ライター:field 洲崎一彦
私が前回のクランコラで、いくらザンゲしてもし過ぎることはない。。。とつぶやいた直後の出来事でした。Twitter上でアイルランド音楽演奏者の2人が激しい音楽論争を繰り広げました。彼らはウチにもよく出入りしている人達です。と、言っても私は普段Twitterを見ないので、すでにまわりでウワサされていたのを聞いて遅まきながらTwitterをのぞきに行った次第なのですが。。。。
ウワサが先に耳に入ってきたものですから、どんなにすごい論争になっているのかと思いきや、まあ、音楽的に一家言ある者同士ならこれぐらいのぶつかりはあるのが当たり前だし、これは双方がどちらも音楽に真剣に向き合っている証なのだから、むしろ、活気があって良いではないか、というように考えていたのです。そう。もっとやれ!もっとやれ!と言う感じなのでした。
が、ウワサしているもっぱら若い人たちは、触らぬ神に祟り無しと申しますか何と申しますか、波風立てるということが、何かもうそれだけで秩序を乱す極悪なことだという空気なのですね。
このギャップ。これは私が前回のクランコラでザンゲしていた問題に通じるものではないかと直感した次第なのです。上記のとおり、私のとっさに浮かんだ発想は、双方が音楽に真剣に向き合っているのだからぶつかるのは活気があって良い、これでした。しかし、この発想こそが、私がザンゲした部分。音楽には音楽そのものの周辺の要因を楽しんでいる人達が大勢いるのだ、という考えが自分に欠落していたという反省、に直接関わる話ではないか、という事です。そして、私はあれほどザンゲした直後に、このTwitter話に対して、活気があって良いと反射的に反応してしまった。ここです。
カンタンに言えば、つい、やんややんやと彼らにエールを送ってしまった私は、それに目を背ける若い人たちにはとうていお友達になってもらえないということになるのではありませんか!
こんな有様では、前回のザンゲはただお友達がほしかっただけのスザキの方便だったのか、つまりスザキは偽善者ではないのか、と勘ぐられても仕方が無いではありませんか。ひえー!
うーん。全力で言い訳をします!
私らが大学軽音の時代などは(何十年も昔ですが)、あの先輩は口うるさいけど楽器ヘタやん!とか、後輩のだれだれは生意気やけど楽器上手いから説教しにくいな、とか、果ては、これこれの曲の冒頭コーラスの後のブレイクでジャーンと始まる所って拍を数えてるか数えてないかで酒のんで朝まで喧嘩したりとか(そんなもん演奏者に聞いてみないと正解はわからんやん)、非常にしょうむないことで波風立てまくってたという想い出があるので、楽器とか音楽やってる者同士が寄り合うとそれはお互いに気に入らない所も目に付くし、上手い下手というのはどうしようもなく存在してしまうし、話題にしない方が不自然という空気の中で、なにくそ!と練習する奴は練習するし、なんちゃってウケ狙いに走る奴は走るし、お祭り人間に徹する奴、ナンパに走る奴、といろいろいたのです。それぞれが何とかどこかに居場所をみつけようと四苦八苦してたような世界だったので、波風が立たない方が不自然に思えて来るという部分があります。
もうひとつ昔と違うのは、これはいろいろな分野で言われていることですが、何と言っても洪水のような情報ですね。例えば、昔は圧倒的に情報が少ない。今になって昔の憧れのミュージシャンが動いている様をYouTubeで初めて見て愕然とするようなこともしばしば。情報が無いのだから、音楽なら頼りになるのは音そのものしかないわけで、結局、ソレが弾けるか弾けないかが趣味的モチベーションを保つ唯一の要素になってしまう。それが、今のように情報の洪水にさらされることで、誰々のそのフレーズは何年製の何というギターにどのメーカーのどれぐらいの太さの弦を貼って、どんなアンプにどんなエフェクターを繋げて、どんなマイクでこれぐらいアンプから離してレコーディングされたものですよ、なんて言うことが即座に判ってしまうのですから、実際にソレが弾ける弾けない以外にも興味の対象が無限に広がる。
