歌の小径の散策・その16 Green grows the laurel:おおしまゆたか

ライター:大島 豊

前回のリアム・ウェルドンの歌唱が、アイルランドの伝統歌、だけでなく、アイルランドのうたい手として他に類例のない特異なものであることは、再度、強調しておきたい。一番近い感覚のうたい手というと、イングランドのジューン・テイバーをあたしは連想する。テイバーのファースト・ソロ・アルバムのタイトルは《Airs And Graces》。慣用句で「高慢ちきな」を意味する。一つ間違えばまさにそう受け取られかねない、ひじょうに高潔なスタイルだ。ウェルドンの歌唱と共通するのは、その高潔な、一聴しただけでは、冷酷とも聞える世間離れしたところである。

ウェルドンのその歌唱を生んだのは、一つにはかれが幼少期に聴いて、歌の世界に引きこまれたのが、生家の裏庭に住んでいたトラヴェラーの一家や、そこに往来する仲間のトラヴェラーたちの歌だった、ということが効いているのかもしれない。トラヴェラーはジプシー/ロマとは一線を画すると本人たちは言っているが、生活のスタイルとしては同様の放浪民だ。定住民の間では失われてしまった伝統歌や音楽のレパートリィ、スタイルを伝えているところも共通する。ウェルドン自身はトラヴェラーの血を引いていたわけではないようだが、裏庭に住むそうした人びとに共感するものを備えていたと思われる。

で、今回聴いてみる〈Green grows the laurel〉は、アイルランドやブリテンのトラヴェラーたちの間で人気があったと言われる歌である。

これを聴いてみようと思ったのは、本誌執筆者の一人でもある松井ゆみ子さんから、こういう動画のリンクを教えられたからだ。

もともとは VARO の5月に出たセカンド・アルバム《The World That I Knew》の1曲。このアルバムは VARO の二人がこのジョン・フランシス・フリンを初め、様々なアイルランド・ネイティヴのミュージシャンたちを招いて共演した饗宴盤だ。VARO というのはフランス出身の Lucie Azconaga とイタリア出身の Consuelo Nerea Breschi の二人によるユニット。どちらもフィドルをよくし、歌もうたえる。アイリッシュ・ミュージックに惚れこんでダブリンに移住して2015年にユニットを作る。大陸の、それも異なる二つの伝統の流れを汲んだアプローチが面白い。ジョン・フランシス・フリンは自分のアルバムでもかなり実験的なことをやっているが、このビデオの洗練された手法に比べてしまうと、ほとんど粗野に聞えてくる。この組合せは実にはまっている。フリンがやろうとしてしきれなかったところを、VARO が巧妙に展開している。プランクトンもこういう人たちを招んでくれんかなあ。

〈Green grows the laurel〉は、アイルランドが起源と一応されている。しかし、非常に人気のある歌で、アイルランド、ブリテンからカナダ東部、アパラチアまで広まっている。ソースとしてはノーザン・アイルランドのエディー・バチャー、南イングランドの Louie Fuller、カナダはニュー・ブルンスウィックの Marie Hare などがいる。当然、ヴァージョンも数多く、その中には、”floating verse” つまり、決まり文句として、幅広い歌にはめこまれて歌われるテキストを含むものも少なくない。ほとんどそればかりというヴァージョンもある。

もっともこの歌にあって特徴的なのは「ラヴレター」のスタンザだ。想いのたけを綴って送った手紙に対して、あなたはあなたの恋人にラヴレターを送りなさい、わたしはわたしの想い人に送るから、と答えるというのは、他の伝統歌ではまず聴いたことがない。実際、この返答は、ラヴレターへの返事としては、これ以上厳しい拒絶はちょっと考えられない。そこはいささかアイルランドの感性からははずれるようにも思える。

この歌のもう一つの特徴、といってこの歌の特徴が二つだけというわけではないが、目立つものとして、月桂樹と菫の対比がある。菫は常に真実の愛の象徴とされてきた。一方、月桂樹の方は浮ついた恋と結びつけられるとともに、誠実、忠実さの象徴でもある。そして、アイルランドにあっては、独立の大義への忠誠のシンボルでもあった。

VARO はこの歌をドロレス・ケーンで聴いたとしている。とすれば、ジョン・フォークナーとの三枚目で最後のアルバム《Sail Og Rua(赤毛のサール)》所収のものだろう。アイルランドではレン・グレアム、アンディ・アーヴァイン、カーラ・ディロン、クリスティ・ムーアなどが歌っている。アーヴァインはパトリック・ストリートでの録音とともに、ライヴ・アーカイヴ集《Old Dog Long Road, Vol. 1》にソロの歌唱がある。

面白いのは、アイルランドのシンガーたちは、いずれもかなりあっけらかんとした、クールに突き放したアプローチで歌っていることだ。うたわれている失恋はかなり深刻で、主人公は相当に落ちこんでいると、詞を読むかぎりは思われる。主人公は男のヴァージョン、女のヴァージョンの双方があり、うたい手のジェンダーと必ずしも一致しない。つまり、女性シンガーが男に向かって、男性シンガーが女に向かって歌っているとは限らないが、どちらにしても、その落込みはほとんど回復不能にみえる。その歌が、軽やかに、そんな失恋などまるで気にしていない、という形で歌われるのだ。ことが深刻になればなるほど、これを茶化そうとするアイルランドの習性の現れかもしれない。あるいは、あまりにどん底なので、もはや嘆いている余裕などはなく、明るく歌うしかない、ということなのかもしれない。ほとんど唯一の例外はアンディ・アーヴァインのソロで、アンディはゆっくりと、失恋の痛手を舐めて癒すように歌う。

スコットランドのクリス・ドレヴァーのヴァージョンは面白い。詞はスコットランドのトラヴェラー・シンガーとして有名なジーニー・ロバートソンのものを、ブルース・モルスキィが歌うアメリカ版のメロディにのせる。伝統の枠から外れようとする方策の一つだろうか。

アメリカ版では完全にカントリーとして歌われているものもある。イングランドの John Shipp のように、ポップスの領域に踏みこんでいるものもある。と思えば、『大草原の小さな家』に出てくる音楽を集めたオムニバスに収められたものは、アイルランド伝統版そのままだ。時代考証の結果だろうか。

こうなるとオーストラリアやニュージーランドのヴァージョンは無いのか、と思うが、ストリーミングにはこの辺りのものはまだ出てこない。

例によって Tidal で検索し、出てきたものを片っ端から聴いていって、さて最後にまた VARO + ジョン・フランシス・フリンのヴァージョンを聴くと、今のところ、これがベストだとあらためて思う。(ゆ)