アイルランドの楽器メーカーMcNeelaが公開しているブログの中から、コンサーティーナ奏者のエリザベス・クロッティについて解説している記事を許可を得て翻訳しました。
原文:Elizabeth Crotty – The Saviour of the Irish Concertina
エリザベス・クロッティ – アイルランドのコンサーティーナの救世主
弊社のコンサーティーナに関するブログ(The Catastrophic Decline of Irish Concertina Playing 1930 – 1960) では、エリザベス・クロッティElizabeth Crottyという名前に触れました。彼女はアイルランドのコンサーティーナ演奏が最も厳しい時期にあったころ、その灯を守り続けた人物です。しかし、エリザベス・クロッティ、あるいは広く知られるようになった「ミセス・クロッティ」とは一体どのような人物であり、どのようにして伝統的アイルランド音楽という男性優位の世界で頭角を現すことになったのでしょうか。
クレアからやってきた女性
ミセス・クロッティは、1885年にリジー・マーカムLizzie Markhamとして生まれました。彼女の故郷は、クレア州Co.ClareクーラクレアCooraclareにあるゴワーGower,という小さな町です。
リジーは音楽的な家族のもとで育った音楽的な子供でした。姉のマギーもコンサーティーナを演奏し、母親はフィドルを弾きました。リジーはほぼ独学で演奏技術を身につけました。
リジーとマギーは、さまざまなハウスダンスや洗礼式、通夜、そしていわゆる「アメリカン・ウェイクAmerican Wake」で演奏しました。(「アメリカン・ウェイク」とは、アメリカに移住する人のために開かれた送別会で、その人が二度とアイルランドに戻らない、つまり事実上死んだも同然だと考えられていたため、劇的な性質を帯びていました。)
当時、ハウスダンスなどの集まりは、独身男性や既婚男性、そして独身女性のみに限られていました。既婚女性は家を守り、こうした集まりへの参加を控えることが求められていました。エリザベスは20代後半まで独身だったため、自由に社交の場やダンスに参加する大きな自由を満喫していました。
おそらく、この自由な経験と、当時としては遅めの結婚が、彼女のやや開放的な人生観を形作ったのでしょう。29歳のとき、彼女はアメリカから帰国した移民、マイコ・クロッティMiko Crotty(地元では「クラッティCrutty」と発音されていました)と結婚しました。夫の新世界的な考え方は、伝統的アイルランド音楽における女性の役割について、彼女自身が抱いていた進歩的な見解をさらに後押ししたに違いありません。
1903年頃のキルラッシュ広場
クロッティズ・オブ・ザ・スクエア
エリザベスとマイコは、クレア州キルラッシュKilrush, Co. Clareで一緒にパブを開きました。この店は、クレア州における伝統的アイルランド音楽の拠点となり、またミセス・クロッティが個人的に最も好んでいたアングロ・コンサーティーナの拠り所にもなりました。
実際、1935年にダンスホール法が施行されるまでは、コンサーティーナとフィドルはクレア州におけるアイルランド音楽の代表的な楽器でした。アングロ・コンサーティーナの地位はその後変わっていきましたが、ミセス・クロッティは演奏を続け、自らが経営する「クロッティズ・オブ・ザ・スクエアrotty’s of the Square」を拠点に、音楽セッションに参加したり、時には主導したりしていたものと思われます。
ミセス・クロッティは持病を抱えており、定期的にダブリンの病院に通っていました。彼女はこの通院に合わせて、トーマス・ストリートThomas Street.にあるパイパーズ・クラブPipers Clubにもたびたび足を運びました。
こうした訪問により、彼女はより広い伝統的アイルランド音楽のコミュニティと交流するようになりました。彼女は、その独自で飾り気のない演奏スタイルによって知られるようになり、称賛を集めました。そのスタイルは、より素朴で純粋な時代を思い起こさせるものと見なされました。この特徴に加え、彼女の温かくエネルギッシュな人柄も、多くの人々に愛される要因となりました。
ここでミセス・クロッティの演奏を少し聴くことができます。
(訳者注:演奏は原文の記事後半に掲載されています)
捉えがたい録音たち
1951年までに、ミセス・クロッティの評判は広まりつつありました。同じ年、RTÉ(アイルランドの国営放送局)は、放送人であり音楽収集家でもあるCiarán Mac Mathúnaを派遣し、彼女のコンサーティーナ演奏を録音させました。
これは、Mac Mathúnaにとって新しい移動式放送スタジオを使った最初の収録でした。彼はミセス・クロッティに深く感銘を受け、彼女の音楽をたびたび自身のラジオ番組で放送しました。これによって、彼女の音楽はさらに広い聴衆に届けられ、彼女の名声は確固たるものとなりました。
1954年、ミセス・クロッティはComhaltas Ceoltoirí Éireann(アイルランドの音楽家たちの協会)のクレア州支部の会長に選出されました。この組織は、アイルランドの音楽、歌、ダンス、そして言語を普及させることを目的とする主要な団体であり、一般には単に「コールタス」と呼ばれることもあります。
ミセス・クロッティは商業録音を一度も行わず、彼女の演奏はアーカイブ資料と、彼女が後世に伝えた楽曲によってのみ残されています。1999年、RTÉはMac Mathúnaが収録した音源を限定版CDとして発売しました。タイトルは『エリザベス・クロッティによるウェスト・クレアのコンサーティーナ音楽Concertina Music from West Clare by Elizabeth Crotty』であり、おおよそ2008年頃には絶版となりました。残念ながら、現在ではミセス・クロッティの演奏をオンラインで見つけるのはほとんど不可能になっています。
ミセス・クロッティの遺産
彼女の音楽はRTÉのアーカイブに大切に保管されていますが、彼女の精神は今も世界中のコンサーティーナ奏者たちの中に息づいています。もしできるなら、たくさんの女性アイルランド伝統音楽家たちが、静かに彼女に感謝の意を表したいと思うでしょう。
エリザベス・クロッティは、1960年に重い狭心症発作で亡くなりました。1998年、彼女の音楽を讃えるために「Éigse Mrs Crotty(ミセス・クロッティ・フェスティバル)」が設立されました。彼女が使用していたアンティークの骨製キーを持つLachenal製コンサーティーナも時折取り出され、再び演奏されました。
Michael Tubridyは石造りの囲いに足をかけ、ミセス・クロッティ自身のコンサーティーナでスロー・エアー「An Droighneán Donn」の旋律を奏でました。その古びたLachenalの楽器は、粘着テープで修繕され小さなキーは年老いた動物の黄ばんだ歯のように見えました。
― アイリッシュ・タイムズ紙 1998年8月18日
このフェスティバルはその後、「キルラッシュ伝統音楽&セットダンス・フェスティバルKilrush Traditional Music & Set Dancing Festival」として拡大され、より広範な音楽とダンスを取り入れるようになりました。ミセス・クロッティ自身も熱心なセットダンサーであり、年齢や病気に屈することなく踊り続けました。
画像出典:ITMA