現に。私は高校受験から帰ってきて(さらにもっと昔です)TVをつけるとNHKヤングミュージックショーという番組をやってて、そこでピンクフロイドがポンペイの遺跡で演奏をしているのを見て凄い感動をしたのですが、その時にギタリストが出していたカモメの声のような音をどうやって出していたのかを、つい昨年ネットで知ったわけです。それで思わず中古でその機材を探して入手し、カモメの音を自分で再現して悦に入っておりました(曲を弾いてみたわけではありません笑)。
そして、今や、世界的にも市民権を得てしまったオタクという存在。元はアニメやゲームの周辺情報やレア情報を語り合う人達から発生したわけですから、今のようにすべてにおいてこれだけ情報が多いとあらゆる趣味がオタク的楽しみを広げて行く可能性があるわけです。
この事を思うと、アイルランド音楽は、それ自体のレア度、とてつもない曲数、そのひとつひとつにまつわるストーリー、と、あらゆる部分でオタク的楽しみへの門が開かれていると言えるのではないでしょうか。
例えば、ジャズはアフリカから連れて来られた黒人奴隷が持ち込んだリズムと西洋音楽が融合して生まれた、というような定説すら、アイルランド音楽にはまだ確固としたものが無いわけです。いくらでも、自分の好きなように研究できる余地が限りなくあります。
そういう風に、確かにこれはアイリッシュ音楽、いや、音楽全般でもいいんですが、音楽そのものの周辺に趣味的楽しみを発揮できる要素がこれほど多いのですから、同好の人達と共にそういう会話を繰り広げるだけでも相当に興味深く楽しいわけで、充分に趣味として成立します。それならば、例えば、楽器が上手いとか下手とか言うようなややもすると一部の人が傷つく可能性が少しでもある事柄はわざわざ表に出さなくてもいいじゃないか、という発想? に、なるのだと思えば、最近の若者たちのメンタリティも理解できないことはありませんね。
それが、時代が違うということなのですよ、と言われそうですが、でも取り扱っているのは同じ音楽ですやん、みたいなところがあります。しかし、もう何年も前から小学校の運動会では一等賞を決めずに皆で並んでゴールするなどという話がささやかれていたり(実際私が見た数年前の小学校の運動会ではそういうことは無かったです)、あらゆる事に差があること自体が差別につながるという昨今の風潮からすると、楽器の上手い下手も差別につながるということになるのでしょうか。すると、いい音楽、よくない音楽が存在することも差別につながってしまうのですか?
音楽ひとつ愛好するにも、なかなか難しい世の中になって来ましたね。
これ、ありますね。
あらゆる事に差があること自体が差別につながるという昨今のナゾの風潮。何故か降って湧いたようなLGBT法案とかもそうですが、耳障りは良いのだけれど、実生活に照らし合わせると、ん?となるやつ。SDGsとか言うのもね。。。エコという言葉では足りなかったんかな、とか。。。
今回はこういう問題を論じる場ではないので、このまま脱線するとあらぬ方向に話が飛んでしまいそうなので少し控えますが。いつの間にか、何やら正しそうなスローガンが現れて、みるみる間にそれが浸透していくこんな感覚は、それこそ、昔には経験したことがありません。
気が付くと、それらのスローガンにはもう反論も出来ないというような雰囲気作りが出来上がっているこの違和感。本当は、ほとんどの庶民がうすうす感じているのではないでしょうか。
しかし、そのうち、この違和感もどんどん薄められて、何も感じなくなる日が来るのでしょうね。昨今のこういう雰囲気の浸透スピードを見ていると、このあたりは非常に怖くなります。
それだけに、SNSなどに於ける波風(炎上?)を恐れてはいけないと思うのです。波風を恐れていると、世の中の価値観が知らぬ間に1色になって行く怖さを感じます。炎上上等。賛否両論が無い所に論争はあり得ないのですから、どんどん論争して賛否両論を喚起させて行く方が、多様性が守られると思うのです。多様性がそれほど大事か?はい。大事です。多様性が失われると自由がなくなりますよ。自由がなくなると好きな音楽も楽しめなくなるで!
なので、若い人達が忌避する波風というものは、実は世の中の平衡を保って行く装置としての機能があるのではないでしょうか。だから、若者たちよ判ってくれ~! なんとか判ってくれ~! ワシとお友達になってくれ~! そして、論争しよう!
なんか、これやったら若い人たちに、ケンカしようと言ってるように聞こえるかな笑。ちゃうよ!ちゃうよ!怖がらないでね!(す)