音楽の場、の価値?:field 洲崎一彦


出典 Irish PUB field

ライター:field 洲崎一彦

前回、私は、これまで、音楽を演るのも聴くのも狂気をはらんでいる行為だと思っていたことを吐露しました。これもまあ、誤解を受ける言い方だったかもしれませんね。

この狂気というのは、気が狂っているという意味ではなくて、尋常ならざるエネルギー、というぐらいのイメージを強調するためにこんな言い方をしてしまったのでした。

私らの高校時代(1970年代半ば)を思うに、TVでは毎日歌謡番組をやってましたから、流行歌だけはみんな知ってる。が、なけなしの小遣いをためてLPレコードを買うような奴はクラスに2,3人いるかどうかでした。つまり、音楽を、尋常ならざるエネルギーを持ってして聴く人間というのはそれぐらいの比率だったというわけです。ラジオの深夜放送という独特の文化もまだ健在でしたから、TVには出て来ない最先端のフォークなどをこそっと聴いてる奴も2,3人はいた。これも寝不足に耐えて求める尋常ならざるエネルギーですよね。たぶん、これが、この時代の音楽趣味高校生の平均的な世相だったのではないかと思います。

TVで流行歌に親しんでいる層を除くと、意識的に音楽を聴くという層、つまり、音楽鑑賞を趣味とする層というのは、全世代を通じても実はそれほど多くはなかったのではないか。そして、その層が、少ない小遣いからレコードを買い、コンサートやライブに足を運び、一部の人はオーディオセットへの投資を惜しまないという次元に入ってくると、それはもう、尋常ならざるエネルギーですよね。

もしかしたら、この音楽鑑賞を趣味とする人々の絶対数は実は今も変わっていないのかもしれない。時代を経て(私個人的にはこの時代の転換点を作ったのがソニーウオークマンだと思っているのですが)、かつて、音楽などに見向きもしなかった層が雪崩を打って音楽を聴き始めた。そして、今やその層が、衣食住・音楽を体現し、音楽を聴く人間の絶対多数を占めてしまった。そうだと仮定すると、社会における音楽全体の価値が変質しないわけがない。というか、かつての趣味世界での音楽の価値というものが相対的に少数派に押しやられてしまう。

が、この変遷の中で、古い音楽趣味の人々も逆に、前述の尋常ならざるエネルギーを簡単に変質させる人達も出て来たのです。ソニーウオークマンの陰に隠れはいますが、カーステレオという装置の出現も無視できません。クルマがデートの必需品という風潮が醸造されて行き、バブル崩壊のその時まで、それが果てしなく膨れ上がるのです。ドライブデートにはBGMが必需品となり、センスのいい音楽を選んで詰め込んだカセットテープを作るのがモテる男の必勝スキルとなります。

そうなのです、こっちの風潮にするりと宗旨替えする音楽仲間を、当時、相当数目撃したものです。これもまた尋常ならざるエネルギーなのですが方向性がまったく違う笑。

そして、気がつけば、今まで音楽なんか聴いてると、女、子供のまねをする奴!と私たちに嫌味を浴びせて来た、体育会系のお兄さん達が、トレーニングのウオームアップにと称して耳にウオークマンのイヤホンを入れている光景に誰も驚かないというような雰囲気になって行きます。私たちは、世の中変わったなあと苦笑したものなのですが。。。

実は、私達の方が取り残されていたのです(苦笑)。

ここで、私達は、自分達の価値観が実はもうわずかな少数派であることにまったく気づかないまま、変質してしまっていることも知らずに目の前の音楽世界に如何にしてとどまろうかともがいていた。(キョネンマデココ)

と、すれば、ここへ来て、私たちにはいったい何が出来るのか?

1、自分達が培ってきた音楽的価値観を今の価値観に適応するべく改変すれば良いのですね。これが出来れば、何思い悩む事なく、大勢の仲間を得て一緒に音楽を楽しむ事が出来る。

2、自分達が培ってきた音楽的価値観を頑なに守り、今の音楽世界に微力でも一石を投じ続け、ひとりでもふたりでも同調者を増やして一緒に音楽を楽しむ道を模索する。

私は、永い間、無意識のうちに、2、の道を歩もうとして来たのではないかと思うのです。しかし、今になって、こういうことをやって来たのかと思い返すと、そりゃあ、しんどかったのも当たり前かと思いますね。

が、1、は私にとっては今まではまったく想像もしなかったことなのです。改変するって言っても何をどうすればいいのか?

前述のカーステレオ革命の時代にもまったくそっちには目もくれなかった頑固な私です。楽器を弾くことは同じなのだからそんなに大変なことではないでしょう?と、思われるかもしれませんが、どこを面白いと思うか、何を楽しいと思うか、そのものが違うのですから、せいぜいが、まあ形だけはやってみますけど、というようなふて腐れた態度にしかなりませんわな。

が、ここへ来て、私は、とある現実にぶつかって愕然とします。それが、前々回に書いた、突然目の前に現れたある日の我がfieldセッションの光景です。すなわち、「楽しさあふれる音楽のある空間」。これを、意外にも好ましく感じて目の前が開けるような思いをしてしまった自分の、反射的とも言える反応です。

私が反射的に反応したのは、音楽がある場、の価値なのかもしれません。音楽の価値と、音楽のある場、の価値は、微妙に違うものなのではないのか。

つまり、私は音楽的価値観を改変しようとするから苦しかったのであって、視点を変えて別の視座を持つだけでよかったのではないか。つまり、音楽のある場、に価値を見出すこと。

まさにそれが、Irish PUB field だったのではなかったか。自分が意識せずに永年やって来たことなのではなかったか。

そして、前回書いた、ライブ後のおおしまゆたか氏との談笑のひととき。この時は私たちは音楽論を堅苦しく語り合っていたというわけではありませんでした。ただ、音楽のある場、で、その空気の中で音楽的話題ではありますが雑談をして笑い合っていただけなのです。ただ、その底にあるものが、私もおおしま氏も尋常ならざるエネルギーによって音楽に関わって来たという共通の何かがあるのではないかと私が感じていたということ(私の勝手な思い込みかもしれませんが)。この前提が、その、音楽のある場、を尋常ならざる愉しみの空気で満たしていた。

音楽そのもの、と、音楽のある場、の価値。これは厳密には別の視点のものですが、このように両輪になることでプラスアルファのパワーを発揮するのではないでしょうか。

私の悟るべきは、価値観を改変するのでも、二種類の価値観を切り替えるのでもなく、こうやって、車輪の両輪となることで同じ次元に立てることを知ることだったのですね。

しちめんどくさい理屈をこねくり回してしまいましたが、前々回に言いたかったことが、ここまで来て、なんとかかんとか言語化出来たような気分です。

こんなトシ食ってから、このように目が開くことになるなど想像もしていませんでした。現実の右目は白内障でほぼかすんでいるのですが笑。(す)