冒頭の二つのトラック以外の曲では、電子音や効果音はほとんど使われず、代わりにストリングスやパーカッションなど、生音を様々に重ねます。その点では〈Time Flow〉は本作全体の中でも例外的な楽曲なのですが、アルバム全体や個々のトラックを繰り返し聴いてゆくと、これが全体の中心であり、アルバムを象徴する曲になってきます。ここにはこのデュオが持つ様々な可能性のうちでも、最大の一つが凝縮されています。

〈Time Flow〉を一方の象徴とすれば、これに相対してもう片方の象徴になるのが〈Ridee〉です。フルートとピアノ、それにベースが加わるダンス・チューン3曲のメドレー。ここでは hatao がその卓越したテクニックをこれでもかというほどに繰り出してきます。しかもそれはテクニックのためにするものではなく、あくまでも楽曲の世界を拡張し、充実するためです。編成は最もシンプルですが、音楽が見せる表情と位相は複雑を極め、スピードもあって、これまたその魅力を十分に味わうには質の良いシステムで繰り返し聴きこまねばなりません。そして聴くほどに、奥へ奥へと惹きこまれます。

アルバムの全体は、この2つのトラックを二つの焦点として、その間に他のトラックがグラデーションを描く、という風に言ってみましょう。この録音には実に多様なものが大量に詰めこまれていて、全体像を把握するのが難しいのですが、こう言うことで、一つの足掛かりになると思います。

あるいは全体像を把握する必要は無いのかもしれません。気に入った、あるいは引っかかったトラックを繰り返し聴くだけで、十分見返りはあります。ひたすらに音楽の流れに身を任せているだけでも、やはり充実したリスニングはできます。その錯綜し、大きな変化に富む内容にもかかわらず、表面的には実に滑らかに、さらりと聴けてしまうものでもあります。そのように聴いて、何の支障もありません。

とはいえ、この後のアルバムを十分に味わうためにも、この二人の名義によるファースト・アルバムは、繰り返し立ち返る基準点になります。であれば、やはり一度は自分なりに「決着」をつけておきたくなります。そういうアルバムは実はそう多くありません。それはまた、音楽を聴く、味わう上での、おのれの器量を試されるものでもあります。言い換えれば、音楽を聴く、味わうとは自分にとってどういうことかを突きつけられるのです。

この文章を書きはじめるまで、これほどのものとは思っていませんでした。傑作の1枚とは思っていましたが、いわばリスナーとしての鼎の軽重を問われるほどの作品とは思いもよりませんでした。音楽の録音を言葉で紹介しようとすれば、自分なりにこういうものだと把握しなければなりません。それができていないことに気がつき、そして把握しようとして、それがひどく難しいことに気がついて、あらためて腰を入れて聴き直しはじめたのでした。

これで筆者なりに「決着」がついたか、と言われれば、否と答えるしかありません。とはいえ、この方向からたどれば何とか把握できそうだ、という展望は見えたように思います。これもまた錯覚かもしれませんが、それもまた愉しからずや。皆さんが、それぞれに「決着」を求めて、愉しくも充実した体験をされますように。

★編集部より
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Silver Line / hatao & nami

編集後記

原稿が不足しがちな本誌に、寄稿してやっても良いぞという愛読者の方はぜひご連絡ください。

ケルト音楽に関係する話題、例えばライブ&CDレビュー、日本人演奏家の紹介、音楽家や職人へのインタビュー、音楽旅行記などで、1000文字程度までで一本記事をお書きください。

頻度については、一度にまとめてお送りくださっても構いませんし、毎月の連載形式でも結構です。

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クラン・コラ:アイルランド音楽の森(月1回刊)
発行元:ケルトの笛屋さん
Editor :hatao

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